BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江西省 鷹潭市 ~ 人口 115万人、 一人当たり GDP 45,000 元


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  余汗県城(余干県城) → 江西省上饒市
  晋興県城(興安県城、安仁県城、長城県城、興安鎮、安仁場)
  貴溪県城



【 鷹潭市の 歴史 】

春秋時代には百越の地に分類されていたが、戦国時代に入り、最初は越国に、後に楚国の勢力下に置かれる。
紀元前 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に 36郡を設置する。このとき、鷹潭市一帯は九江郡に属した。
鷹潭市

紀元前 202年に劉邦により前漢朝が建国されると、その翌年の紀元前 201年、余汗県が新設され、現在の鷹潭市エリアはここに帰属された。
後漢末期の 194年、江南を制覇した孫策により蘆陵郡が新設される。また、呉の孫権の治世下の 210年、鄱陽郡が分離・新設され、現在の鷹潭市一帯はここの管轄下に置かれた。

鷹潭市

その呉も 280年に西晋に降伏し、司馬炎が三国統一を成し遂げる。その司馬炎も 290年4月に死去し、西晋朝の 2代目皇帝として司馬衷が恵帝として即位する。その翌年の 291年、余汗県下の晋興郷が分離され、晋興県として独立県となる。晋興県は、今の月湖区、貴溪市、余江県の一帯を統括することとされた。

八王の乱で弱体化した西晋朝の混乱に乗じ、王都・洛陽を占領した前趙により、西晋朝第 3代目皇帝・懐帝が捕縛され処刑されると、313年4月、第 4代目皇帝として愍帝が即位する。ちょうどこの同年、晋興県が興安県へと改称されるも、すぐに廃止され、元の余汗県晋興郷へと降格されることとなる。

間もなく、西晋朝も完全に華北を追われ、華南のみを領有する東晋として存続することとなる(南北朝時代の始まり)も、重臣の劉裕に権力を簒奪される形で、ついに滅亡する(420年、南朝の宋王朝の建国)。南朝の一つである陳朝の統治下の 560年ごろ、再び余汗県晋興郷が独立県として分離され、安仁県が新設されるに至る(呉州に帰属)。

300年近く続いた南北朝時代を統一した隋朝時代の 589年、安仁県が廃止され、余汗県晋興郷として再降格される。また、余汗県は余干県へと改称される(饒州の管轄下に置かれる)。

鷹潭市

唐代の 621年、余干県晋興郷から 長城県(624年には玉亭県を吸収合併する)が新設され、同じく饒州に帰属された。しかし、すぐ後の 625年、長城県は再び余干県晋興郷へ降格される。
765年、弋陽県の西側と余干県の東北部分から 貴溪県(鷹潭坊一帯【現在の月湖区】を統括した)が分離・新設され、信州の管轄下に置かれる。
唐朝末期の 870年代、余干県晋興郷は興安鎮へ改称される。

唐末期から始まった五代十国時代を統一しつつあった北宋朝は、975年、ついに江東地区に勢力を張っていた南唐国を滅ぼす。この地を完全平定した北宋により、同年、興安鎮が安仁場へと改称される。
988年には安仁場が安仁県へ昇格され、江東路饒州の管轄下に置かれた。

北宋も金朝、モンゴル軍に華北を奪われ、華南へ退避するも、最終的にはモンゴル勢力が建国した元朝により滅ぼされる。
元朝支配下の 1264年、安仁県は江浙行省饒州路総管府の管轄下に配された。 1277年には、信州が信州路へと改編され、引き続き、貴溪県を統括した(同じく江浙行省に帰属)。

鷹潭市

元朝末期の 1360年には、朱元璋の部下であった胡大海が信州を攻略し、信州を広信府へと改称する。翌 1361年には、安仁県が江南行省鄱陽府の管轄下に置かれる(1369年には饒州府へ移籍)。
明代末期の 1573年、鷹潭坊(現在の月湖区)に神峰寨巡検司が設置される。

清代も明代の行政区がそのまま継承され、貴溪県鷹潭坊は江西省広信府の管轄下に、安仁県は江西省饒州府の管轄下に配された。
1765年、鷹潭坊(現在の月湖区)に鷹潭司が設置され、さらに 1864年、鷹潭司が鷹潭鎮へ昇格される(引き続き、貴溪県の統括下に属した)。

中華民国が建国された後の 1914年、安仁県の地名が湖南省安仁県とだぶったため、余江県へと変更される。貴溪県と余江県はともに豫章道に帰属された。

鷹潭市

なお、現在の鷹潭市 中心部(月湖区)は、清代末期に設置された鷹潭鎮を最高位とする、地方の一田舎町に過ぎなかった。主に近代以降に開発された都市である。かつての旧市街地は、信江と環城西路、環城東路との間に囲まれた一帯にあったと推察される。

鷹潭市街区から東へ 16 kmのところにある、鷹潭市貴溪の旧市街地にあった貴溪県城であるが、唐代中期に設置されて以降、現在の鷹潭市エリアに存在した最古の県城であったわけであるが、現在ではその遺構は全く残されていない。わずかに路地名や地名にその名残が感じられるだけであった。北門大酒店、北門外、北門薬局、西后街、南大街、西街、東門外、東門街弁など。


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