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河北省張家口市 ~ 人口 470万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  文徳県城(武州城、歸化州城、宣徳県城、宣徳州城、宣化府城)
  広寧県城
  寧県城
  下洛県城
  陽門県城
  宣平県城(大新鎮城)
  【初代】万全県城(徳勝口堡、万全右衛)
  張家口堡(【2代目】万全県城)



【 張家口市の歴史 】

春秋戦国時代期、現在の張家口市の北部一帯は匈奴と東胡族が割拠する遊牧民族地帯であり、南部一帯は燕国と代国の領土下に組み込まれていた。下地図。

張家口市

張家口市

秦代には、南部が代郡に、北部が上谷郡の管轄下に置かれる。

前後漢時代には、ほぼ市域すべてが幽州に帰属され、一部のみは烏桓族、匈奴族、鮮卑族の勢力圏下にあった。

張家口市 張家口市

前漢朝の第7代皇帝の武帝により北伐が決行されると、匈奴などの遊牧民族を駆逐し、その占領地に次々と県城が新設されていく(上地図)。その過程での紀元前129年、広寧県(今の張家口市の南部)や、寧県城(今の張家口市万全県)などが開設されている(上谷郡に帰属)。下地図。

張家口市

三国時代末期の280年、西晋朝の司馬炎が呉を滅ぼし、三国を統一すると、すぐに全国の行政区の再編に乗り出す。当時から匈奴や鮮卑族らの南下が著しかった北部の上谷郡は、その防備強化が図られ、西部が分割されて広寧郡(280年、下落県より改称された下洛県城が郡都を兼務)が新設される。このとき同時に、広寧県と寧県城が一時的に廃止され、下洛県(今の張家口市涿鹿県涿鹿鎮の西部)に吸収合併されている。下地図。

張家口市

南北朝時代期、維持が不可能となった寧県城は完全廃止される。
隋代、張家口市域の東部は涿郡の、西部は雁門郡の管轄下に置かれた。

唐代には、南部一帯は河北道下の嬀州と新州、河東道下の蔚州に帰属されるも、北部一帯は突厥国の版図下に組み込まれていた。
唐末期の889年、文徳県(今の張家口市宣化区)が新設されると、そのまま武州の州都を兼ねることとなる。現在の張家口市エリア一帯を統括した。下地図。

張家口市

遼朝の治世下、武州が歸化州へ改称されると、文徳県はそのまま歸化州の州都として継承された。この頃、今の張家口市万全県宣平堡村に大新鎮が新設される。

金代の1168年、歸化州が宣徳州へ変更され、文徳県も宣徳県へ改名される(西京路に所属)。
大新鎮(今の張家口市万全県宣平堡村)が宣平県へ昇格され、今の張家口市万全県陽門堡村には陽門県が新設される。

元朝の治世下、張家口市一帯は中書省に直轄された。

張家口市

明代には、京師(順天府:今の北京市)に所属し、張家口市蔚県の一帯のみ、山西大同府の管轄下に組み込まれた。なお、この頃、明の長城が大規模修繕され、要所に防衛拠点が 設けられていく。その一環で、現在の張家口市の中心部にも軍事施設(張家口堡)が開設されることとなる。上地図。

1393年には、今の張家口市懐安県左衛鎮に万全左右衛が新設される(下地図)。
1404年、万全右衛の役所が徳勝口堡城(今の張家口市万全県の中心部)へ移転される。

張家口市

張家口市

下地図は、張家口市から東部の長城付近の様子。上部にはモンゴル風のテントが描かれ、長城より南には中国風の城壁都市群が描かれている。上の地図の大白羊堡、小白羊堡などがある一帯。

張家口市

清代、張家口市の北部一帯は口北三庁(多倫諾爾庁【今の内蒙モンゴル自治区シリンゴル多倫県】、独石口庁【今の河北省张家口市沽源県の南部】、張家口庁【今の河北省張家口市】)に所属したが、南部は宣化府(宣徳県城。今の張家口市宣化区)の統括下に置かれた。

1693年、万全右衛が万全県へ改編され、現在の張家口市中心部から北西部一帯(今の張北県膳房堡郷、万全県新開口村、万全県新河口村、万全県洗馬林)を統括することとされる。

中華民国が建国された翌1913年、直隷省察哈爾特別区と直隷省口北道(万全県はここに帰属)に分かれて所属する。
翌1914年、万全県の県役所が張家口堡(軍事要塞を兼ねた集落地)へ移転される。これが現在の張家口市の中心部を形成していく発端となる。


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