BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山東省 煙台市 ~ 人口 660万人、 一人当たり GDP 83,000 元


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  東牟県城(弘徳県城)
  掖県城(【初代、3代目、5代目】東莱郡城、光州城、莱州城、莱州府城)
  腄県城
  黄県城(【2代目】東莱郡城、東牟郡城)   呉の名将・太史慈の故郷
  臨朐県城
  曲成県城(曲城県城、【4代目】東莱郡城)  三国時代の魏の政治家・王基の故郷
  惤県城
  当利県城
  陽石県城
  葛盧県城
  牟平県城(寧海軍城、寧海州城)  後漢末期の州長官である 劉岱、劉繇、劉岱らの故郷
  観陽県城
  昌陽県城
  蓬莱県城(登州城)
  福山県城
  海陽県城



【 煙台市の 歴史 】

白石村遺跡(今の 煙台市芝罘区新成街)の発掘調査などにより、煙台市内では早くも約 7000年前の新石器時代期に人類の生息が確認されているという。
夏王朝の時代、東夷族により過国が建国されていた。

煙台市

商(殷)王朝から、西周朝、春秋時代にかけては、莱国の版図下に組み込まれていた。上地図。
しかし、春秋時代の紀元前 567年、莱国が斉国により滅ぼされると、以後、戦国時代期を通じて、斉国の領土となる。

秦朝により中原が統一されると、旧斉国領に斉郡と膠東郡が新設される。
しかし、その秦朝もわずか 15年で滅亡すると、覇王となった項羽により、田都が斉王に、田市が膠東王に封じられる。その直後の紀元前 206年、現在の煙台市牟平区の 中心部(寧海大街一帯)に東牟県が新設されている。

楚漢戦争を経て劉邦が最終的な勝利を収めると、翌紀元前201年、韓信を斉王から楚王へ異動させ、劉邦は代わりに 長男(私生児)の 劉肥(斉哀王)を斉王に封じる(王都は臨淄県城)。以後、前漢朝時代の最大の諸侯王国として 10代の王が即位した。下系図。

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劉肥の子で、第 3代斉王となっていた 劉将閭(斉孝王)の統治下の紀元前 164年、斉郡から 膠東国(王都は即墨県城)が分離・新設される。上系図。
しかし、呉楚七国の乱が勃発する(紀元前 154年)と、劉将閭の兄弟であった膠西王の劉卬、膠東王の劉雄渠、菑川王の劉賢、済南王の劉辟光らが反乱軍に参加し、斉国の 王都(臨淄県城)にいた劉将閭を攻撃するも、失敗し撤退に追い込まれる。下地図。

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敗北した膠東王の劉雄渠は自害に追い込まれ、 翌 153年、膠東国は膠東郡へ降格される。しかし同年中に、皇太子の 劉徹(後に第 7代目皇帝・武帝に即位する)が 4歳にして膠東王に封じられ、再び、膠東国が復活設置される。その際、半島東部が分離され、東莱郡が新設された。下地図。

前漢朝の末期、東莱郡全体で 103,292戸(住民 502,693人)の戸籍登録があり、配下には 17県が設置されていた。下地図。
すなわち、掖県(郡都を兼務。今の 煙台市莱州市の中心部)、腄県(今の 煙台市福山区)、黄県(今の 煙台市龍口市石良鎮黄城集村)、臨朐県(今の 煙台市莱州市城港路街道の一帯)、曲成県(今の 煙台市招遠市蚕庄鎮西曲城村の一帯)、東牟県(今の 煙台市牟平区にある寧海大街の一帯)、惤県(今の 煙台市龍口市の南東部)、育犁県(今の 山東省威海市乳山市育黎鎮)、不夜県(今の 山東省威海市榮成市埠柳鎮不夜村)、当利県(今の 煙台市莱州市沙河鎮路旺侯家村の一帯)、陽石県(今の 煙台市莱州市の南部)、平度侯国(今の 山東省青島市平度市の北西部)、牟平侯国(今の 煙台市福山区古現鎮にある古現大街一帯)、昌陽侯国(今の 山東省威海市文登市米山鎮)、盧郷侯国(今の 山東省青島市平度市の北西部)、陽楽侯国(今の 煙台市莱州市虎頭崖鎮の一帯)、徐郷侯国(詳細不明)である。下地図。

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王莽による新王朝の一時期、東牟県は弘徳県へ改称される。また、東莱郡下の不夜県などが分離され、新設された 夙夜郡(すぐに廃止)へ移籍される。

新朝末期に各地で軍閥が割拠すると、張歩の勢力圏に組み込まれる。その張歩も、29年、劉秀の後漢朝に帰順し、漢王朝の支配の下、元の地名に戻される。下地図。

後漢時代初期、腄県、平度県、育犁県、昌陽県、不夜県、陽楽県、陽石県、徐郷県の 8県が廃止される一方で、葛盧県(今の 煙台市莱陽市)が新設された。

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後漢末期、華北に勢力を張った袁紹は、青州長官であった孔融を追放し、自身の長男である袁譚を青州長官に就任させる。このとき、先の黄巾賊掃討戦で曹操軍により壊滅させられた青州の軍閥らは、勇んで袁譚を迎え入れる。
袁譚により、地元の軍閥であった管統が 東莱郡(郡都は黄県城)太守に任じられる。下地図。

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しかし、202年に袁紹が病死すると、直後の 203年より袁譚は弟の袁尚と骨肉の戦いを繰り返すようになり、袁尚が連勝すると、青州内の諸県はこぞって袁尚陣営に寝返ってしまう。そんな中、管統のみ袁譚陣営にとどまり続け、その功績から 楽安郡(下地図)太守に任命される。

袁譚を利用して、袁尚との戦いを有利に進めていた曹操は、最終的に袁譚との同盟関係を解消し、そのまま処刑してしまう(205年)。袁譚の旧領土下にあった諸県はすぐに曹操への帰順を誓うも、楽安郡城を守備する管統のみは、降伏を拒否し、曹操軍に抵抗する。最終的に、曹操は王修に命じて管統を説得し、帰順させている。
以後、青州全土は完全に曹操の勢力圏に組み込まれた。
この曹操の統治時代に、東莱郡の郡役所が黄県城から掖県城へ再移転されることとなる。下地図。

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西晋時代の 277年、東莱国(東莱郡より改編)下の不其県と 長広県(今の 山東省青島平度市城区の中心部)の 2県、及び、北海郡下の挺県が分離され、長広郡が新設される。上地図。

265年に司馬炎が司馬昭から家督を継ぎ、かつ、魏皇室から権力禅譲を受けて西晋王朝を建国すると、その実弟の司馬攸が斉国王に封じられる。しかし、司馬攸が斉国へ赴くことはなく、そのまま朝廷内にあって司馬炎を補佐しながら、司空となって中央政務に携わった。後に、朝廷内の権力争いから、 283年、遠い斉国への赴任を命じられて、間もなく病死する。
直後に、その長男の 司馬蕤(当時、遼東王であった)が東莱国王に封じられ、また、弟の司馬冏が斉王を引き継ぐこととなる。
この頃、東莱国下には 掖侯国、当利侯国(今の 煙台市莱州市沙河鎮路旺侯家村の一帯)、盧郷県(今の 山東省青島市平度市の北西部)、曲城県、黄県、惤侯国の 6県(6500戸の戸籍記録あり)が配された。同時期、黄県より東部に東牟郡が新設される。


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306年に青州、徐州で反乱を起こした王弥は、 308年始めには兗州、豫州をも領有する大軍閥に成長するも、前趙の創始者であった劉淵に帰順して、共に洛陽城を攻略し、西晋朝を滅亡に追い込む(311年)。しかし、王弥は同じ劉淵の配下にあった石勒により暗殺され、その勢力圏はそのまま石勒に横取りされてしまう。こうして、323年ごろには東莱郡と東牟郡、長広郡の山東半島 3郡も完全に平定し、この地を基盤として、石勒は前趙から独立して、後趙を建国することになる。上地図。

南北朝時代の劉宋朝の知世下、東莱郡の郡役所が掖県城から 曲城県城(今の 煙台市招遠市の西部)へ移転される。あわせて、牟平県(今の 煙台市牟平区)が新設される。

北魏時代、引き続き、東莱郡と 東牟郡(郡都は黄県城)、長広郡(郡都は 長広県城【今の 山東省青島平度市城区の中心部】)の 3郡体制が継承された。このとき、縮小された東莱郡下には、掖県(郡都を兼務)、西曲城県(曲城県より改名)、東曲城県、盧郷県(今の 山東省青島市平度市の北西部)の 4県のみ存続していた。 470年、青州に属した東莱郡と長広郡の 2郡が分離され、光州が新設されると、東莱郡都の掖県城が州都を兼ねることとなる。下地図。

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北斉時代、曲城県と当利県(長広郡に帰属)の 2県が廃止され、掖県に吸収合併される。 556年には、東牟郡が廃止され、長広郡へ併合される。同時期、盧郷県も廃止される。

隋代の 585年、光州が 莱州(州都は掖県城)へ改称される。
596年、不其県(今の 山東省青島市城陽区の西側の城子村と寺西村との間)が廃止され、即墨県(今の 山東省青島市即墨市)に編入される一方、盧郷県が復活設置される。
601年当時、晋王に封じられていた楊広(後に第 2代目皇帝・煬帝)の本名とダブったことから、長広県(今の 山東省青島平度市城区の中心部)が膠水県へ改称される。

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607年、莱州が東莱郡へ改名される。当時、東莱郡下には、掖県(今の 煙台莱州市城区の中心部)、膠水県(今の 山東省青島平度市城区の中心部)、盧郷県(今の 山東省青島市平度市の北西部)、即墨県(今の 山東省青島市即墨市)、観陽県(今の 煙台市海陽市発城鎮)、昌陽県(今の 煙台市莱陽市の中心部にある城厢街道の一帯)、黄県(今の 煙台市龍口市石良鎮黄城集村)、牟平県(今の 煙台市牟平区)、文登県(今の 山東省威海市文登市の中心部)の 9県が配され、90,351戸の戸籍登録が記録されていたという。上地図。

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唐代初期の 621年、再び東莱郡が莱州へ改称される。
692年には、莱州下の 黄県、牟平県、文登県が分離され、登州が新設される(州都は 蓬莱県城)。上地図。

下地図は、唐朝の高句麗遠征ルートを示す。山東半島からは海路軍が派遣された。

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最終的に、莱州は 掖県、昌陽県、膠水県、即墨県の 4県体制となり、このまま五代十国時代、さらに 北宋、金朝、元朝時代まで踏襲されることとなった。

1126年11月に北宋を滅ぼし、華北を占領した金朝は、漢民族の傀儡政権として、劉豫(劉予)を元首とする斉国を擁立する。
その治世下の 1131年、登州下の 牟平県城(今の煙台市牟平区)に寧海軍が併設される。 1137年に斉国が廃止され、金王朝の直接統治が開始された後も、寧海軍はそのまま踏襲された。
1182年、寧海軍が 寧海州(州都はそのまま牟平県城)へ昇格される。寧海州下には、牟平県(今の 煙台市牟平区)と 文登県(今の 山東省威海市文登市の中心部)の 2県が配された(山東東路に帰属)。

元代も 県、州城はそのまま継承されるも、所属する行政区が益都路から淄莱路へ、さらに 1279年には中書省へ変更されている。

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明代初期の 1368年、牟平県(今の 煙台市牟平区)が廃止され、寧海州の直轄地に組み込まれる。寧海州はただ文登県の 1県のみを統括することとされ、登州とともに、莱州府(府都は掖県城)の管轄下に配された。上地図。

1376年、登州府(府都は蓬莱県城)が復活設置されると、 その配下に 寧海州、蓬莱県、黄県、福山県、栖霞県、招遠県、莱陽県、文登県が置かれる。下地図。

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登州府は、莱州府(掖県と 平度州【配下には昌邑県と濰県】)、膠州府(配下には高密県と即墨県を統括)と共に、山東行中書省(後に 山東承宣布政使司へ改編)に帰属した。

なお、明末に登州府城に登莱巡撫が併設され、海岸線防備の重要拠点に位置付けられることとなる。

清代も、引き続き、明代の行政区が踏襲される。1666年に登莱道(1698年に登莱青道へ改称)が新設されると、道役所が 莱州府城(掖県城)に併設された。下地図。

また、すでに貿易港として栄えていた山東半島の南岸側に、1735年、海陽県が新設される(寧海州に帰属)。

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清朝末期の 1856年~1860年に勃発した アロー戦争(清朝 vs 英仏連合軍。第二次アヘン戦争)後に締結された北京条約により、登州府城(蓬莱県城)も開港されることとなり、1862年、登州府の府役所が現在の煙台市の中心部へ移転される。
1905年、膠州(高密県と即墨県を統括)が直隷州へ昇格される。

中華民国が建国された翌 1913年、全国で州制度が廃止されるに伴い、寧海州が寧海県へ降格される。続く翌 1914年、寧海県は牟平県へ再変更される(浙江省内にも同名の県が存在したため)。

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上の古地図は、中華民国時代の 莱州府城(掖県城)の様子。
日中戦争時代の 1938年2月3日、日本軍が煙台市に上陸・占領する。

そもそも、この煙台市の地名は市内にある煙台山から命名されている。明代の 1398年、倭寇の襲来に備え、今の煙台山に狼煙台が設置されたことに端を発するという。


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