『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省漳州市 ~ 人口 500万人、 一人当たり GDP 30,000 元


 ➠➠➠ 漳州市内の城跡リスト ➠➠➠  クリック

  漳浦県城
  懐恩県城
  龍溪県城



【 漳州市の歴史 】

漳州市一帯では、約1万年前にすでに人類の生息が確認されているという。
春秋時代のころは「未開・野蛮」の蔑視が込められて、七閩の地と呼ばれていた。戦国時代前半に、江東地域に勢力を張った越国が楚国に滅ぼされ、旧越国の民衆や貴族層らがこの地に避難して以降、文化・民族の融合が進み、閩越の地と総称されるようになる。
紀元前221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、すぐに異民族地域への遠征を開始する。その手始めとなったのがこの閩越の地であり、瞬く間に武力併合されてしまう。そして、秦朝支配の下で中央集権体制の導入が図られ、閩中郡(郡役所は東冶県城内【今の福州市閩侯県】に開設)が新設されることとなる。

前漢朝時代の初期、梁山を境として、北が閩越国、南が南海国(紀元前195~紀元前174年)の領土となっていた。この南海国であるが、広州を拠点に独立勢力を築く趙佗の南越国の、前漢への帰順証明と抑止力を担保すべく、前漢朝の劉邦より南越国の一部が割譲され新設された封国であった。しかし、前漢に反乱を企てたという言いがかりにより、後に南越国の趙佗が軍勢を派遣し、この地を併合してしまうこととなる。
その南越国も、前漢第七代皇帝の武帝が発した遠征軍により滅亡させられる。以後、この華南地域にも郡県制が敷かれるわけであるが、この南越国討伐戦に協力した功績により、引き続き、閩越国での地元族長による直接統治が追認され、前漢朝は間接統治に徹することとなった。しかし、以後、閩越国への締め付けが強化され、ついに紀元前85年には閩越国自体も廃止されてしまう。以降、前漢朝による直接支配体制が導入された(会稽郡の設置)。このとき、現在の漳州市の北側は会稽郡(郡役所は江蘇省蘇州市に開設)に、南側は南海郡揭陽県に帰属された。

三国時代を経て、東西晋朝、そして南北朝時代にかけての戦乱期、北側は南安郡龍溪県と蘭水県に、南側は義安郡綏安県に属された。
300年ぶりに中原の戦乱を統一した隋朝は、592年、蘭水県と綏安県を龍溪県へ編入し、今の漳州市域はようやく南北分断の時代を終え、一つの行政区にまとまることとなる。しかし、間もなく、龍溪県は廃止され、その行政区は南安県に吸収合併されるも、すぐに南安県自体も廃止されることとなる。

漳州市

唐代中期の686年、建州(今の雲霄県西林村)が新設され、懐恩県と漳浦県の2県を統括するものとされる。さらに同年、泉州(今の福州市)の南部と、潮州の一部が分割されて、漳州が新設される。州役所が漳江の河辺に設置されたので、漳州と命名されたとされる。
716年、徙州の州役所が李澳川(今の漳浦県綏安鎮)へ移転される。以後、龍溪県と龍岩県を統括することとなる。786年、州役所が龍溪県桂林村(今の漳州市中心部)へ再移転される。

唐朝末期の戦乱下にあった886年、王潮らの三兄弟が農民義勇軍を率いて福建省へ進出し、泉州城を攻め落とし、この地にはびこった汚職官僚層の駆逐に成功する。この功績を受け、福建観察使の陳岩が唐朝廷へ王潮を泉州刺史に推挙し、この地での王潮兄弟による支配時代(威武軍節度使に封じられる)がスタートする。間もなく、唐朝も907年に滅亡すると、王潮の次弟であった王審知が福建省一帯の市民に支持される形で閩国(王都は福州市)を建国するに至る(909年)。
しかし、その閩国も947年に南唐朝に滅ぼされ、その旧領の北半分が呉越国に吸収合併される。これは、南唐軍の侵攻に苦しんだ閩国の残党勢力を、救援に出向いた呉越国が南唐の遠征軍を大破した結果、この地の勢力の帰順を受けたことによる領地拡大であった(下地図参照)。 北に呉越国と国境を接することとなった清源軍(今の泉州市、莆田市、漳州市一帯を統括した)では、引き続き、閩国の残留勢力が支配権を保っており、963年には平海軍へ改称するに至る。陳洪進が節度使に就いて独立勢力を保ち続けた。このとき、現在の漳州市域はこの平海軍の支配圏に組み込まれていた。

漳州市

北宋が南唐朝を975年に滅ぼすと、978年には呉越国も北宋に降伏し、呉越国は消滅する。強大な北宋と直接、国境を接するようになった平海軍節度使の陳洪進もまた北宋に帰順し(978年)、漳州をはじめ平海軍一帯も北宋の版図下に組み込まれることとなった。すぐに、北宋朝は平海軍を泉州(以後、元代は泉州路、明代は泉州府へ改編)へ再び改称している。以後、北宋代は福建路、元代は福建省、明代が福建漳州府と監督庁の変遷があったものの、泉州の行政区域はそのまま踏襲されていった。

清朝は汀漳龍道を新設し、汀州府下の諸県、漳州府下の諸県、および龍岩州の一帯を管轄するものとした。 1734年、閩浙総督の郝玉麟が竜岩県を汀漳龍道を直隷州へ昇格するように朝廷に上奏し、これが承認されて(汀漳龍州の成立)、以後、竜岩県、漳平県、寧洋県の3県を統括することとなる。このまま清末まで踏襲された。

漳州市

なお、現在の漳州市中心部は、近代以降に開発された都市で遺跡は存在しない。
ここから南へ50kmにある漳浦県にかつて漳浦県城跡が設置されていた。現在は城壁も城門も全く残されていないが、路地名や地名にははっきりと城壁都市時代の記憶が刻み込まれていた。環城東路、北門媽祖廟、府前街、麦市街、許官港、南門村、西湖公園(西側の堀川跡)など。


お問い合わせ


© 2004-2018  Institute of BTG   |HOME|Contact us