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江西省新余市 ~ 人口 120万人、 一人当たり GDP 62,000 元


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  新渝県城(新喻県城、新喻州城)



【 新余市の歴史 】

新余市中心部の北東側にある拾年山で発見された大量の石器や土器類から、すでに5000年前の新石器時代より人類の生息が確認されているという。

春秋時代には、呉国の領土下に置かれた。この呉国に仕えた『孫子の兵法』で有名な孫武は、わずか3万の軍勢で20万の楚軍を大破し、一時期、楚国の王都を陥れ、領土の大部分を併合した逸話が残されているが、彼の死後、急激に呉国は弱体化し、間もなく、秦国の支援を受け復興した楚国により、江南の地も再奪取されてしまうこととなる。最終的に紀元前473年、呉国は越国の攻撃により滅亡する(臥薪嘗胆のエピソード誕生)。 また、その越国も楚国に滅ぼされ(紀元前334年)、そして戦国時代末期の紀元前223年、楚国もまた秦国により滅亡に追い込まれる。

紀元前221年に中原の統一を成し遂げた秦の始皇帝は、全国を36郡に分けて、中央集権統治の導入を推進した。このとき、現在の新余市一帯は九江郡に帰属された。
間もなく秦朝も滅亡し(紀元前206年)、前漢朝が建国される(紀元前202年)と、九江郡より分離・新設された豫章郡の管轄下にあった宜春県に属された。

新余市

時は三国時代。呉領下にあった267年、宜春県から新渝県が分離・新設される(安成郡に帰属)。一帯を流れている袁河の中流域は当時、渝水と呼称されていたため、ここから命名されたとされる。

東西晋時代から始まった華北地方の戦乱を避けるべく、南朝が支配した江南の地には多くの避難民が流入した。この時代、新渝県エリアの人口はすでに5万を超えており、南方でも屈指の巨大都市に成長していたという。

隋代の589年、新渝県は呉平県へ吸収合併され、591年にはその呉平県も宜春県へ編入され消滅する。しかし、598年に再び新渝県が再設置される(最初は袁州に、607年以降は宜春郡に所属)。

唐代初期の622年、新渝県は再び廃止され、新渝県の東北部分が分割され始平県(今の臨平県)が、さらに新渝県の南西部が分割され、西呉州県が新設される。すぐ後の624年、始平県と西呉州県が廃止され、再び新渝県が再設置される。
742年、地元官僚が「渝」の字を「喻」と誤記して報告書を朝廷へ提出してしまったことにより、以後、新喻県と通称されることとなる(引き続き、宜春郡に帰属したが、758年以降は袁州に属した)。

新余市

宋朝下の992年、臨江軍の行政区へ移籍される。
元代の1295年、域内の居住人口が5万戸を超えていたため、新喻州へ昇格される(そのまま臨江路の管轄とされる)。

明代の1369年、全国的に州制が廃止されたため、新喻県へと戻され、引き続き、臨江府の下に置かれた。
清代も明代の行政区がそのまま継承された。

新余市

なお、現在の新余市中心部(渝水区)にあった新渝県(新喻県)城跡であるが、三国時代末期の呉の治世下にあった267年、宜春県の東部から分離・新設されて以来の悠久の歴史を誇る土地柄である。隋代と唐代の一時期、県役所が廃止された期間もあったが、市内を流れる渝水の水運交易都市として栄えたようで、元代には新喻州にまで昇格されたほどであった。

かつて江南の一大経済都市として繁栄した城郭都市も、今日ではその遺構は全く跡形も残されていない。わずかに路地名や地名に昔の名残が感じられるだけであった。沙灘口路、老東街、小北街、魁星閣路、鳳凰門路、冶金路(かつての鍛冶屋通りか)、西門郵便支局など。


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