BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 廈門市 ~ 人口 370万人、 一人当たり GDP 90,000 元


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  廈門城(同安県城)



【 廈門市の 歴史 】

280年に呉を降した西晋王朝により、三国時代が統一された後、旧呉領の行政区再編が進められることとなる。その一環として、282年、今の廈門市旧市街地に同安県が新設され、晋安郡(郡役所は福州市に開設)の管轄下に配されるも、間もなく廃止され、その行政区は南安県に編入されることとなる。

時は下って、唐代の 803年、南安県の南西地域一帯が分離され、大同場が設置される。唐朝末期の 885年には、地元有力者らからの依頼もあり、泉州城長官の暴政を正すべく、王潮、王審邽、王審知の 3兄弟をリーダーとする農民義勇軍が泉州城を包囲する。1年がかりの包囲戦の末、翌 886年8月に泉州城の占領が成るも、泉州城内の人口は大激減して荒廃した状態であったと言われる。この直後、クリーンな政治センスを認められた王潮は、福建観察使の陳巖の推挙もあり、唐朝廷から泉州刺史に任命されるに至る。

廈門市

しかし時代の流れは止められず、907年に唐朝は滅亡し、群雄割拠の五代十国時代が始まる。王潮、王審邽、王審知の3兄弟が威武軍節度使として 泉州(後に福州城も奪還)を本拠地に統治を司ってきたことから、民衆らの支持もあり、 909年、王審知(王潮は直前に病死した)が閩王として皇帝を称し、閩国を建国する(王都を福州城とした)に至る。大同場(後の廈門市)もまたその領土下に組み込まれた。この閩朝の治世下で、実に 600年以上ぶりに、廈門市域に再び、県城(泉州同安県:現在の中心部旧市街地)が開設されることとなる(933年)。しかし、王審知の死後(925年)、その閩国も度々の皇族間の権力闘争が起き、945年に南唐により滅ぼされる。947年には旧閩国の残党勢力と 北に隣接した呉越国の連合軍が南唐を破り、この地は呉越国の版図下に組み込まれる。 また、別の旧閩国の残党勢力は南の泉州城へ逃れ、 清源軍節度使として引き続き、独立勢力を保つこととなる。その支配エリアは、 今の 泉州市、莆田市、漳州市一帯であった。

華北地方では後周朝より禅譲を受け、960年に北宋を建国した趙匡胤が着実に勢力を拡大しつつある中、旧閩国の残党勢力を保った清源軍節度使は 963年、平海軍に改称する(同安県は引き続き、ここに所属)。このとき、陳洪進が平海軍節度使に就任する。
しかし、勢いに乗る北宋により南唐朝も圧迫を受け、ついに 975年に滅亡する。直接、北宋と国境を接するようになった平海軍節度使の陳洪進もまた 978年、北宋朝に帰順するに至る。こうして 平海軍全土(同安県を含む)もまた北宋領土に組み込まれることとなった。併合後すぐに、北宋は平海軍を 泉州(以後、元代は泉州路、明代は泉州府へ改編)へ再改称している。最終的に北宋は 979年に北漢を滅ぼすことで、中国統一を成し遂げる。

廈門市

上の地図は宋朝を滅ぼした後に建国された元朝時代の行政区を表している。 厦門市一帯は同安県のままであった。

そして、明朝初期の 1387年、同安県城の大改修工事が進められ、厦門城が形成されることとなる。 そもそも「厦門」とは、「国家という巨大建造物のための門」という意味が込められており、以後、 厦門の名が通称となっていく。

清代初期の 1650年、鄭成功が軍を率いて厦門城に駐屯したこともあり、1655年に思明州を設置している(1662年に台湾を占領し、本拠地を移転している)。しかし、1680年には清軍が占領することとなり、思明州はすぐに廃止される。1683年には清軍の総攻撃を受けた台湾の鄭氏政権も降伏するに至り、ついに清朝による中国統一が成る。翌 1684年、厦門城内に台厦兵備道と 道尹駐台湾府(1728年に台湾道へ改称される)の役所が新設され、福建省の管轄下に置かれる。1686年には泉州府の出張所が厦門城内に開設され、そして 1727年には、興泉道(後に興泉永道へ改称)の役所が泉州城から移転されてくる。ここに、今の 泉州市、莆田市、厦門市、永春州、大田県一帯を統括する行政都市・厦門が誕生することとなった。

廈門市

清朝末期の 1903年、厦門の鼓浪嶼淪の地が外国商人や公館のための公共租界として開放される。
1912年に中華民国が建国されると、対外貿易の重要拠点の一つとして重要視され、思明県(後に思明府へ昇格)が新設されるなどする。
日中戦争時代の 1938年5月~1945年8月には、日本軍の占領下にあり、その重要な港湾都市となっていた。

廈門市

かつて五代十国時代より設置されてきた 同安県城跡(明代より廈門城となる)であるが、現在ではその城壁も城門も残されていない(一部、東側の河沿いの城壁のみ、同安古城壁として遺跡保存あり)。しかし、今でも路地名や地名にはしっかりとかつての記憶が刻み込まれていた。県口路、南門路、城西路、環城北路、環城東路、東橋、洗墨池路、同安鐘楼、スーパー南門生鮮店、北門旅館など。

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