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河南省許昌市 ~ 人口 435万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  禹州城(夏王朝の王都「陽城」跡、韓の王都跡、陽翟県城、潁川郡城、鈞州城)
  許県城(後漢末の曹操の居城、曹丕により許昌県城へ改称、許州城、潁昌府城、許州府城)
  長社県城(潁川県城)、三国志古戦場(黄巾軍との長社の戦い。曹操の初陣)
  長葛県城
  鄢陵県城
  襄城県城
  潁陰県城
  三峰山の古戦場跡(金朝とモンゴル軍との一大決戦場)



【 許昌市の歴史 】

許昌市の地名は、かつて存在した許国に由来する。
なお、そもそも「許」と命名された背景はさらに奥深く、中国古代の三皇五帝時代の伝説上の人物とされる許由が、この地で家畜の放牧をしながら隠遁生活を送っていた折、その高徳を聞き及んだ、時の夏王朝の初代国王・堯帝が許由に帝位を譲渡しようと宮廷に招聘する。しかし、これを固辞した許由は「その話は聞かなかったことにする」という意味で、潁水の河畔で自身の耳をすすいで洗ったという逸話に端を発するという。

許昌市

夏王朝の堯帝はその後、同じく高徳で名を馳せていた禹を第2代国王として迎えることとなる。禹が行った黄河の治水工事が高く評価されての王位継承であった。
この当時、禹は夏部族が割拠する夏(禹州)の地の頭領であり、この地で建国宣言を行ったことから実質的な初代皇帝とも指摘されている。禹は自身の本拠地であった当地を国都に定め、8年間、中華全土の政治を取り仕切った。これが陽城(今の許昌市禹州市)と通称される夏王朝初の王都である。

その後、夏王朝の王都は上の地図の通り、斟鄩、老丘、原、帝丘、西河の地へと遷都されるも、現在の許昌市一帯は常にその王都近郊に位置し、当時の中華文化圏内でも先進的エリアとして君臨し続けた。

なお、最初の王都が開設された陽城(禹州城)の南5kmの場所には、鈞台(夏台)が設けられており、禹が正式に夏王朝の建国を宣誓した式典場跡とされる。その後も軍事施設などへ転用され、最終的には監獄となっていた。

夏王朝末期、最後の皇帝であった桀により、商国の頭領であった天乙 (湯)がここに投獄されている。
天乙 (湯)は後に釈放されると、表面上は夏王朝への服属を装いながら、伊尹と仲虺を左相と右相に任命するなど、自身の家臣団や協力者を募り、夏王朝の打倒準備を進めていくこととなる。こうして鳴条の戦い(今の新郷市封丘県の東部)で夏軍を撃破した天乙 (湯)により、商(殷)王朝が建国される。下地図。
桀は捕縛され、南巣(今の安徽省合肥市巢湖市)の地へ追放される。3年後に亭山で憤死した。

許昌市

商(殷)王朝の初代皇帝となった湯は王都を亳の地(今の洛陽市偃师市翟鎮鎮に残る二里頭遺跡)に定める。上地図。
その直後、功臣や旧皇族らを各地の諸侯に封じて、領土を分与する。このとき、かつての禹王の末裔が夏亭(今の許昌市禹州市鴻暢鎮夏寺村)に封じられている。後に、諸侯の一人であった厲がこの夏の地方に封じられたので、一帯は厲国(櫟国)と通称されるようになる。

周王朝の治世下、豊かな土地柄を背景に多くの諸侯らが割拠する。有熊氏(今の許昌市長葛の中心部)、昆吾(今の許昌県中心部)、康(今の許昌市禹州の一部)などの小国家が乱立された。

許昌市

春秋時代期の紀元前636年、北方系の異民族であった翟人(狄人)が厲国(櫟国)の地に入植し、陽城を陽翟へ改名する。これは、この城郭が嵩山の南側に位置したことに由来するとされる。

戦国時代期、許昌市一帯は韓、魏、楚の3か国が国境を接する兵火必至の地となる。
紀元前408年に韓の景侯がその国都を平陽城からこの陽翟城へ遷都する。紀元前375年に韓が鄭国を滅ぼすと、一時的に国都を新鄭城へ移転するも、5年後の紀元前370年、後を継いだ懿侯により、王都は再び陽翟城(今の許昌市禹州市)へ戻される。下地図。

許昌市

最終的に秦の始皇帝により紀元前230年、この韓の王都・陽翟城が攻略され、韓の全領土は秦国に併合されるに至る。すぐに旧王都跡は陽翟県城へ改編され、ここを郡都とする潁川郡が新設された。許県(今の許昌市許昌県)、陽翟県、長社県(今の許昌市長葛)、鄢陵県、襄城県など12県を統括することとされた。

許昌市

紀元前221年に中原を統治した秦の始皇帝も紀元前210年に死去すると、翌年より各地で反秦の農民・軍閥らの反乱が頻発するようになる。このとき台頭した劉邦は、紀元前208年、項羽と2軍に分かれて秦討伐軍を率いることとなる。秦の都・咸陽への進軍途上、劉邦軍は潁川郡都の陽翟県城をかろうじて攻略することに成功している。上地図。

最終的に楚漢戦争に勝利した劉邦は、紀元前202年に前漢王朝を建国する。その翌年、許県から潁陰県(今の許昌市中心部【魏都区】)が分離・新設される。潁川郡はそのまま継承され、郡下には、許県、潁陰県、陽翟県(引き続き、郡役所を併設)、長社県(今の許昌市長葛市老城鎮一帯)、鄢陵県(今の許昌市鄢陵県彭店郷古城村)、襄城県などが配された。

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後漢時代末期の184年初夏、黄巾軍と後漢朝廷軍+義勇兵らによる大決戦が長社県城一帯で行われる(長社の戦い)。このとき、華々しく歴史の表舞台にデビューしたのが曹操であった。上地図。

後漢の朝廷軍(総大将:朱儁)は潁川郡下で、波才の率いる10万以上の黄巾軍に大敗を喫し、皇甫嵩の守る長社城へ敗走し籠城する。すぐに長社城は完全包囲されるも、2か月にわたる長期戦で兵糧が欠乏した波才の黄巾軍に対し火計を決行し、ついに皇甫嵩らは包囲網の突破に成功する。このとき敗走する黄巾軍に遭遇し、さらに追い打ちをかけたのが曹操(30歳)の率いる一団であった。最終的に陽翟県城へ波才ら黄巾軍を追い詰め、せん滅に成功する。

その後、河北に勢力を伸張させた曹操は、196年、後漢朝の王都であった洛陽を占領するに至り、そのまま献帝を自身の居城であった許県城(今の河南省許昌市許昌県)へ転出させる。以後、許県城(潁川郡役所が陽翟県城から移転されていた)が220年に後漢朝が滅びるまでの最後の首都となった。こうして曹操は後漢朝廷の丞相として、権勢を振るっていくこととなる。

許昌市

後漢朝が滅亡した後の三国時代期、許昌市一帯は、魏国下の潁川郡(豫州に帰属)の管轄下に置かれた。潁川郡は許県(郡都を兼任)、潁陰県、鄢陵県、長社県などを統括した。曹丕により魏の王都が洛陽城へ遷都されるも、引き続き、許県城(潁川郡の郡都)は魏領下の5大都市の一つとして君臨し続けた。
221年には曹丕により「魏王朝の基礎は許県城にある」という詔が発せられ、許県が許昌県へ改称される。以降、この名称が今日まで継承されることとなる。


時は下って、隋代初期の582年、長社県は潁川県へ改称され、さらに586年には、潁川県から長葛県(今の許昌市長葛の旧市街地)が分離・新設される。
この隋唐代に、潁川郡は許州へ改編される。

さらに時代は進み、北宋代の1080年、許州は潁昌府へ昇格される。
北宋から華北一帯を奪った金朝の治世下の1153年、潁昌府は許州昌武軍へ改称される。
また1184年、陽翟県が禹州へ改称される。これは、陽翟県城(今の許昌市禹州)の南側に、中華王朝の起源とされる夏王朝の式典場跡「鈞台(夏台)」があり、この地で禹王が建国宣誓を発布したことに由来された。
そして、後にこの地がまさに金朝自身のとどめを刺す場所となってしまうのであった。

許昌市

1211年から始まるチンギス・ハーン率いるモンゴル軍の南下政策により、金王朝は多くの領土を失っていく。1215年には中都(今の北京市)を陥落され、華北地帯の大部分を喪失した(上地図)。金朝は王都を開封へ遷都し、引き続き、抵抗を続ける中で、1232年に双方の主力軍による一大決戦が行われる。

それが、今の許昌市禹州市禹県の南西にある三峰山での戦いである(下地図)。
総計15万を集めた金朝の主力軍であったが、当時、金軍が陣を敷いた三峰山一帯は大雪に見舞われ、兵士らの甲冑や武器が使用不能状態となってしまう。この機をついて、チンギス・ハーンの四男であったトルイの率いる4万のモンゴル軍が三峰山一帯へ金軍を追い詰め、完全包囲してしまう。凍傷と食料不足、度重なる小競り合いで金軍は大ダメージを受ける。その後、モンゴル軍はわざと鈞州城への逃避ルートを設けて金軍をここへ誘導し、戦意喪失していた金兵をおびき出して、せん滅作戦を決行する。このとき、金軍の名将として各戦地で活躍していた移剌蒲阿は北へ逃走を図るも、望京橋でモンゴル兵に捕縛される。また、総大将であった皇族の完顔合達は残兵の数百騎を引き連れて、かろうじて鈞州城内へ逃げ切ることに成功する。しかし、間もなくモンゴル軍により鈞州城も攻略され、完顔合達は処刑されてしまう。

許昌市

ここに金軍はその主力を喪失することとなり、2年後の1234年に首都・開封城を攻められ、皇帝の死により金朝は完全滅亡に至るのであった。
先の三峰山の決戦でモンゴル軍により捕縛されていた移剌蒲阿は、度々、モンゴル軍への帰順を勧誘されるも拒否し続け、最終的に1232年7月に処刑されている。

モンゴル民族による中国統治が行われた元代、許昌県城内に許州役所が開設され、長社県、長葛県、襄城県を統括することとされた。鄢陵県は開封府の直轄下へ移籍された。

許昌市

明代の1368年、長社県が廃止され、許昌県に吸収合併される。このとき、許州下には長葛県や襄城県など4県が配された。
あわせて、禹州が鈞州へ改称される。かつて夏王朝時代に開設されていた鈞台(夏台)に由来し、中華民族復権を印象付ける意味で改名が実施されたとされる。
引き続き、許州と鈞州は開封府の管轄下に置かれた。上地図。

しかし1575年、鈞州は禹州へ戻されることとなる(明第13代皇帝であった朱翊鈞【神宗】の漢字にダブったため)。明代末期、李自成の率いる農民反乱軍がこの一帯を占領すると、禹州を均平府へ改名している。

清代初期には、許州、禹州ともに河南省に属した。
1724年、許州は直隷州へ昇格され、長葛県は引き続き、この管轄下に属された。鄢陵県もそのまま開封府の直轄を受けた。
1735年、許州はさらに許州府へ昇格され、臨潁県、郾城県、襄城県、長葛県、密県(今の鄭州市新密市)、新鄭県を管轄することとされる。引き続き、許州府、開封府ともに河南省に属した。

許昌市

1912年に中華民国が成立すると、許州は許昌県へ、禹州は禹県へ降格される。この2県含め、長葛県なども河南省豫東道に帰属された。鄢陵県は河南省の直属となる。

1926年に道制が廃止され、区制が導入されると、許昌県城は河南省第二行政区の中心都市に指定される。ちなみに、河南省第一行政区の中心都市は鄭県城(今の鄭州市)となり、長葛県や禹県はここに属した。鄢陵県は引き続き、河南省の直轄下に置かれた。


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