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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広西省チワン自治区玉林市 ~ 人口 705万人、一人当たり GDP 23,000 元


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  郁林州城
  容県城(蕩昌県城、陰石県城、普寧県城)



【 玉林市の歴史 】

玉林市のもともとの名称は郁林(鬰林)といい、2000年以上の歴史を有する歴史の街である。世界最大の日用陶瓷の生産・輸出地であり、また世界有数のジーンズや南方薬材の生産拠点でもある。あわせて、建材や食品加工などの産業も盛んという。そして、広西省最大の華僑輩出の地でもあり、全世界、特に香港、マカオ、台湾には200万人もの人々が移住したとされる。

玉林市一帯は古くは百越の地に分類され、西瓯族や駱越族らの割拠する地域であった。中原が春秋戦国時代にあった時分、各部族内でも階級社会化が進みつつあったという。
紀元前221年、秦の始皇帝が中原を統一し、その2年後の紀元前219年には早くも嶺南方面への遠征軍が派遣されてくる。足かけ5年にわたる戦闘の末、ついに紀元前214年、玉林市一帯を含む華南地方も秦国に武力併合されるに至る。翌年、この広大なエリアに南海郡、桂林郡と象郡の3郡が新設されて、中央集権体制の導入が図られた。玉林市区はこのとき、象郡と桂林郡に分かれて帰属されることとなる。

紀元前208年の秦滅亡により中原が混乱する最中、南海郡慰に就任していた秦将軍の趙佗が桂林郡と象郡をも武力統合し、紀元前204年に嶺南全体を領する南越国を建国する。
その南越国も、紀元前111年に前漢王朝の第七皇帝の武帝により平定される。旧領地には、交趾刺史部の下、南海郡、蒼梧郡、郁林郡、合浦郡、交趾郡、九真郡、日南郡、珠崖郡、儋耳郡の9郡が新設される。今の玉林市の興業県は郁林郡(郡役所は布山県城内に開設ー現在の貴港市)に、玉州区や福綿区、容県、北流市、陸川県、博白県は合浦郡に帰属された。

前漢王朝が途絶えた王莽新朝の時代(9~23年)、郁林郡は郁平郡へと改名されるも、すぐに元の名称へ戻されている。
後漢末期の203年、交趾は交州(交州役所は広信城に設置)へと改編される。交州は南海郡から蒼梧郡、合浦郡そして荊州の貴陽郡と揚州の豫章郡の一部にわたる一帯を統括することとされた。

三国時代、嶺南一帯は呉領となる。217年、呉将軍の歩騭により交州役所が広信城から番禺城(南越国時代の王都)へ移転される。 226年に、交阯太守の士燮が死去すると、孫権は士燮の子の士徽を安遠将軍に任命し、九真太守に封じる。そして、父の後任の交阯太守には、呉から派遣された陳時が任命され、さらに交州を東西に分割して、東に広州が新設され、それぞれ戴良と呂岱が州長官に赴任することとされる。これに激怒した士徽は、交阯城(現在のベトナム・バクザン省バクザン市)に赴任途上の戴良と陳時を妨害し、交阯城で籠城戦を展開する。広州長官に着任していた呂岱は士徽らを征伐すべく、すぐに軍を発して交阯城へ進軍する。そして、偽計を使って士徽ら6兄弟を処刑し、交州の反乱を平定する。こうして嶺南の交州一帯に長らく勢力を張ってきた士燮の一族は滅亡し、この地の簒奪に成功した呂岱は、すぐに東部に新設した広州を廃止し、 元の一つの交州に戻す。ただし、呂岱は引き続き、広州城を居城としてこの地を統括することとなる。

玉林市

そして呉末期の264年、最終的に交州の名称が廃止され、広州に統一される。以後、宋代までこの地名が継承されていくこととなった。


東晋時代の318年、晋興郡が新設される。その郡役所は、今の来賓市街区に開設された。南北朝時代の梁朝の統治下では定州(後に南定州へと改名)に帰属された。
隋朝下の500年代末、郁林郡と晋興郡が廃止されるも、600年代初頭に郁林郡のみ復活され、かつての両郡全域を管轄するものとされる。
唐代に入ってすぐ郁林郡は廃止されるも、742年、嶺南道の下、再び郁林郡が復活される。郡役所は興業県蒲塘鎮と洛陽郷の一帯に開設された。後に、郁林州へと再編される。
北宋代の996年、郁林州の州城が南岸側に新たに築城される 。これが今に残る古城跡となる。この時代、監督行政庁が度々改編される(広南路、広南西路、広西黔南路、広南西路、広西路)。
元代、明代も郁林州の行政区が継承される。なお、元代においても、監督行政庁が度々改編された(広行省広西道、広行省広西两江道、広西行中書省)。明朝初期の1368年、郁林州が梧州府の管轄下に入る。
清代には郁林州は梧州府から分離・独立され、桂平梧郁道の下に配される。 1725年には、郁林州は郁林直隷州へと昇格される。
清が滅亡し、中華民国の時代となると、州制度が廃止され、府制度が採用されるも、翌年には府制度も廃止され、県制に統一の後、各省の直属扱いとされるこことなる。

玉林市

なお、北宋時代に、玉林市街区に築城された郁林州城(清代には郁林直隷州役所も開設された)であるが、規模は小さめであったようである。それでも、今日、全く城壁や城門跡は残されていない。路地や地名にわずかな名残を感じる他ない状態である。北門巷、南門粉店、東門広場、東門商業広場、東門旅館など。
史書によれば、河の南岸に築城されたとあり、現在の北岸との整合性が取れないが、周囲の地名を観察すると、古城跡のさらに北に「江岸村」という地名もあり、当時の河川の位置が現在の南流江と異なっていた可能性が高い。

玉林市

また、古くから県城として城壁都市を有してきた容県の旧市街地も、今では全く城壁や城門跡は残っていない。しかし、現在に残る路地名には数多くの記憶が刻み込まれていた。南大街、南門街、城南街、東門街、東大街、東外街、東街村、北門街、北大街、西大街、沿江北街(かつての堀川跡)、城西路など。

晋朝の時代(281~420年)、交州合浦郡の合浦県が分割され、合浦県と蕩昌県の2県となる。ここで新設された蕩昌県役所の開設された県城こそ、今の容県古城である。
南北朝時代の梁統治下の523年、蕩昌県が陰石県へと改名され、石州(州役所は今の藤県城内に開設)の下に、陰石郡が配される。陰石郡の郡役所は陰石県城内(今の容県古城跡)に設置される。このとき、初めて郡都まで昇格されたことになる。
隋朝初期の589年、陰石県城は奉化県城へと改名される。599年にはさらに、揚州永平郡(郡役所は今の藤県)下の普寧県城へと変更される。
唐朝初期の621年、合浦郡の北流県と永平郡の普寧県(今の容県城跡)が分離されて、銅州を構成するものとされる。 627年、唐の太宗により中国全土に、各州県の地名をその所在地の有名な山や川から命名するように勅令が発せられ、それに従い、銅州内の名山である大容山から命名されて、銅州は容州へと改名される。このとき、容州普寧郡が設置された。
唐代後期の806~820年、容州役所と普寧郡役所が普寧県城内に集められ、州行政の中枢を担う都市として君臨することとなる。州都としての機能は明代まで続いた。
明代初期の1369年年に普寧県が廃止され、容州の地名に統一される。さらに1377年、広西承宣布政使司梧州府の管轄下におかれ、容州は容県へと改名される。以後、今日まで容県の地名が継承されてきたわけである。

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