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河南省新郷市 ~ 人口 605万人、 一人当たり GDP 28,000 元


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  汲県城(汲邑城、汲郡城、前漢初期の功臣・公上不害の汲国王都)&牧野の古戦場
  伍城県城(【2代目】汲県城、衛州城、衛輝路城、衛輝府城)
  获嘉県城
  共城(西周代の共伯和の居城跡、共県城)
  新郷県城
  枋頭県城
  胙城県城(南燕県城)



【 新郷市の歴史 】

紀元前14世紀ごろ、商(殷)王朝の第19代国王であった盤庚が、奄の地(今の山東省済寧市曲阜市)から殷(今の安陽市殷都区小屯村)へ王都を移転する。これが後の2006年7月、世界遺産に登録された殷墟遺跡である。
紀元前11世紀ごろ、後に周の武王となる姫発が、諸侯連合軍を率いて、商(殷)国王の紂王(帝辛)と牧野(今の新郷市牧野区と鶴壁市淇県の一帯)で大決戦を繰り広げ、大勝する。この戦いで紂王の率いる商(殷)軍は壊滅し、殷都まで逃走するも自刃に追い込まれ、ここに600年続いた商(殷)王朝は滅亡する。

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(西)周を建国した武王は、功臣や皇族らを各地の諸侯に封じ、封建体制の確立を図る。このとき、河南省の洛陽周辺には邶国、鄘国、衛国の3国が新設され、新郷市一帯は鄘国の領土下に組み込まれた。
初代国王の武王の死後、その子の成王が第2代国王に即位するも、まだ幼く、叔父の周公旦が摂政となり国政を取り仕切る。これに不満を持った皇族らや旧商(殷)王朝の残党勢力らが、紂王の子であった武庚を総大将に擁立し、三監の乱を起こす。 3年がかりでの反乱鎮圧後、諸封国家の再編が行われ、邶国と鄘国が衛国に吸収合併される。このとき、新郷市エリアも衛国の版図下に組み込まれた。下地図。

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なお、西周の第9代国王であった厲王の圧制が国難をもたらし、家臣団に王都を追われ国王不在となった14年間(紀元前841~前828年)、皇太子(後の宣王)を盛り立て西周王朝を建て直した共伯和(衛国王の衛僖侯の長男)が有名であるが、彼の居城が今に残る共城跡である。現在の新郷市輝県の東部にあった。下地図。

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春秋時代期、衛国は小規模な領土ながら、黄河流域の政治、経済、文化の中心地区に位置し続け、周王室を支える役回りに徹する(上地図)。時が進むにつれ、周囲の諸邦国家が力をつけ出し、最終的には北に隣接する晋国の属国下に組み込まれることとなる。

戦国時代期の紀元前440年、その晋国から分裂した魏国は王都を鄴城(今の河北省邯郸市臨漳県)に開設する。新郷市一帯はその王都近郊に位置したため、汲邑(今の新郷市衛輝市汲城村)や寧新中邑(今の安陽市安陽県郭村郷西郭村)など複数の城郭都市が形成された。

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紀元前257年、秦の昭襄王が派遣した白起将軍が魏国領の奥深くまで攻め込み、寧新中邑の地を制圧する(上地図)。秦軍はこの地を安陽県と改称した。最終的に紀元前225年、魏は秦により完全に滅ぼされる。あわせて、魏の属国下に置かれていた衛国(含:今の新郷市一帯)も秦領に組み込まれた。

秦の始皇帝は紀元前221年に中原を統一すると、全国に郡県制の導入を進める。このとき、新郷市一帯は当初、河東郡の東端に、後に河内郡に帰属することとなった。

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その秦朝も紀元前206年に項羽により滅ぼされる。覇王となった項羽が各地の諸侯に領土を分与した際、司馬卭を河内一帯の殷王に封じる(上地図)。しかし、同年中に漢王の劉邦が反項羽を掲げて挙兵し関中へ進出してくる。
翌紀元前205年、殷王の司馬卭も劉邦軍に降伏し、その旗下で項羽軍と戦うこととなる(下地図)。このとき、劉邦は旧殷国を自身の直轄領とし、河内郡を新設する。あわせて戦国時代期から続いた汲邑(今の新郷市衛輝市汲城村)が汲県へ昇格された。

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なお、河内郡に居住し続けた司馬卭の子孫の一人こそ、400年後の三国時代に活躍する司馬懿とされる。

劉邦により前漢朝が建国された当時、建国の功臣の一人であった公上不害(中国語名:三馬正敏)は中央政界で太僕に任じられていたが、陳豨の討伐戦により戦功を挙げたため、最終的に紀元前196年、汲侯に封じられ、汲国を建国することを許される(終侯と自称した)。現在の新郷市エリアは汲国の版図下に組み込まれた。最終的に紀元前193年、公上不害はこの地で病死している。

後漢時代の130年ごろ、汲県長官であった崔瑗が、同じ新郷市衛輝市汲城村の付近に新たに汲県城を築城し直す。

三国時代期、魏国の朝歌郡の管轄下に置かれた。
西晋時代の266年、朝歌郡から汲郡が分離・新設される。汲郡役所は汲県城内に開設され、汲県、朝歌県、共県、获嘉県を統括することとされた。下地図。


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南北朝時代の北魏の治世下の386年、汲郡役所が枋頭県(今の鶴壁市浚県枋城村)へ移転されるも、488年には再び、汲県城内へ戻される。
東魏の治世下の540年夏、西魏の一部の将軍らが東魏へ投降してくる。このとき、陳城(今の鶴壁市浚県の中心部)に義州が新設され、伍城郡、伍城県など7郡19県を統括することとされた。
北斉時代に義州が廃止されるも、伍城郡などはそのまま継承される。

北周時代の578年に汲郡や伍城郡が廃止され、衛州が新設される。衛州役所は朝歌県城内に開設され、汲県や伍城県などを管轄した。この直後、汲県が廃止され、その行政区が陳県城へ吸収合併される。ここに、後漢時代から続いた汲県城(今の新郷市衛輝市汲城村)は廃城となる。

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この北周の朝廷政界で隋公の楊堅が出世する中、580年、静帝の下でついに左大丞相となり、北周王朝の実権を完全掌握するに至る。これに反対する軍閥らが反乱を起こすも、楊堅は武力鎮圧に成功する。このとき、反乱の拠点となった鄴城は徹底的に破壊されてしまい、ここに開設されていた相州、魏郡、鄴県の各役所は鄴城の20km南にあった安陽城(今の河南省安陽市)へ移転されることとなる。

最終的に翌581年、楊堅は静帝から権力を禅譲させて皇帝に即位し、隋王朝を建国する。
586年、伍城県(今の新郷市衛輝市の中心部)が汲県へ改称される。同時に、旧汲県城は廃城とされた。また589年には、南燕県が胙城県(今の新郷市延津県胙城村)へ改称されている。
隋第2代皇帝の煬帝の治世下であった607年、衛州が汲郡へ改称され、郡役所が衛県(今の鶴壁市浚県衛賢)に開設された。汲県はここに帰属される。下地図。

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唐代の627年、汲郡から衛州へ戻され、その州役所が汲県城(今の新郷市衛輝市の中心部)へ移転される。汲県、衛県、共城県、新郷県、黎陽県の5県が配された。
五代十国時代と宋代も、この行政区が踏襲される。

金代には衛州河平軍となり、1186~1188年には衛州役所が共城県城(今の新郷市輝県固囲村城上地区)へ移転され、最終的に1215年、胙城県城(今の新郷市延津県胙城村)に移される。
元代の1260年、衛輝路総管府が新設され、路役所が汲県城内に開設される。輝州と淇州、そして汲県、新郷県、获嘉県、胙城県の4県を統括した。

明代、清代には衛輝府となり、府役所は引き続き、汲県城内に開設された。汲県、胙城県、新郷県、获嘉県、淇県、輝県、延津県、浚県、滑県、封丘県、考城県の11県を管轄することとされる。

清末期に勃発した太平天国の乱では、衛輝府が入った汲県城も戦火に包まれた。下地図。

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