BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 宣城市 ~ 人口 270万人、 一人当たり GDP 41,000 元


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  宣州城(宛陵県城、丹陽郡城、宣城郡城、寧国府城、宣州府城、宣城県城)
  【初代】広徳県城
  広徳州城(綏安県城、石封県城、広梁郡城、【二代目】広徳県城、広徳郡城、広陽県城)
  寧国県城
  旌徳県城
  建平県城(郎溪県城)
  涇県城
  安呉県城(今の宣城市涇県安呉郷)
  懐安県城



【 宣城市の 歴史 】

殷(商)王朝、周王朝時代、現在の宣城市一帯は、長江下流域に発展した良渚文化圏に属する古代文明が浸透しており、同時代の石器や陶器類が複数、出土しているという。

春秋戦国時代、一時的に強勢を誇った呉国が、現在の宣城市域の 南東一帯(現在の 広徳市エリア。当時、「桐汭」と通称されていた)を領有するも、越国が呉国を滅ぼし、また楚国が越国を亡ぼすことで、最終的に楚国の版図下に組み込まれる。

秦の始皇帝が天下を統一すると、全国に郡県制を導入する。この時、鄣郡に属した。
前漢時代の紀元前 109年、鄣郡が 丹陽郡(揚州に帰属)へ改編されると、その郡役所が 宛陵県城(今の 宣城市宣州区)へ移転される。もともと鄣郡役所が開設されていた場所には、故鄣県(現在の 浙江省湖州市 安吉県)が新設され、同じく丹陽郡に統括されることとなった。下地図。

宣城市

後漢末、孫呉により、故鄣県(現在の 浙江省湖州市 安吉県)が分割され、【初代】広徳県が新設される(同じく丹陽郡に帰属)。その命名の由来は、「皇恩浩蕩、帝徳広大」の文言から取られたという。当時、県役所は、今の広徳市中心部の南西郊外に開設されていた。

西晋時代の 281年、丹陽郡の南部が分割され、宣城郡と呉興郡が新設されると(揚州に帰属)、宣城郡都は宛陵県城が兼務した(下地図)。以降、宣城郡城(宛陵県城)は、代々、州都、郡都を担い、エリア中核都市として清末まで君臨し続けることとなる。
この時、広徳県も宣城郡に加えられるも、故鄣県は呉興郡側に帰属されることとなった(下地図)。

宣城市

南北朝時代、劉宋王朝の治世下の 422年、広徳県、故鄣県、長城県、陽羡県、義郷県の 5県の一部が分離され、綏安県(現在の 広徳市中心部の桃州鎮)が新設される(そのまま宣城郡に帰属)。すぐ後に、綏安県は石封県へ改称される。

梁王朝の治世下の 555年、広梁郡が開設されると、郡都は石封県城に定められ、石封県と広徳県を統括した。

陳王朝時代の 558年、広梁郡が陳留郡へ改称されるも、隋代初期の 589年、陳留郡は廃止される。同時に、広徳県、安吉県、原郷県、故鄣県の 4県も廃止されて、石封県(現在の 広徳市中心部の桃州鎮)へ吸収合併されると、石封県は綏安県へ再変更され、宣州(2代目皇帝・煬帝の治世下で、宣城郡へ改編)に帰属された。

宣城市

唐代初期、宣城郡は再び、宣州へ戻される。唐代中期にさらに一度、宣城郡へ改名されるも(742年)、後に宣州へ戻されることとなる。
唐代初期の 620年、綏安県城に桃州が開設されると、元々の綏安県の行政区が 3分割され、綏安県、桐陳県、懐徳県の 3県が誕生する。これらは、そのまま桃州に統括された。しかし、間もなくの 624年、桃州が廃止されると、同時に桐陳県と懐徳県も廃止され、綏安県へ再統合される(宣州に再移籍)。757年9月、綏安県が【二代目】広徳県へ改称される。

五代十国時代、呉国の治世下、広徳県は宣州寧国軍に属した。南唐国の版図下に組み込まれると西都江寧府に帰属される。950年に広徳県城に 広徳制置司(北宋時代に廃止)が併設されると、そのまま江寧府に属した。

北宋朝が五代十国時代を再統一すると、975年、広徳県は再び、宣州に帰属される。 979年、広徳県(現在の 広徳市中心部の桃州鎮)が広徳軍へ昇格されると、広徳県 1県のみを統括した。 988年、広徳県の北西部に位置した 桐郷、昭徳郷、臨湖郷、原通郷、妙泉郷の 5郷が分離され、建平県が新設される(同様に広徳軍に帰属)。
997年、宣州は江南路に、1018年には江南東路に統括されていたが、広徳軍は 1130年に新設された江南路建康師府に当初、属した。翌 1131年ごろ、広徳軍も同様に江南東路に帰属する。下地図。

宣城市

南宋時代の 1166年、宣州が寧国府へ改編される。
これは 1162年、南宋初代皇帝の 高宗(1107~1187年)が、遠い親族であった 趙眘(1127~1194年)を即位させて、2代目皇帝・孝宗に就けた際、趙眘が皇宮に入る前に、この宣州城下の 寧国軍(寧国軍節度)に駐在していたことから、宋王朝の慣例により、皇帝に即位する前に居住していた 地(「潜邸」と通称された)、もしくは出生した地を、ことごとく府へ格上げさせる慣例に従って、寧国府が開設されたことに由来する。

元代の 1277年、寧国府が 寧国路総管府(府役所は、宣州城が兼務)へ改編され、さらに後に 寧安府、宣城府、宣州府へ改名されていく。また同年、広徳軍が広徳路へ昇格されると、路総管府が広徳県城に開設され、引き続き、広徳県と建平県の 2県を統括した(江浙行中書省に所属)。

宣城市

1356年6月、朱元璋の率いる決起軍が広徳路城を攻略する。占領後、広徳路は広興府へ、広徳県が広陽県へ改編・改名される。引き続き、広興府は広陽県と建平県の 2県を統括した(江南行中書省に帰属)。

翌 1357年4月、朱元璋は寧国路城をも陥落させると、寧国路を寧安府へ改編させる。1361年4月には宣城府へ、1366年には宣州府へと変更され、 1367年に再び、寧国府へ戻されることとなった。そのまま 宣城県城(今の 宣城市宣州区)が府都を兼務した。
1368年8月、江南行省が廃止されると、広興府(間もなく、広徳府へ戻される)は京師(王都・南京)に直轄される。1371年9月、広徳府は広徳直隷州へ降格され、1380年4月には、広陽県が廃止され、広徳州が県行政区を直轄した。1403年、広徳州は(南直隷)南京に直轄される。下地図。

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清代初期の 1645年5月、清軍が江南を平定すると、広徳州は 南京 の直轄を離れ、江南左布政使司に帰属された。1667年、安徽布政使司が新設されると、宣州府と共にこれに統括される。
中華民国が建国された直後の 1912年、全国で道州府が廃止されると、宣城県や広徳県は他県とすべて平等化され、一律に安徽省に直轄されることとなった。


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