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寧夏回族自治区呉忠市 ~ 人口 127万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  霊武郡城(霊洲県城、霊州県城)



【 呉忠市の歴史 】

現在、この市内に住むイスラム教徒は、総人口のうち 52%、実に66万人に達するという。

30000年前の旧石器時代に、呉忠市一帯にてすでに人類の生息跡が確認されている。その後、 羌や戎、匈奴などの古代遊牧民族らが放牧生活を送る時代が長らく続く。

紀元前221年、秦の始皇帝は中国全土を統一後、将軍の蒙恬を派遣して、この地域に割拠していた匈奴勢力を北へ駆逐することに成功する。そして紀元前214年、黄河上流域に34県を新設し、統治制度の整備を進める。その34県城の中で、富平県城が寧夏平原地帯の最古の城郭都市とされている。かつての古城は現在の呉忠市の西南部にあった。

前漢朝の第二代皇帝の恵帝(劉盈)の治世下の紀元前191年、黄河にあった三角州内に霊洲県城が設置される。その古城跡こそ、現在の呉忠市中心部にあたるものである。
後漢時代、霊洲県は霊州県へと改名された。

南北朝時代の北魏王朝は薄骨律鎮を設置し、後に霊州を置いた。隋唐王朝時代もこの統治形態が踏襲されるも、当時からこの地は霊武郡、より簡単に霊武、と呼ばれていたらしい。
唐代の第2代目皇帝「太宗」は、646年、この地まで出向いた際、異族に謁見している。しかし755年、第9代皇帝「玄宗」の時代、安史の乱が起こり、皇帝は四川省への避難を余儀なくされる。その翌年の756年、玄宗は皇太子の李亨に位を譲り太上皇となった。この当時、都の長安は反乱軍により占領されていたため、第10代目皇帝となった李享は、この霊武の地、つまり霊武郡(もしくは霊州)にあって、反攻の機会を伺うこととなる。こうして、この一時期ではあるが、霊武(今の呉忠市中心部)が中国全土の政治、軍事の中心地となっていたわけである。757年末にようやく長安を奪還して復帰するも、唐の国力低下は明らかとなっており、西域、北方領土を次々と失い、かつまた皇帝権力も大幅に凋落し、宦官政治がはびこるようになる。
唐王朝はその後も生きながらえ、907年まで続くことになった。その後、中国は再び五代十国の内戦時代に突入していく。

それから100年後、中国全土を再統一した北宋王朝の統治下、北方で力をつけてきた西夏王朝により、 この霊武郡は奪取されて、下の地図にある「西平府」として、西夏国に編入される。

呉忠市

西夏国初代皇帝であった李元昊(1003~1048年)は、王都を興慶府(現在の銀川市)に定め、大陸中国の統治制度をならって官位制度の整備、学校の創設による教育の普及、軍備増強など、国家の基盤固めに尽力している。ほとんどが山岳地帯と草原、砂漠であった西夏国にあって、実際に主要な経済活動ができたのは、この呉忠市から銀川市に至る黄河上流域だけであり、同国の最重要地帯となっていたようである。
しかし、1224年、チンギスハンにより西夏国は滅亡させられ、その後、南宋を降伏させて、中国全域を支配した元王朝により 寧夏路が設置される。この名称が以後も使用され、1929年に寧夏省が成立することになる。

呉忠市

なお、この霊武古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名や地名に残されているのみである。古城路、古城巷、秦橋村(城外西の堀川にあった城門橋名)、秦堡橋(南側の城門橋名)、中華橋、超城北門店、左営小学(兵士の駐屯所跡)、古城鎮。


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