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湖南省岳陽市 ~ 人口 555万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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  岳州城(巴丘城、巴陵県城、岳陽郡城)
  華容県城(南安県城、安南県城)



【 岳陽市の歴史 】

岳陽市一帯では、3000年以上前から人類の生息が確認されているという。
周朝の敬王の時代、岳陽市内で西糜城の築城があったとされるが、その正確な場所は分かっていないらしい。春秋時代は楚、麋、羅国が割拠する地域であったが、戦国時代初期には楚国により統一される。
その楚も紀元前223年に秦の始皇帝により滅ぼされる。それから2年後に春秋戦国時代も終焉を迎え、全国に郡県制が導入されて、秦国により中央集権統治体制の導入が図られる。岳陽市域の大部分は、長沙郡羅県に帰属された。
前漢王朝の時代、今の岳陽市域の大部分は長沙国下の隽県と羅県の管轄下に置かれ、今の華容県は南郡古華容県と武陵郡孱陵県に分かれて管轄されることとなる。
後漢王朝の時代、長沙国は長沙郡へと改編され、羅県の東部が分離され、今の平江一帯に漢昌県が新設される。

時は三国時代。208年の赤壁の戦いで劉備ととも魏の曹操の南下を阻止した呉の孫権は、荊州東部の江夏郡の占領に成功する。 呉将軍の周瑜はさらに曹仁や徐晃らが守る荊州の中枢部にあたる江陵城の攻略戦を1年がかりで進めることとなる。 一方、この間に劉備側は荊州南部4郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を平定する。周瑜が210年に死去すると、 そのどさくさに乗じて、劉備はさらに南郡の公安城をも占領することになる(江陵城には引き続き、呉将軍・程普が在陣)。
この際、呉の孫権と劉備との間で協議が行われ、劉備に南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部5郡を貸与する、 ということで決着を見る。

しかし、実際には、呉は荊州の江夏郡以外にその周辺の地域をも実効支配していたようである。 その代表的なものが、長沙郡の北側(漢昌県―羅県の東側―と下隽県)地区であった。 210年中にも、孫権はこの地を勝手に長沙郡から切り離して、漢昌郡(郡役所は今の平江県金鋪観に開設)を新設する。 ちなみに、これが岳陽市域で初めて郡役所が設置された瞬間ともなった。劉備に貸与した「長沙郡」ではない、という体を繕うためであったと考えられる。
この新設された漢昌郡太守には、周瑜の死後に後継役として指名されていた魯粛が奮武校尉(呉総軍事長官)の任とともに選出されている。
魯粛は最初、江陵城に軍の主力を置いていたが、後に赤壁の古戦場に近い陸口(湖北省咸寧市嘉魚県)に駐屯地を移す。 ここで兵士の訓練を図りつつ、洞庭湖畔の最西部であった現在の岳陽市内に巴丘邸閣を築造し、前線基地の一つとした。
215年の益陽における魯粛と関羽との単刀赴会の後、荊州を湘江の東西で蜀呉で分割する合意が成立し、呉は長沙郡と桂陽郡を蜀から返還される。このときは和睦となったものの、劉備側への不信感を募らせた呉の孫権は、呂蒙に命じ、魯粛が建造した巴丘邸閣をさらに拡張させて巴丘城(現在の岳陽市内)を築城し、大軍を常駐させていくこととなる。
最終的に、4年後の219年、ついに関羽を討伐し、荊州3郡の奪還が成る。

229年、呉を建国し初代皇帝に即位した孫権は同年中に、孱陵県の南部(今の中容県一帯)を分離して、南安県を新設し、あわせて漢昌郡を廃止して、漢昌県を呉昌県(今の平江県)へと改名させている。ここにかつて一時赴任した魯粛を顕彰した改名であったのだろうか。

岳陽市

その呉も四代皇帝の孫皓が、280年、西晋朝に降伏することで滅亡し、三国時代は終焉する。全国を統一した西晋の司馬炎は同年、下隽県の西部(今に岳陽市と臨湘市一帯)を分離して、巴陵県(現在の岳陽市内)を新設する。

西晋第二代皇帝の恵帝が即位した翌年の291年、長沙郡の北部に建昌郡(郡役所は巴陵県城に開設)が新設され、蒲圻県、下隽県、呉昌県、巴陵県の4県を統括するものとされる。また、南安県は南平郡(南郡から改称)の帰属とされた。しかし、335年、すぐに建昌郡は廃止され、その行政区は再び長沙郡に吸収される。

南北朝時代の南宋朝の統治下の439年、長沙郡の北部の巴陵県、蒲圻県、下隽県と江夏郡の沙陽県が合体されて、巴陵郡が新設される。郡役所は巴陵県城に設置され、これ以後、岳陽市中心部に郡役所が常設されていくこととなる。ただし、呉昌県、羅県は長沙郡、安南県(南安県から改名)は南平郡に帰属されたままとなる。
さらに続く南北朝時代下、羅県からは湘陰県(長沙郡)と玉山県などが次々と分離・新設されていき、これらがまとめられて岳陽郡が設置される。この郡役所は岳陽県城(今の湯羅長楽鎮で、現在の岳陽市街区があった巴陵県とは異なる)に置かれた。

隋代の589年、巴陵郡は巴州へ、さらに591年、巴州は岳州へ改名される。先の岳陽郡は廃止され、岳陽県は湘陰県へと変更される。 598年には、安南県が華容県へと改称され、岳州の管轄下に入る。こうして、岳州は巴陵県、羅県県、湘陰県、華容県、および沅江県の5県を統括し、現在の岳陽市域全部が同じ行政区を形成することとなる。

岳陽市

唐代もこの行政区が継承される。羅県が湘陰県に吸収合併され、湘陰県東部が分割されて昌江県(後に平江県に改名)が新設されるなど、小規模な改編があったものの、巴陵県城を中心とする岳州が維持される。
宋代には湘陰県が潭州へ編入され、また巴陵県の東北部が分離されて王朝県(後に臨湘県へ改名)が新設され、そのまま岳州の帰属とされる。こうして、岳州は巴陵県、臨湘県、平江県、華容県の4県を管轄することとなる。
元時代の1276年、岳州は岳州路となり、湘陰県のみ潭州に帰属された。

明代初期の1369年、岳州路は岳州府へ改称される。 1397年には常徳府の下に置かれていた澧州(安郷県、石門県、慈利県などを統括)が岳州府の下へ移転される。
清代も明代の行政区が継承される。湖南省下の四道のうち、岳州府は岳常澧道の管轄下に置かれた。
清末の1899年、イギリスの圧力に屈し、清政府は岳州港を開港させられている。
中華民国時代に湖南省の所属となり、1996年に現在の市制が始まって、今日に至る。

岳陽市

岳陽市街区にあった古城(呉の魯粛・呂蒙が築城した巴丘城を、西晋朝が修築して再活用した巴陵県城にはじまり、後に岳陽郡城や岳州城へと改名)跡であるが、今日は洞庭湖沿いの名所、岳陽楼の湖畔公園に保存されている瞻岳門と周辺の城壁以外は、すべて撤去されてしまっている。その他のエリアでは、わずかに路地名にその名残が感じられるのみである。馬壕路(かつて土塁があった)、廟前街、東茅巷、北輔街、南輔街、砲台山路など。

岳陽市

また、洞庭湖の西側にある岳陽市華容県の旧市街地にも、かつての華容県城(南安県城、安南県城などから改名された)があった。しかし、今日は城壁、城門ともにすべて撤去されしまっている。ただ、路地や地名にははっきりと城郭都市時代の記憶が刻み込まれていた。南門市場、北門市場、西門酒楼、西正街、東正街、北正街、城南橋、城関鎮、城南路、華容県南街小学など。


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