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江蘇省塩城市 ~ 人口 725万人、 一人当たり GDP 58,000 元


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  塩城県城(塩瀆県城、塩城郡城、射陽郡城)
  便倉鎮
  阜寧県城(廟湾鎮城)
  東台県城(西渓鎮城)



【 塩城市の歴史 】

20000~30000年前の古代においては、塩城市一帯は完全に海であったが、徐々に海岸線が後退し、陸地部分が拡大していったようである。

塩城市阜寧県施庄郷東園村で発掘された 100あまりの石器や骨器類から、 5000~6000年前の新石器時代には、すでに塩城市エリアで狩猟採集生活を主とする原始的な集落が複数、存在していたことが分かっているという。
その民族は、古代の夷部族の一派であったと考えられている。伝承によると、中原で夏王朝が勃興すると、遠征軍が度々、夷部族らが跋扈する東方地域へ派兵されたという。

塩城市

続く、殷王朝の時代も、長江と淮河のエリアには強大な夷人の勢力が勃興し、双方は度々戦火をまじえたと伝わる。続く周王朝も夷部族の統治に手を焼き、度々、反乱が起こったわけであるが、都度、平定されていった。こうした中原文明圏による現地侵略を通じて、中原の先進文化が徐々に東部の沿海地方一帯に伝播され、夷人と中原民族との文化融合や混血も進んでいったと考えられている。

春秋時代に入ると、呉国が長江と淮河エリアへ勢力を伸長し、古代淮夷族の勢力圏の大部分が呉国の領土に組み込まれることとなる。しかし、紀元前473年に呉国が越国に滅ぼされると、越領に併合された。
戦国時代に入ると、越国を滅ぼした楚国の領土となる(紀元前334年)。

秦が中原を統一すると、淮夷族らは皆、農民として住民登録され、淮夷族らは封建統治機構の郡県制に組み込まれていった(新設された東海郡下の東陽県に帰属、下地図)。

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秦朝末期、東陽県から平安県と射陽県(今の江蘇省揚州市宝応県一帯)が分離・新設されると、現在の塩城市域はこの臨淮郡下の射陽県に統括されることとなる(下地図)。「射陽」の地名は、付近にあった射陽湖から命名されたとされる。

前漢時代の初期、初代皇帝の劉邦(紀元前256~前195年)により、項羽の叔父にあたる項伯が射陽侯に封じられる(下地図)。
項伯は、劉邦と張良(?~紀元前186年)に依願されて、項羽との鴻門の会(紀元前207年)を設定した人物であり、また同会での剣の舞にて劉邦の命を救っている(下関係図)。これに感謝した劉邦は、楚漢戦争後(紀元前202年12月)、項伯に劉姓を下賜し、劉纏と改称させた。紀元前192年に没すると、その子の劉睢が跡を継いだが、紀元前186年に射陽侯を罷免され下野している。

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前漢朝の第7代皇帝の武帝の治世時代の紀元前119年、未だ中原から遠く離れて統治が十分でなかった旧准夷族らの土地開発を強化し、かつその統治機構を絶対化すべく、射陽県(今の江蘇省揚州市宝応県)の東部で、黄海に面する一帯を分離して、塩瀆県が新設される(ともに臨淮郡に帰属。下地図。当時は海岸線上に位置した)。
「塩瀆」の地名は、古代より製塩産業が盛んで、さらに塩の運搬用に掘削されていた運河(塩河)が一帯を貫通していた土地柄を反映し命名されたという。
しかし、県設立の当初は、県名こそあるが県城がない状態で、射陽県の長官が代理で両県を統括することとされていた。間もなくして、県城が設置されたと考えられている。その場所は、1957年秋に発見された漢代の都市遺跡とされる麻瓦坟遺跡(塩城市内の環城北路の北部に位置する沙井頭地区。遺跡面積は南北約 900m、東西約 500m強)と考えられている。
これが、現在の塩城市域における最初の県城設置となった。

後漢時代、塩瀆県は広陵郡の帰属下へ移転される。

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この前後漢時代を通じて、製塩業がますます盛んとなり、塩瀆県下は非常に豊かな土地柄となっていた。
後漢末の172年、会稽郡下の句章地方で、許昌という農民が自らを陽明皇帝と自称し、一帯の農民らを率いて反乱を起こすと、呉郡下の富春県出身の孫堅がこの討伐戦で戦功を挙げ、この塩瀆県の初代県丞に任じられる(『三国演義』から)。

孫堅が塩瀆県にて政務をとった期間、よく治めたようで、領民らに非常に支持されたとされる。このとき、孫堅の父であった孫鐘が一帯の農地を開墾し、井戸や水路などを設けており、近年になってその水田脇にあった古井戸の遺跡が発見されたという。今日でも塩城中学校(塩城市亭湖区迎賓北路61号)の校庭内で保存されているという。

また、この後漢末期の一時期、当時すでに、名医と名を馳せた華陀も塩瀆県内に足跡を残しており、流行していた疫病に対処し、後の民間医療の発展に大いに貢献したと指摘されている。

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三国時代期、塩瀆県は孫呉と曹魏の両国国境に位置し、南北双方の争奪戦、および、軍事作戦上の要衝となる(上地図)。

曹操は孫権が長江を渡河し、北上することを恐れ、塩瀆県城を拠点に、呉国の北進を阻止する防衛ラインを構築すべく、長江と淮河のエリアにいた十万戸の百姓らを北側へ強制移住させようとすると、塩瀆県下の百姓らがこぞって江南地区へ逃亡してしまう。こうして、塩瀆県と射陽県(今の江蘇省揚州市宝応県)の二県下では人口の大幅流出が発生し、一帯の村々は荒廃してしまう。
こうした背景から、塩瀆県自体が廃止されることとなった。

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280年に三国を統一した西晋朝の武帝により(上地図)、流民らが積極的に当地へ殖民され、再び塩瀆県が復活設置される(海陵郡に帰属)。精力的に射陽県と塩瀆県の二県の復興を手掛けるも、西晋朝下の平和も束の間で、再び、300年近くも続くこととなる南北朝時代を通じて、度々、戦火に巻き込まれた長江と淮河の一帯は、人口が大幅に減少し、地域経済は完全に崩壊をきたした。

東晋時代の411年、塩瀆県が塩城県へ改名されると、この地名がこのまま今日まで継承されることとなる。

南北朝時代の初期、射陽県(今の江蘇省揚州市宝応県)が廃止され、塩城県へ吸収合併される(山陽郡に帰属)。後には、塩城県城内に塩城郡の郡役所も併設されることとなった。

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当時、華北地方で続いた戦乱のため(上地図)、多くの人々が流民となって淮河よりも南側へ移住するようになり、また一方で、当時の南朝方の諸王朝は同時に長江以南の人々を北岸エリアへ移住することを奨励したため、塩城県下の人口は急増し、経済も急成長を遂げることとなる。

北斉朝が塩城郡を射陽郡へ改称するも(下地図)、再び陳朝により射陽郡は塩城郡へ戻された。

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南北朝時代も進むについれ、塩城郡一帯も度重なる戦火に巻き込まれることとなり、塩城県下(郡下)の人口は激減し、田畑は荒廃し、塩業や漁業は大いに衰退してしまう。
しかし、南北朝時代も後期に入ると、塩城県下の塩業を主力とする産業が急速に回復し、「県城の周りは一面、塩田」と比喩されるほどに拡大する。

陳朝が隋国により滅ぼされ(589年)、隋により南北朝が統一されると、ようやく中国全土は平和を取り戻す。
隋第2代皇帝に煬帝が即位した直後の605年、塩城郡が廃止され、江都郡の管轄下に組み込まれた(塩城県はそのまま存続)。

しかし、隋朝も末期のころには(下地図)、全国各地で農民反乱が勃発し、この海外エリアを支配した農民リーダーの韦彻(今の塩城市阜寧県公興郷の出身。571~624年)が塩城県城を本拠地として王を名乗ることとなる(615年~)。その統治の7年間に建造した王宮跡地が、当地の名物遺跡「高清大園」となっている(現在は、塩城市亭湖区解放南路にある塩城中学の構内)。
この時、塩城県から新安県と安楽県の2県が分離・新設されている(ともに、新設された射州に帰属)。

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620年ごろに唐朝により当エリアも併合されると、再び2県が塩城県に吸収合併される(江都郡に帰属)。

唐代には塩城県下で巨大な製塩所が9ヵ所あり、また、塩田も海岸沿いに123ヵ所設置されていた。毎年、海水を熱して45万石ほどの塩を生産したという。
後に海外線で長大な防波堤が完成すると、製塩業はさらなる発展を見ることとなる。
758年、唐朝廷により塩と鉄の専売制が採用されると、塩の販売金は唐朝の国庫に直接収納されるようになる。以後、唐朝廷は塩城県城内に塩城監を新設し、製塩産業を監督させることとした。

唐代後期、長江と淮河の中間エリアで発達した製塩業が、朝廷の国家財政收入の重要な割合を占めるようになっていく。江蘇省と福建省一帯の海岸エリアから上がる塩税だけでも、100以上の州レベルの税収に匹敵したという。
唐代末期には、国家財政收入の半分を占めるまでに拡大する。当時の宮廷費用や軍費、役人らの給与などは、すべて塩税から賄われるほどであったという。

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また、隋代と唐代を通じ、アジア周辺諸国との外交や交易が拡大される中、塩城県もまた海外交易港の一つとして重要な地位を占めることとなる。

唐朝第二代皇帝の太宗が第一次高麗遠征軍を起こした際(644~645年)、戦功を挙げ中郎将に昇進した薛仁貴(614~683年)は、一時期、この塩城県下の永寧寺内に兵を駐屯させ、海岸エリアで軍艦の整備を進める一方で、水軍訓練に勤しんだとされる。薛仁貴はその後、第三次高句麗遠征(667~668年)まで毎度、華々しい活躍を見せ、以後、軍人として昇進を重ねて行くこととなる。

また、唐朝建国の功臣らの中でも豪勇で名を馳せた名将・尉遲恭(尉遅敬徳、585~658年)もまた、当地に足跡を残しており、今の塩城市東台市下の秦東河沿いに、海春軒塔という見張り台を建造し、塩城県の港湾に出入りする兵船や商船を管理したという。現在、東台西溪游覧区としてテーマパークとなっている。

また、国内や海外からの使者、学者、僧侶、商人らも塩城県下を経由して海に出航したり、上陸している。

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日本の第9回遣唐使(717年)が九州の海岸を南下し、沿岸の南洋の島々を経由して、東シナ海を横断し、塩城県下の海岸から上陸している。このとき、塩城県の地方官らの接待を受けたことが史書に記されており、その後に、中国側の官船に乗り換えて、運河沿いに汴州(今の河南省開封市)まで移動し、再び、陸路で都の長安に入ったとされている。このとき、阿倍仲麻呂(698~770年)も留学生として同行しており、ここから54年間、唐朝に仕えて、最終的に日本に帰国できずに当地で死去することとなるのであった。

702年、日本の遣唐使を率いた粟田真人も貿易風に乗って東シナ海を横断し、中国大陸に到着した際、塩城県下の住民に質問したとされる。「我は日本国からの大使ですが、ここは何と言う場所ですか」と質問すると、原住民が「ここは楚州下の塩城県です」と答え、熱い歓待を受けたという。彼は翌年、王都の長安に到着し、武則天に謁見を果たしている(704年に帰国)。

また、777年に遣唐使の副大使として大陸へ渡海していた小野石根(?~778年)は無事に、唐朝の第11代皇帝との謁見を果たし、翌788年に帰国の途に就く。一行は塩城県城下の港町から出航するも、途中で船は難破し、不幸にも小野石根らはそのまま水死することとなった。

唐代の塩城県下では、十八民団による民間芸能が盛んとなり、多くの民衆の耳目を集めることとなった。中国雑技もここから発生したとされており、その誕生の地の一つと指摘されている。

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唐末から始まる五代十国時代、まずは呉王の楊行密が一帯に勢力を張り、塩城県もその版図下の楚州に組み込まれた(上地図)。
南唐朝が楊呉朝を滅ぼすと、塩城県は泰州の管轄下に組み込まれる(上地図)。

隋代、唐代、五代十国時代を通じて、一帯は空前の繁栄を享受するまでに発展する。

北宋時代に入ると、塩城県は淮南東路下の楚州に属した。下地図。

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唐代の766年、淮南節度判官の黜陟が李承実に指示し、海外線に長大な堤防を建造させる。このとき、楚州下の高湾村から揚州下の海陵県まで続く全長142kmの防波堤が完成し、常豊堰と命名された。

時は下って北宋朝初期の970年ごろ、泰州知事の王文佑がこの堤防の修繕工事を手掛けるも、月日とともに海水により浸食されていく。

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北宋朝中期の1023年、范仲淹(上絵図)が泰州下の西溪鎮(今の塩城市東台市)に開設された塩倉監の長官に赴任する。その職責は、塩の保管、運輸、流通が主であったが、当時、泰州下の西溪鎮は黄海に面する海外線上に位置し、唐代に李承実が建造した堤防はすでに賞味期限切れ状態で浸食が激しく、たびたび決壊して一帯の田畑に海水を流入させて、農民らを非常に困惑させていた事態を問題視し、泰州長官の張綸に上奏して、常豊堰(捍海堰)の修築工事を願い出る。
その越権行為をなじる官僚らに対しては、「私の塩監の業務も、農民らが逃亡してしまっては、何を監督すればよろしいのか?堤防建設も自分の職務の一環です!」と反論している。泰州長官の張綸も水利事業の重要性を認識している人物であったため、范仲淹の建議が認められ、北宋朝の許可も得られたこともあり、范仲淹に泰州下の常豊堰(捍海堰)の修繕工事の監督が委ねられる。 翌1024年、范仲淹は通州、泰州、楚州、海州の4州から4万を超える民衆らを集めての大工事を敢行する。

大堤防の建設過程で度々、大雪や狂風、嵐や堤防決壊など数々の困難に見舞われるも、時に、范仲淹自らが現場に足を運び陣頭指揮を取りながら、時に、自分の給与で工事費の不足分を補てんしてまで建設工事を続行し、4年がかりで全長 71km、高さ 5m、底辺厚さ 10m(上辺 3.3m)にもなる大堤防の完成にこじつける。人々はその威容を目にしては、これで沿岸エリアはいかなる憂いも払しょくできたと喜びあい、これを慕って范公堤と通称することとなった。下地図。

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後世になって、塩城県、西溪県、阜寧県下では景范亭や范公祠、三賢祠が設置されるなど、范仲淹を祀る廟が地元の至る所で開設され、その功績は絶え間なく称えられていくこととなった。

北宋朝も末期に入ると、北から女真族(金朝)の南下を受け、華北地方の領土を失ってしまう(下地図)。
この時、名将・韓世忠(1088~1151年)が塩城県城にあってこの淮河と江南地方の防衛戦を司ることとなる。

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1129年、絶対守備ラインとされた沭河を金軍に突破されると、南宋朝の高宗は浙東エリアへ逃亡し、守備隊を束ねた韓世忠は残存部隊を引き連れて塩城県城まで撤退し、塩城県下の永寧寺内に総防衛本部を開設する。

この地に滞在すること3ヵ月のうちに、兵馬をそろえ、三軍の訓練を徹底させて、北部エリアへ度々出兵させるとともに、当時、淮河の南北両岸の河川沿いに設けられていた軍事拠点や城塞の強化工事を進めて、金軍の南下に対抗した(下地図)。

度々、金の侵攻軍を北方へ追い返し、京口では大将軍ウジュ率いる金軍の大破に成功している。

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1130年、金軍のもう一派が楚州城を包囲すると、当時、泰州城を守備していた岳飛に救援要請が出される。岳飛は大軍を率いて水陸の二路に分かれて范公堤を北上し、金軍を迎撃すべく進軍するも、岳飛が塩城県城に到着する前に楚州城は落城し、再び拠点の泰州城へ戻って、朝廷に謝罪文を上表している。
こうして南宋時代初期の1133年、楚州城の陥落により、塩城県城は泰州の管轄下に組み込まれる。後に宝応州の帰属へ改編される。

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南宋時代の末期、文天祥や張世傑らと共に、南宋朝における三忠臣の一人として挙げられる陸秀夫は、ちょうど1236年にこの塩城県下の長建郷で誕生する。
3歳のときに父とともに江蘇省鎮江市へ移住し、少年時代から神童としてその聡明さが周囲から称えられるような人物であったという。鎮江城の南側の郊外にある鶴林寺で質素倹約と勉学に励んだ。
そして、1256年に陸秀夫は京城へ出向き科举試験に合格すると、文天祥らと共に進士に進み(1260年)、鎮江城の役所に職を得る。揚州城を守る名将・李庭芝の軍中主管機関の文官などを務め、後に李庭芝の推薦を受け、南宋の朝廷内で勤務することとなる。

1276年にモンゴル軍が大挙して南下し、南宋の王都・臨安城が陥落する。陸秀夫は二人の幼い王子・趙是と趙丙を伴って南方へ逃走し、文天祥と張世傑らとともに、二人の幼ない王子を皇帝に据えて、対モンゴル戦争を継続することとなる(上地図)。

1278年、陸秀夫はもはや末期状態の南宋朝廷にあって皇帝から左丞相に任命される。張世傑とともに、幼帝の趙丙を立てて崖山にまで逃れ、翌1279年、当地で最終決戦の後、幼帝を抱いて海に身を投げることとなるのであった。

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元代初期には塩城市一帯は江北淮東道に、後に河南江北行省淮安路に属した。上地図は、1114年当時のもの。

元朝末期、紅巾軍を筆頭とする農民反乱軍が全国を席巻し、塩城県一帯でも大いに戦火がうずまく。こうした混乱渦中の1353年、塩城県下で、張士誠(泰州下白駒場15里垛の出身)をリーダーとする大規模な武装蜂起が決起され、泰州沿海の36ヵ所の塩田の塩民や付近の農民、漁民らが刀や杖までも握りしめて一斉に集結したことから、十八条扁担起義と通称されることとなる。
農民反乱軍は早々と白駒場と丁溪場の塩田役所を占領し、さらに、泰州城や興化県城、高郵県城をも占領してしまう(下地図)。

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翌年、高郵県城にて張士誠は誠王を自称し、大周政権を樹立すると(上地図)、天佑の年号を制定する。反乱軍は以後も数度にわたって元軍を撃破し、京杭大運河の水運ルートを切断して、元朝廷を相当に苦心させることとなる。

1356年に張士誠が江南地方へ進軍すると、その勢力は西や北へ拡大し、南は浙江省紹興市辺りから、北は山東省済寧市、西は安徽省、河南省の東部エリアにまで広がる大勢力圏を形成するに至る。
東側はすべて沿岸エリアで、当時、大陸中国最大の塩田を有しており、その経済力は全国屈指のレベルにあった。こうした経済力を背景に旗下の軍勢は数十万にも達したという。

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1363年、張士誠が平江城(今の江蘇省蘇州市)で即位して呉王となる(上地図)。
張士誠はその権力基盤の形成過程で、多くの有望な学者や役人らを雇用し、また多くの流民らを吸収して、領土内の生産性を高めてきた。
塩城県下でも多くの農民らが流民から屯田へと回帰し、農業生産が回復することとなる。
しかし、張士誠は呉王に即位する前の一時期、一度、元朝に服属して、共に劉福通をリーダーとする紅巾軍と戦っており、これが民衆らの心理的離反を生む結果につながっていくことになる。

最終的に、張士誠は南京を本拠地とした朱元璋に連戦連敗し、ついに1367年、王城であった平江府城を朱元璋に包囲され、張士誠は捕縛されて、南京にて自刃することとなる。

明代初期、塩城県は応天府に、後には淮安府に属した(下地図)。

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当時、元末からの長期戦乱に巻き込まれ、長江と淮河の一帯は人口が激減し、田畑は荒廃していた。この地域社会の復興を企図し、明朝初代皇帝の朱元璋は積極的に移民政策を実施し、土地開墾を奨励する。淮安府は全国でも、屯田開発の重点地区対象の一つに指定される。

早速、1368年より第一次移民政策が実施され、蘇州、松江、嘉興、湖城、杭州等から田畑をもたない流民四千戸余りを移住させ、塩城県下と淮安府下に分散定住させて、墾田作業にあたらせる。

その後も、何度かの移民導入政策が実施され、一時は江南エリアからの移民が14万を超えるまでになり、このとき、安徽省滁州市下の鳳陽県(朱元璋の故郷)などにも移民が送りこまれた。

また、別の移民政策時には蘇州府下と松江府下の住民ら一万以上が塩城県下へ定住し、その後も大規模な移民が送りこまれ、後世、まとめて「洪武赶散(洪武大移民)」と総称されることとなる。

度重なる移民屯田政策が実行される中、塩城県下の人口は順調に増加し、地域社会とその経済は見事に復興に成功する。二十数年の時日が経ったころには、塩城県下の居住人口は 61,810 人(8,912 戸)を数えたという。

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小説家である施耐庵(1296~1370年)も、こうした移民奨励策に応じて、当地へ移住した一人であった。1367年に妻子と弟子の羅貫中(約1330~約1400年)を連れて、隠居地を求め、白駒場(今の塩城市大豊区白駒鎮)へ移住する。当時、彼の住まいの傍らに小さなか沼があり、たくさんの魚や水生生物が生息していた。毎年秋冬の時期には、多くの野生の水鳥が群れを成して飛来したという。
その沼地の中に、露出した砂状があり、その地形から梁山泊を思い至ったとされる。施耐庵(下絵図左)はいつも弟子の羅貫中を連れて一緒に小船に乗り、沼を漂いながら、長篇小説『水滸伝』を創作したという。

また、施耐庵の熱心な指導の下、羅貫中は正史『三国志』に素材を取り、多くの民間伝承の逸話や戯曲の小話を取り入れて、長篇歴史小説の『三国演義(下写真右)』を書き上げることとなる。

塩城市   塩城市

しかし、施耐庵はその作品『水滸伝』が朱元璋の執政を脅かすものと断じられて投獄され、間もなく伝染病により死去してしまうことになる。羅貫中は白駒場付近に彼の遺体を埋葬後、再度、その『水滸伝』の原稿を加筆修正し、また引き続き、『三国演義』の執筆も続けるのだった。

羅貫中が白駒に滞在していた時、この塩城県下の地元に伝わる後漢末の伝承をもとに、塩城県での孫堅の活躍や、華佗らの足跡などを小説の中に盛り込んでいったとされる。

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明代を通じ、多くの荒廃した土地は再開墾が進み、食糧生産は年々増加していく。

また、千百年かけて多くの民衆らの労力により掘削された串場河は、その運河機能がますます重要視されることとなる(上地図)。
もともとは宋代に掘削された串場河であるが、沿海各地の塩田や製塩所をつなぐ南北の重要な交通河川であったが、度重なる戦乱によるメンテナンス不足と土砂堆積により、あちこちで不通となってしまっていた。

清代に入り、塩城県下の便倉鎮(北宋時代から続く交易町で、現在の塩城市亭湖区)までの運河が再掘削により復活開通すると(南串場河)、未だ不通が続く塩城県から北の阜寧県までの運河は北串場河と通称されるようになる。さらに後になって、北串場河の大規模な掘削工事が再開され、南北ルートが正常化されると、再び串場河と総称されることとなる。

しかし、現実は厳しく、患場河沿いの塩田作業民らは長きに渡り、官府と塩商人の二重に絞られる極貧生活を強いられ続けた。明代、清代を通じ、塩田管理官は過酷に税を取り立て、さらに、塩商人らは市場価格を独占し、暴利をむさぼっていた(下地図)。塩業に従事する民衆の生活はギリギリに追い込まれていたとされる。その悲哀に満ちた庶民の生活は、多くの戯曲や詩に詠まれている。

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清代初期には江南省淮安府の管轄下に配された。
1667年に江南省が東西に分割されると、江蘇省側に分類され、そのまま淮安府に属した。

1732年、塩城県と淮安県下の一部が分離されて、阜寧県が新設される(上地図)。
1768年には東台県が新設される(上地図)。

1913年、府制が廃止され、全国の各県はすべて省政府の直轄に定められると、塩城県はそのまま江蘇省に帰属された。
翌1914年に全国で行道制が導入されると、塩城県は淮揚道(淮陰県清江浦)に属した(1927年まで)。

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