BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 徐州市 ~ 人口 865万人、 一人当たり GDP 62,000 元


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  彭城県城(大彭氏国の王城、彭城邑城、徐州城、彭城郡城、銅山県城、徐州府城)
  沛県城
  豊県城
  広威県城
  呂県城(呂梁洪鎮城)
  広戚県城(徐州市沛県の南東部)
  留県城(留城鎮城)



【 徐州市の 歴史 】

徐州市一帯では、すでに 6000年以上前より人類の生息が確認されているという。
伝説によれば、三皇五帝時代の黄帝が最初に王城を構えた地が、この徐州の地とされる。

堯王の治世時代(紀元前 2000年ごろ)、五帝の一人であった顓頊の子孫である 籛鏗(彭祖。中国の神話の中で長寿の仙人と比喩される)が当地に封じられ、大彭氏国を建国させる。その王城が今の市中心部に開設され、後に徐州市が彭城と別称される背景ともなっている。

大彭氏国は、夏王朝の時代も生き延び、東方で強大な勢力を誇り、時に夏王朝を助けて西河の反乱を鎮圧するなどの功績を挙げた。
また、続く殷王朝の建国にも尽力し、その前期まで同王国内で強大な影響力を有し、邳族や姺族らの反乱鎮圧に尽力するなど大いに貢献したとされる。下地図。

徐州市

しかし、ついに殷代後期の紀元前 1208年、大彭国は 殷(商)王朝の武丁により攻め滅ぼされてしまう。実に、800年もの間、君臨した巨大封国であった。

殷王朝の最後の国王となる紂王は、その臣下の崇侯虎を当地に封じ、代わって崇国を建国させる。大彭国の王城跡には、彭城邑が開設された。

東周代、当エリアには呂国が建国される。

徐州市

西周時代、徐国が建国されており(上地図)、時の君主であった偃王が王都を 徐城(今の 江蘇省宿迁市泗洪県)から北部へ遷都し、彭城武原県(今の 徐州市邳州市)にある東山の山裾へ移住する。 これに付き従った民衆、兵士らが数万人も同じく東山一帯に移り住んだことから、この山間部は徐山と呼称されるようになる。

春秋時代、呂国(上地図の呂城一帯)が完全に宋国の属国として組み込まれると、宋国下の彭城邑となる。上地図。

徐州市

紀元前 576年8月に宋国の共公が崩御すると、弱体化する宗国からの人材流出がますます加速する。右師(右大臣)の職にあった華元までもが晋国へ逃亡してしまうと、残された 左師(左大臣)の魚石ら以下、大司寇の向為人、少司寇の鱗朱、他に向帯と魚府ら主要な朝廷中枢の人材は、こぞって楚国へ亡命してしまう。

まさに瀕死の危機となった宋国へ、ついに紀元前 573年6月、鄭国の成公が侵攻を開始すると、同じく宋国をねらっていた楚国の共王の率いる軍も進軍を開始し、両軍は宋国の曹門郊外で会合を持ち、共同で宋国へ攻め込むこととなる。朝郏、幽丘などを攻略し、ついに彭城を占領すると、楚国は自国に匿っていた 魚石、向為人、鳞朱、向帯、魚府らを宋国の朝廷中枢へ復帰させ、楚軍を率いた 王子の子辛は 300両もの戦車部隊を残留させて帰国の途に就く。

半年後の紀元前 572年2月、続いて晋国が主導する諸侯連合軍が宋国の彭城を包囲すると、彭城の宋国暫定朝廷は晋国へ投降してしまう。
晋国軍は楚側の傀儡政権を担った 魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府らを晋国へ連行し、瓠丘城(今の 山西省運城市垣曲県の南東部)内に幽閉する。 以後、宋国は晋国の半属国として存続するも、さらに半年後の紀元前 572年秋、再度、 楚王子の子辛が鄭国と共同で宋国に侵攻し、呂城と留城を占領する。 鄭国軍は犬丘城を陥落させ、宋国は再び楚国に半属国化されることとなった。
紀元前 512年、呉国の侵攻を受け、宋国内で存続されてきた徐国が正式に滅亡に追い込まれる。

紀元前 385年には、韓の文侯が宋国へ侵攻し、彭城を陥落させ君主の休公を捕虜としている。

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最終的に紀元前 286年、斉国、楚国、衛国の連合軍が宋国へ侵攻し、斉の閔王が宋国を滅ぼすも、2年後の紀元前 284年、楚国が淮河の北岸一帯へ侵攻し、彭城などを占領してしまう。以後、楚領の下、西楚と通称された。上地図。

しかし、紀元前 224年、秦配下の 大将軍・王翦が淮河の北岸一帯の楚領に攻め込むと、そのまま秦軍に占領されることとなる。直後に、彭城邑が彭城県へ改編される(泗水郡に帰属)。 以後、秦との 2年間の直接対決の後、ついに楚国は滅亡に追い込まれることとなった(紀元前 222年)。

紀元前 219年に秦の始皇帝が全国巡遊の際、彭城を通過する。このとき、古代中国の王権の象徴である九鼎が水没したエリアという話を聞きつけ、千人以上の人夫を動員して、泗水をくまなく探させるも、結局、見つけられずじまいとなる。

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秦の始皇帝が紀元前 210年に死去すると、全国で一気に戦乱が勃発する。上地図。

紀元前 208年、秦嘉が景駒を立てて、仮の楚王に即位させ、 彭城の東側にある 留県城(現在の 徐州市沛県の南東部)を拠点とする。その結果、 旧楚国の 大将軍・項燕の子であった 項梁(項羽の叔父)に「陳王は敗死したのに、その死が公になる前に、秦嘉は偽の王を擁立し、陳王への忠義を無下にした」という口実を与えてしまい、項梁軍が 秦嘉、景駒らを攻め滅ぼし、彼らを戦死に追い込む。下地図。

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直後に項梁は、楚懐王の孫であった熊心の元を訪問し、楚懐王へ即位させる。 項梁はもともと楚国の貴族の末裔であったため、彼が楚王を擁立したことは皇室への忠義を通したとして正当化された。

紀元前 207年、楚の 懐王(熊心)が、王都の彭城から全国に反秦挙兵のための大号令を発する。同年、咸陽城は落城し、秦朝は滅亡することとなる。

紀元前 206年には、諸侯同意の下、懐王が義帝へ即位し、彭城県城がその楚王朝の王都とされるも、同年 4月、項羽が西楚霸王として独立すると、その王都を彭城県城とし 9郡すべてを奪い取ってしまう。この項羽の王権奪取が、各地の諸侯に項羽打倒の大義名分を与えることとなった。

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楚漢戦争(上地図)を制し前漢朝を建国した劉邦は、紀元前 201年、その実弟の劉交を楚王に封じると、楚国を建国させる(36県を統括)。楚国はこの彭城県城を王都とした。
以後、前漢時代を通じ、彭城県城は 楚国(徐々に縮小される)の王都として継承されていく。下地図。

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後漢時代に入ると、楚国は廃止され、さらに縮小された彭城国の王都とされた。下地図。

後漢末の献帝の治世時代、曹操は徐州の州役所を 郯県城(今の 山東省臨沂市郯城県)からこの彭城県城へ移転し、彭城は徐州と通称されるようになる(彭城国は廃止)。
三国時代期もそのまま、彭城県城は曹魏に属した。

西晋時代も、徐州刺史の 州役所(7県を統括)は引き続き、彭城県城内に併設された。
以後、南北朝時代を通じ、各王朝は彭城国や徐州を設置したが、いずれもその中心都市は彭城県城が兼務し続けることとなる。下地図。

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東晋朝時代の 411年、今の江蘇省鎮江市に「徐州」が新設されると、もともとの 徐州(彭城県城)は「北徐州」へ改称される。下地図。

南北朝時代の 442年、宋朝の統治下で、先に新設された徐州が「南徐州」へ改称され、もともとの北徐州が「徐州」へと戻されることとなった(州都は引き続き、彭城県城内に併設)。
彭城郡下には彭城県など 5県が配された。

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北魏が淮北エリアを占領し、徐州(彭城県城)を領土に組み込むと、徐州は引き続き、彭城郡(彭城県など 6県を管轄)など 7郡を統括した。続く東魏朝、北斉朝も、この北魏の行政区が踏襲される。

隋代初期の 583年、全国で郡制度が廃止されると、彭城県は直接、徐州の統括下に置かれた。

2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、全国で州が郡へ改編されると、徐州は彭城郡へ変更されるも、引き続き、彭城県城が中核都市に選定され、郡下の 11県を統括することとなる。

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唐代初期の 621年、彭城県は河南道下の徐州に帰属した(上地図)。
玄宗の治世時代の 742年、徐州が廃止され、彭城郡が復活設置されると、引き続き、彭城県など 7県を統括した。
758年、再び、郡制度が廃止され、もとの徐州へ戻される。唐代中期以降は、武寧軍節度使が併設される。

五代十国時代、各王朝はそのまま徐州を継承し、彭城県城を州都として、配下の 7県を統括させた。

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北宋時代の 997年、全国の行政区が 実行路、行、県の 3層体制へ改編されると、徐州は京東路歸徳府に帰属し、配下に彭城県など 5県を統括した。上地図。

1127年に金朝に追い詰められ、宋朝の皇族らが長江の南岸へ脱出すると(下地図)、淮北エリアは金軍に占領される。その統治下、彭城県は引き続き、徐州に帰属された。

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元代には全国が行省 11と路 185へ改編されると、徐州は河南省汴梁路に帰属され、配下には 彭城県、萧県、永固県の 3県のみ統括した。
1265年、彭城県が廃止され、その旧県域は徐州役所の直括地となる。同時に、徐州は降格され、河南省下の歸徳府汴梁路に帰属した。
1348年、徐州は再び昇格されて、徐州路(1353年に武安州へ改編)となる。

明代初期、武安州は再び、徐州へ戻され、鳳陽府に帰属された。
1381年、徐州は 京師(王都・南京の近郊エリア)の直轄地となる。

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明代において、徐州は直隷州となり、徐州城の周辺と、豊県、沛県、萧県、碭山県の 4県を統括した(上地図)。

清代初期、全国が 18省に区分されると、徐州は当初、江南布政司(省レベル。1667年に江蘇布政司へ改編)に帰属された。
清代中期の 1733年、徐州は江南省、そして江蘇省直轄の 直隷州(別の州に管轄されない、独立州)となり、 1733年に徐州府へ昇格される(1州 7県を管轄)。下地図。

徐州の府役所は、かつての彭城県跡地に開設された 銅山県城(今の徐州市の中心部)内に併設されることとなった(下地図)。その命名の由来は、当時、域内の微山湖の中に銅山島という小島があり、この島名からとったという。

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管轄区には、銅山県、萧県(今の 安徽省宿州市萧県)、碭山県(今の 安徽省宿州市碭山県)、宿遷県(今の 江蘇省宿遷市の中心部)、豊県(今の 徐州市豊県)、沛県(今の 徐州市沛県)、睢寧県(今の 徐州市睢寧県)の 7県と、邳州(州都は今の 徐州市邳州市邳城鎮)の 散州(非独立系の州) 1つが配された。下地図。

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中華民国が成立した 1911年、府制が廃止され、県制がそのまま継承されると、 銅山県は直接、江蘇省の管轄を受けることとなった。1913年に徐海道が新設されると、 銅山県城(今の徐州市)が道都を兼務した。
この中華民国時代、現在の徐州市は国家 8大都市の一つに名を連ねるほど重要視されていた。

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