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山東省棗庄市 ~ 人口 140万人、 一人当たり GDP 31,000 元


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  薛県城
  傅陽県城
  承県城(蘭陵郡城、【2代目】蘭陵県城、【2代目】繒州城、嶧州城、嶧県城)
  繒県城
  昌慮県城
  台兒庄古城



【 棗庄市の歴史 】

戦国時代期、現在の棗庄市域は、魯国と楚国の国境地帯に位置し、戦略的に重要なエリアとされ、多くの城邑が設置されていた。下地図。
その城邑群の中でも最も早くに県城へ昇格されたのが、蘭陵県(今の山東省臨沂市蘭陵県蘭陵鎮)であった。当時すでに楚領に組み込まれており、紀元前249年に楚が魯を滅ぼすと、棗庄市エリア全体は完全に楚領に併合される。

棗庄市

その楚国も、紀元前223年、秦の始皇帝により滅ぼされる。
秦代に入り、全国に郡県制(最初は36郡、後に48郡へ増設)が導入されると、現在の棗庄市一帯は、薛郡下の薛県(今の棗庄市滕州市張汪鎮と官橋鎮の一帯)と泗水郡下の傅陽県(今の棗庄市台兒庄区張山子鎮候孟村)、東海郡下の繒県(今の棗庄市市中区蘭陵県向城鎮鄫城村)、蘭陵県(今の山東省臨沂市蘭陵県蘭陵鎮)に分かれて統括された。下地図。

棗庄市

前漢時代には(朝廷直轄の)郡県制と封国制が同時に採用される。
当時、今の棗庄市エリアの南部が楚国下の傅陽県に、西部が魯国下の薛県外に統括される以外は、東海郡下の承県、蘭陵県、繒県(今の棗庄市市中区蘭陵県向城鎮鄫城村)、陰平県、建陽県、都陽県、新陽県、昌慮県(今の棗庄市滕州市羊庄鎮土城村)、合郷県に分かれて管轄された。下地図。

なお、このとき新設された承県であるが、付近を流れる承水(現名:棗庄市内にある大沙河)より命名されており、県城は、現在の棗庄市嶧城区の中心部にある城区中心幼稚園の一帯に開設されていた。下地図。

棗庄市

後漢時代を通じて、いくつかの県城が廃止され、最終的に、東海郡下の承県、陰平県、蘭陵県、昌慮県、合郷県と、彭城国下の傅陽県、琅琊国下の繒県が存続した。

三国時代期には、今の棗庄市エリアの南部は彭城国下の傅陽県に、北東部は琅琊国下の繒県に、その他は東海国下の承県、蘭陵県、陰平県、昌慮県、都陽県などに分かれて帰属された。

西晋朝初期も、曹魏時代の行政区がそのまま踏襲される。
291年、東海郡下の蘭陵県、承県、咸県、合郷県、昌慮県の5県が分離され、新たに蘭陵郡が新設される(郡都は承県城)。これが現在の棗庄市内で最初に郡役所が開設された瞬間となる。


棗庄市

五胡十六国時代、華北地帯で後趙、前燕、前秦、後燕などが乱立される中、一環して東晋朝の領土下にあったが、東晋朝の滅亡後は、劉宋、北魏、東魏、北斉、北周朝と、目まぐるしく為政者が変わることとなる。上地図。
300年間の南北朝時代を通じ、北魏時代の一時期を除き、蘭陵郡(郡都は承県城)がそのまま継承される。

しかし、戦乱の中国を統一した隋朝により、596年、蘭陵郡が廃止され、代わりに、繒州が新設される。承県(州都を兼務)、蘭陵県、繒城県の3県を統括した。最終的に606年、繒州と蘭陵県(今の山東省臨沂市蘭陵県蘭陵鎮)が廃止されると、承県へ編入される(彭城郡下へ移籍)。

棗庄市

唐代の621年、再び廃止されていた繒州(州都は承県城)が復活設置されるも、632年に完全廃止される。同時に蘭陵県(今の山東省臨沂市蘭陵県蘭陵鎮)と繒城県(今の棗庄市市中区蘭陵県向城鎮鄫城村)の2県も廃止され、すべて承県(沂州に帰属)に吸収合併される。
この行政区は唐末から、五代十国時代、北宋時代に至るまで継承された。上地図。

棗庄市

時は下って金朝の時代、今の棗庄市一帯は、引き続き、邳州下の承県(1195年に蘭陵県へ改称)の管轄区に組み込まれていた。当時、邳州(1129年に新設)は、この蘭陵県を含め、下邳県と宿遷県の3県を統括した。
1216年3月、蘭陵県(今の棗庄市嶧城区の中心部)の県城が、今の棗庄市嶧城区呉林街道の後土楼河村へ移転される。
1220年ごろ、嶧州が新設されると、その州役所が旧繒州城跡(旧承県城跡。今の棗庄市嶧城区の中心部)に開設される。州城の南 7.5kmにある葛嶧山にちなんで命名されたという。

元代、嶧州は益都路に帰属された。1265年に蘭陵県(今の棗庄市嶧城区呉林街道の後土楼河村)が廃止され(同時に下邳県と宿遷県も廃止)、邳州に吸収されると、邳州は配下に県城を有しない単体州となる。

棗庄市

明代の1369年、嶧州が嶧県(今の棗庄市嶧城区の中心部)へ降格される(済寧府に帰属。1385年に兗州府下へ移籍)。上地図。
清代も明代の行政区が踏襲され、嶧県が存続するも、山東省兗州府に帰属した。

棗庄市 棗庄市

日中戦争時代、現在の棗庄市台兒庄区の中心部を巡って、日中双方は1か月間に及ぶ苛烈な戦闘を繰り広げた(1938年3月16日~4月15日)。日本側1万人強、中国側5万人弱の死者を出した激戦は、日本軍の一時撤退という形を幕を閉じる。戦争中の数少ない戦勝ニュースに、中国全土が歓喜したという。上写真。


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