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湖北省咸寧市 ~ 人口 250万人、 一人当たり GDP 38,000 元


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  咸寧県城(永安県城、永安鎮城、永安場)
  嘉魚県城
  通山県城
  崇陽県城
  通城県城
  蒲圻県城(223年に呉の孫権により築城)
  赤壁の古戦場跡(三国志記念公園)
  呉軍の屯田地と狼煙台の跡地(陸遜営塞)



【 咸寧市の歴史 】

西周朝の成王(姫誦)の治世下(紀元前1030年~紀元前993年)に、楚の鄂王が諸侯に封じられる。このときから、咸寧市一帯も楚国の領土下に組み込まれる。
紀元前350年、楚の宣王(在位:紀元前369~前340年)である熊良夫が、涂口(今の武漢市江夏区金口)に沙羡県を新設する。現在の咸寧市一帯もここに帰属された。

咸寧市 咸寧市

その楚国も紀元前223年に秦により滅ぼされる。秦国は旧楚の領土を4郡に分割し、直接統治体制の導入を図った。このとき、今の咸寧市エリアは南郡に帰属された。上地図。


前漢時代の紀元前201年、南郡から江夏郡が分離・新設され、14県を統括することとされる。このとき、郡役所は西陵県城(今の武漢市新洲区の西部)内に開設され、現在の武漢市一帯は鄂県、石陽県、沙羡県などに分かれての県域に帰属された。
このとき、今の咸寧市中心部、嘉魚県、蒲圻県の一帯は、引き続き、沙羡県(今の武漢市江夏区金口に設置)の行政区に帰属され、崇陽県、通城県の一帯は南郡の隽県の統括下に置かれた。

咸寧市

後漢末から三国時代にかけて呉の領土下に組み込まれる。江東から勢力拡大を図る孫策が江夏郡太守の黄祖を撃破したのも、まさに沙羡県南部の現在の咸寧市一帯であった。
下の地図は、208年秋の赤壁の戦いの全体図。咸寧市の長江沿いはまたしても戦場となった。

咸寧市

魏の曹操が崩御し、直後に曹丕が後を継いだ221年、呉の孫権は江夏郡と、豫章郡、蘆陵郡の3郡の東部一帯に武昌郡を新設するも、間もなく廃止され、そのまま江夏郡に編入されることとなる。

222年に夷陵の戦いで蜀軍の侵攻を、さらに同年冬に魏の曹丕による攻撃を受けるも、呉の孫権は耐え忍び、最大の危機を脱する。この翌223年、呉の孫権は蜀と魏の最前線地帯となった荊州の防備網を固めるべく、一帯に散らばる城塞の修築工事を進めた。この一環で、沙羡県の南西部が分離され、蒲圻県が新設される。西梁湖の南側に新たに県城が築城されたわけであるが、湖面上に多くの蒲草が繁茂する様から、孫権自ら命名したとされる。
同時に、沙羡県城が廃止され、県役所が北の夏口城へ移転される。

呉も末期となった257年、沙羡県長官(夏口城内に駐屯)が西晋に降伏し、荊州の長江防衛ラインの一角が崩壊することとなる。そのまま西晋軍の侵攻を受けた呉は、280年に全面降伏するに及び、三国時代は終焉を迎える。
すぐに旧呉領の行政区再編が進められ、江夏郡は武昌郡へ改称される。また、同時に沙羡県の南西部に增益蒲圻(現在の咸寧市中心部の発祥となる)が新設される。

東晋第三代皇帝の成帝(司馬衍)の治世(325~342年)の前期、華北からの多くの難民らが夏口一帯へ定住するようになり、その集落管理の必要性から、もともと華北にあった汝南郡が移転される形で、その郡役所が上蔡県城内(別名:悬瓠城、今の河南省駐馬店市)から沙羡県城へ転出される。下地図。

咸寧市

孝武帝(司馬曜)の治世下の378年、汝南郡は汝南県へ降格される。今の咸寧市一帯は汝南県に属した。しかし、脆弱なまま命を長らえた東晋王朝であったが、ついに420年、恭帝は劉裕から権力禅譲を迫られ、滅亡するに至る。こうして、南北朝時代の宋朝がスタートされた。

その宋朝の治世下の454年、荊州、湘州、江州、豫州の一部ずつが分割され、郢州が新設される。
同時に江夏郡も復活設置され、咸寧市エリアは郢州江夏郡に所属された。

南北朝時代を統一した隋の文帝は、郡制を廃止し、全国統治に州県制を採用する。この一環で、589年、江夏郡が鄂州へ改編され、汝南県は江夏県へ改称される。
このとき、咸寧市一帯は江夏県に属した。隋第二代皇帝の煬帝の治世下、鄂州が江夏郡へ戻され、江夏郡江夏県下の帰属となる。

唐代初期の621年に、江夏郡が鄂州へ改称される。 768年には江夏県の南部にあった金城郷、豊楽郷、宣化郷の3郷がまとめられて永安鎮となる。ここに現在の咸寧市中心部で初めて鎮城が築城されることとなる。永安の地名は、永遠安寧を祈願して命名された。

南北時代の後唐朝の治世下の928年、永安鎮が永安場へ降格される。

咸寧市

南唐朝の治世下(上地図)にあった953年、嘉魚県が新設され、また955年には、永安場が永安県へ昇格される(引き続き、鄂州に帰属した)。ここに、初めて県役所が開設されたことになる。

南唐を滅ぼした北宋は、964年に通山県を、975年に崇陽県を新設する。
最終的に北宋は979年に北漢を滅ぼし、中原を再統一する。その治世下の1007年、永安県を咸寧県へ改称する。宋王朝の太祖である趙匡胤の墓所となった永安陵と地名がだぶることから、『易教』の中の文言であった「万国咸寧」が、「永安」と近い意味に使用されていたことに着目され、改名が進められたという。
また1072年には崇陽県から通城県が分離・新設される。

元代、咸寧県、嘉魚県、通城県、蒲圻県、崇陽県は湖広行省武昌路に、通山県は江淮行省蕲黄道(後に湖広行省興国路へ移籍)に帰属された。

明代、清代には、武昌府の管轄下に置かれた。


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