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雲南省玉渓市 ~ 人口 231万人、 一人当たり GDP 47,000 元


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  俞元県城(建寧郡城、新興州城)



【 玉渓市の歴史 】

戦国七雄の一国であった楚国は庄蹻を大将軍として、長江をさかのぼる形で 四川、雲南方面への遠征軍を発する。当時、秦国の領土となっていた巴郡、蜀郡を占領し、紀元前286年には雲南地方の古滇の地まで 武力併合することに成功する。しかし、紀元前279年に秦国により巴郡と蜀郡一帯が再奪取されてしまい、 庄蹻を総大将とする楚軍は祖国への退路を断たれることになる。こうして紀元前277年に、庄蹻は滇王を名乗って 古滇国を建国することになった。その後、紀元前233年に秦により祖国の楚が滅ぼされた後も、秦国に服属することなく、 古滇国は独立国を貫いた。
時は下って、領土拡張政策を進める前漢第七代皇帝の武帝により、古滇国への征伐軍が発せられ、紀元前111年、前漢軍により占領された現在の玉渓市華寧県一帯は、新設された牂牁郡母単県に帰属されることとなった。 そしてついに紀元前109年、滇王は前漢軍に降伏する。このとき、武帝により滇王の金印を下賜されて、領土を安堵されたという。そして、四川盆地に益州郡が設置され、その管轄下に滇池県(今の晋寧)、双柏県(今の易門)、俞元県(今の澄江)など24県が新設される。

三国時代、孔明により俞元県が建寧郡へと昇格される。蜀の滅亡後、西晋、東晋時代は晋寧郡俞元県と改名される。南北朝時代、俞元県は寧州建寧郡に引き続き所属した。

玉渓市

隋代に入り、西爨が新設され、寧州総管府の管轄下に入る。唐代には求州となり南寧州都督府に属すも、玄宗皇帝の時代、この地域は南詔国に占領される。760年、南詔国は俞元県に温富州を設置し、河陽郡の下に帰属させた。このときに、玉渓市が行政都市としての歴史を最初に刻むこととなった。
中原が宋王朝の時代、雲南省一帯は大理国の領土下にあり、温富州休制部として、引き続き、河陽郡の管轄下とされる。

大理国を滅ぼした元王朝の時代、雲南中路羅伽万戸府の下、温富千戸所が設置され、部傍千戸所、普舍千戸所、研和千戸所を管轄する。後に、雲南行中書省澄江路の下として新興州が新設され、休納県、普舍県、研和県を統括することとされた。
明朝の時代も、元朝の行政区分が踏襲され、玉渓市一帯は昆陽州の澄江府と臨安府、および寧州の元江府に分かれて帰属された。清王朝も明朝の行政区制を継承し、地名のみ変更となり雲南府、澄江府、臨安州、新興州などに属した。

近代に入った1912年、雲南省新興県となる。翌年、休納県が設置され、1917年に玉渓県が設置される。珠江デルタへ注ぐ大河の一つである玉溪から命名されたという。中華人民共和国の成立以後、周辺の県を併合していき、1983年9月9日に玉渓市制が成立することになる。

玉渓市

なお、この俞元県城(前漢時代~)、新興州城(元代~)があった地であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。北門街、南門街、小廟街、南北の公園に堀川跡が残る。


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