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寧夏回族自治区銀川市 ~ 人口 203万人、 一人当たり GDP 62,000 元


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  興慶府城(懐遠県城)
  懐遠郡城



【 銀川市の歴史 】

この地域では、30000年以上前の旧石器時代の遺跡が発見されている。横城水洞溝遺跡と鎮北堡である。また、暖泉では新石器時代の遺跡も発見されており、古くから人類が生息していたことが判明している。
殷商王朝や春秋戦国時代には、ここには北羌や熏育(葷粥)、匈奴などの遊牧民族らが割拠していたという。

銀川市

紀元前221年、秦の始皇帝は中国全土を統一すると、休む間もなく、蒙恬を総大将に30万の軍勢にて北方オルド地方の匈奴勢力を駆逐し、 黄河上流域一帯の平定に成功する。こうして黄河上流域の東岸部まで、初めて中原王朝権力が及ぶこととなる。
秦国は中央集権体制の確立を図り、全国を36郡に分割し、その下に県を配置する。現在の銀川地域は北地郡に帰属した。

前漢末の紀元前24年前後、北典農城(別名:呂城、飲汗城)を築城する。これが銀川市の始まりである。しかし、後漢から三国時代にかけては、中原の力が弱まり、再び、匈奴の勢力下に置かれる。
南北朝時代においては、大夏国が麗子園という軍事要塞を築いて兵力を駐屯させ、あわせて農地開墾も積極的に進めるなど、長期支配の体制構築を図っている。
北周王朝の時代、大夏国からこの地を奪取し、懐遠郡と懐遠県を設置している。

唐代の677年、懐遠県城は黄河の氾濫を受け、廃城となる。そして、翌年の678年、かつての県城跡の西側に新しい城郭都市の築城が進められた。現在の銀川市興慶区にあたり、現在の古城跡がこれである。
銀川市

宋代に懐遠鎮へと改名される。1020年、党項族の首領「李徳明」はその王都を霊州(今の霊武県)からこの懐遠鎮(現在の銀川市)へと遷都し、大規模な王宮や城壁都市を建設する。そして、この地を興州と改名した。その後、李徳明の子の李元昊は、興州を興慶府へと変更する。そして1038年、李元昊は興慶府にて西夏国を建国し、その首都として興慶府(現在の銀川市)が定められた。西夏国の経済は、大部分が遊牧民族生活者であり貧しく、この銀川から呉忠市あたりの黄河上流域一帯が経済の中心地であった。北宋とは度々、国境地帯で抗争が繰り広げられたが、最終的には北宋による経済封鎖で国内経済が麻痺してしまい、北宋と朝貢関係を結んで、国家経済を維持していたほどであった。しかし、モンゴル帝国のチンギス・ハーンによる 4回もの侵攻を受け、1224年には首都も包囲され、西夏王朝は全面降伏するに至る。

元代になると、中興路、後に寧夏府路へと改名された。寧夏の名が歴史上最初に登場したのはこの時である。
明代には寧夏府が置かれており、万里の長城9防衛拠点の一つとして、多くの守備兵が駐屯することになった。

銀川市

清代は明王朝からの体制が維持され、寧夏府治が引き続き、この地を統治することになる。このまま近代を迎えることになった。

銀川市

なお、この興慶府古城であるが、今日では、西側の鎮遠門と、東側の清和門、南側の南門跡周辺にわずかに城門跡と城壁跡が残るのみで、その他は完全に撤去されてしまっており、かつて西夏の王都として栄えた王宮跡も、城壁跡も全く残されていない。昔の城壁都市のころの面影はわずかな路地名から偲ばれるのみである。鎮遠門跡、西橋南巷(城外西側の堀川にあった橋)、大廟北巷、野市巷、玉皇閣南街、南薫門跡、清和門跡、川口巷(黄河と運河がつながっていた)、北門超市。


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