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湖南省張家界市 ~ 人口 171万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  慈利県城(天門郡城、永定衛)
  安福県城



【 張家界市の歴史 】

張家界市域には多くの古代遺跡が存在しており、 20万年前の人類の生息が確認されているという。
商周時代は楚に帰属し、春秋戦国時代においては楚国が設置した黔中郡に属した。もともとの地名は大庸で、春秋時代の初期には庸国があった地とされる。原始時代後期の生活が長く続けられており、南蛮地域の一つと考えられてきたようである。

張家界市

紀元前221年に中原を統一した秦の始皇帝は、全国に36郡を設置し、さらにその下に県を配して、中央集権体制の導入を図った。このとき、張家界市一帯は黔中郡慈姑県(県役所は慈利県官塔坪に開設)に帰属された。

前漢王朝時代、漢の天領となった地方には郡県制が引き続き継承されていたが、その他の地域には前漢建国の功臣らの封国が配され、直接統治が認められるという二重支配体制が敷かれる。紀元前202年、初代皇帝の劉邦により黔中郡が分割され武陵郡が新設される。あわせて慈姑県も分離され、零陽県、孱陵県と充県(今の市中心部の永定区、武陵源両区と桑植県がここに含まれた)が設置される。

三国時代の後期、呉の三代目皇帝であった孫休が263年、嵩梁山洞門を視察した折、その運気の良さを称えて嵩梁山を天門山と改名し、同時に武陵郡は天門郡へと改称される。そして郡役所が現在の中心市街地(永定区)の旧市街地に設置される。

南朝の梁統治下の555年、天門郡は澧州へと改名される。このとき、澧陽県も新設される。
隋代の607年、澧州が廃止され、澧陽郡となる。澧陽郡役所は澧陽県城(今の石門)に開設され、澧陽県、石門県、孱陵県、安郷県、崇義県、慈利県(三国時代からの天門郡城跡に県役所が開設され、今の永定区、武陵源両区と桑植県の一帯を統括)の6県を管轄することとされる。
唐朝初期の621年、澧陽郡が澧州へと再変更され、全国十道のうちの江南西道に属することとされた。引き続き、6県を所轄する。
五代十国時代(907~960年)において、張家界市一帯は楚国の版図下に組み込まれていた。
五代十国時代の内戦を平定した北宋王朝は、中央集権体制の強化を図り、全国を二十三路に区分し、その下に府、州、軍の3行政区を設置する。
963年、張家界市域は澧陽郡慈利県に帰属された。あわせて、今の桑植県には安福寨が、今の永定区大庸村には武口寨が、今の武陵源区には索口寨という(簡易な)要塞都市が建設される。

元代、全国は11行省に区分けされ、1277年、澧州路総管府の下に4県(慈利県はそのうちの一つを占めており、つまりは、張家界市全域)が配された。今の永定区茅岡に茅岡都元師府が開設される。
明代に入って、元朝が採用した中書省制度が廃止され、全国を13承宣布政使司に区分し、実行省がその地方の行政すべてを司る体制確立が進められることとなった。この中で1369年、慈利州が降格され、大庸県となり、澧州に帰属される。現在の張家界市中心部の永定区には、引き続き、慈利県城があり、ここに永定衛が設置されて、軍駐屯所の強化が図られる。
清代、全国は23行省に区分けされ、その下に府、州、県の行政区が設置されることとなる。 1730年、桑植県と茅岡県では引き続き、土司の世襲統治が継承されたものの、澧州は昇格されて清朝直轄州となり、その下に、安郷県、石門県、慈利県などの4県を統括することとされる。あわせて、永定衛(慈利県城)と九溪衛が廃止され、これらを吸収する形で安福県(今の永定区、武陵源両区と慈利県、桑植県は当時、安福県に帰属)が新設される(後に、永定県と改名)。このまま清末を迎え、中華民国時代に入って、辰沅道に帰属されることとなる。
1994年に大庸市から改名されて、今日ある張家界市が成立する。

張家界市

さて、張家界市の旧市街地であるが、三国時代の後期、呉の三代目皇帝であった孫休が、263年に新設した天門郡の郡都となったことから歴史が始まる。その後、すぐに一県レベルの都市へと降格されてしまい、慈利県城として清代末まで残ることとなる。旧市街地には、全く城壁も城門も残されていないが、わずかな路地名から、かつての名残を感じることができる。張家界北門ホテル、東門橋(バス停)、西門渓路、北正門、南正門など。


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