BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山西省 運城市 ~ 人口 525万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  蒲坂県城(夏王朝の舜王の王都跡、蒲反県城、河東県城、蒲州城、河中府城、蒲州府城)
  安邑県城(夏王朝の禹王時代の王都跡、戦国時代の 魏国の王都跡、河東郡城)
  絳城(春秋時代の 晋国の王都)
  夏県城(北安邑県城)
  運城(塩邑、塩氏、司塩城、塩監城、鳳凰城、運司城)



【 運城市の 歴史 】

運城市の歴史は相当に長い。
黄河の中流域には、史上初めて火を使用した古代原人が生息したとされ(180万年前の旧石器時代の西侯度遺跡)、また新石器時代以降では、食用塩精製や農耕、陶器生産などが発達した文明的集落の存在が確認されており、運城市域は中華文明 7000年の歴史の目撃者と形容される所以となっている。

伝説によると、堯王が 平陽(今の 臨汾市尧都区)を王都として夏王朝を建国する。その後継者として迎えられた舜王により王都が 蒲坂(今の 運城市永済市)へ移転され、さらにその権力基盤を引き継いだ禹王により安邑(今の 運城市夏県の北西 7.5 km)へ王都が遷都される。特に、この 3代の国王の治世下、一貫して運城市エリアは王都の近郊に位置し、当時はこの地が地理的、文明的に世界の中心と認識されたことから、 後に「中国」という概念が誕生することとなった。

運城市

続く 商(殷)王朝の時代、新設された 9つの州のうち、冀州エリアに属した(上地図)。

春秋時代期には、晋国の版図下に置かれ、晋の献公の統治時代の紀元前 669年、王都が 絳(今の 運城市絳県)の地へ遷都される。 なお、この時代、今の運城市の中心部は塩邑と通称され、戦国時代に入ると、塩氏と呼称されるようになる。今も残る塩湖は、古くから塩の生産が行われてきた。

運城市

後の紀元前 376年に晋国が 韓、趙、魏の 3国に分裂すると、運城市エリアは魏領下に組み込まれ、当初、魏国の王都が安邑城内に開設された。
しかし、西側で勢力を拡大する秦国に度々、国境線を侵されるようになる。早くも紀元前 361年に少梁における秦国との戦争で大敗を喫し、皇太子まで捕縛されてしまう。このとき、一時的に東部の大梁城へ遷都が行われた。

さらに、紀元前 354年に趙国が魏国と同盟関係にあった衛国に侵攻した際、魏国はその報復として趙国の 王都・邯郸(今河北省邯郸市)を包囲するも、翌紀元前 353年、趙国に救援を請われた斉国の 孫臏(孫武の子孫)らの率いる大軍が、空き巣状態の魏国へ侵入し大梁城を包囲する。両面作戦が不可能と見た魏国はその主力軍を趙国から撤退させた。

また紀元前 341年には再び斉国の大軍が魏国内の大梁城を包囲し、魏軍が包囲する韓国下の新鄭城を救済する事件が起きる。こうして魏国は度々、周囲の大国からその領土を侵される現状を、王都・安邑城が不吉の元凶と断じ、最終的に紀元前 339年、大梁城へ遷都することとなる。

運城市

その魏国も、ついに紀元前 225年、秦国の侵攻を受け滅亡に至る。
秦の始皇帝による勢力拡張はそのまま続き、紀元前 221年には中原全土を統一すると、すぐに全国を 36郡に分け、直接統治体制の導入が図られた。このとき、運城市一帯は河東郡下に帰属し、安邑県城はその郡都として君臨することとなる。

運城市

前後漢時代には、今の運城市の中心部は司塩城、もしくは塩監城と通称された。ちょうど 晋州、陕州、豫州の 3州が交わる黄河流域の黄金の三角地帯に位置する土地柄で、ここで生産される食用塩は長安、洛陽などの華北の大消費地へ搬出され、黄河の水運交易上の要衝ともなった。
また、前漢時代に 蒲反県城(今の 運城市永済市蒲州鎮の南西 1 km)が新設される。王莽の新朝の時代に蒲城県へ改称され、最終的に後漢時代に蒲坂県となる。

三国時代も引き続き、河東郡に属した。上地図。
なお、三国時代の蜀の名将・関羽は河東郡下の 解良(今の 運城市塩湖区解州鎮常平村)の出身であり、運城市は彼の故郷として知られる。

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後漢末期、9歳で後漢朝の最後の皇帝に即位した献帝が 15歳のとき(195年2月)、長安城内で董卓の後継を巡り李傕と郭汜との間で内紛が勃発すると、長安城は戦火に巻き込まれ荒廃してしまう。その中で 1年近く、献帝はこの安邑県城に逃亡しており、一時的にせよ、後漢王朝の実施的な首都となっていた。翌 196年7月、地方軍閥に担ぎ出されて洛陽への帰還に成功するも、翌 8月には、曹操の保護下に入り、許県城へ遷都させられることとなる。以後、曹操による傀儡政権の様相が強まることとなった。上地図。

また 211年の曹操と涼州の馬超・韓遂との間で行われた潼関の戦いでは、曹操が黄河を南岸から北岸側へ渡河する際に、馬超に命からがら追い込まれた地でもある。下地図。


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南北朝時代の前秦の治世下の 354年、蒲坂城内に秦州(371年に雍州へ改称)役所が開設された。同時に、河東郡の郡都が安邑県城から蒲坂城へ変更される。
雍州はさらに、417年に并州へ、428年には雍州へ、そして最終的に 432年、秦州へ改名される。最終的に北周時代の 558年、蒲州(蒲坂県から由来)へ改称された。
また 428年には、安邑県が北安邑県と南安邑県へ分離される。493年、北安邑県役所がさらに東側へ移転され、夏県城へ改称される。これが今に続く、運城市夏県の旧市街地である。

隋代の 596年、蒲坂県役所が前漢時代に設置された旧城の東側に移転される。旧蒲坂県城は河東県へ改称される。 607年、最終的に蒲坂県は廃止され、河東県へ吸収合併される。

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唐代初期の 618年、桑泉県城(今の 運城市臨猗県臨晋鎮)内に蒲州役所が移転されるも、620年、州役所は再び、河東県城(引き続き、旧「蒲坂県城」の名でも通称された)内へ戻された。蒲州は 河東県、河西県、臨晋県、猗氏県、虞郷県、宝県、解県、永楽県などを統括した。上地図。
720年には蒲州は河中府へ改編される。

北宋時代、引き続き、河東郡河中府や蒲州などと名称の変更が繰り返されるも、その中心都市は 河東県城(通称:蒲坂県城)が担当し続けた。
また、この時代、運城市の中心部は、鳳凰城や運司城、運城と通称されており、華北地方の食用塩の精製・管理・運搬を司る一大拠点として名を馳せていたようである。
金代もこの行政区が踏襲された。

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明代の 1369年に蒲州へ、清代の 1728年に 蒲州府(上地図)へ改編される。

中華民国の前半期は、運城市一帯は河東道に帰属した。日中戦争が開始された 1939年4月に、運城市が新設される。その管轄下には 安邑県、襄陵県、汾城県、万泉県、榮河県、臨晋県、猗氏県、曲沃県、翼城県、解県、虞郷県などの 20県が配された。

下地図は、今の運城市永済市蒲州鎮から西へ 1 kmの地点に残る蒲州古城跡の位置を示す。黄河沿いに発達した水運都市であった。

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