BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 鎮江市 ~ 人口 320万人、 一人当たり GDP 90,000 元


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  【初代】丹徒県城(朱方邑城、谷陽邑城)
  鎮江府城(【二代目】丹徒県城、京口、南徐州、潤州城)
  鉄瓮城(京城。三国時代、孫権が建造した軍事要塞)
  丹陽県城(曲阿県城、193年に11歳の孫権や母の呉夫人ら一族が 一時、潜伏生活を送る)
  延陵県城
  京峴山と北固山



【 鎮江市の 歴史 】

現在の鎮江市エリアには、すでに 3000年以上も前に人類の生息が確認されており、百越民族らの一派にあたると考えられている。

西周時代、当地一帯へ宜氏が封じられ、宜国が建国されていた。その王都は 朱方邑城(現在の 鎮江市丹徒区丹徒鎮のあたり、その正確な場所は未確定)に開設されていたと考えられており、このため、現在の鎮江市は、後の呉国と呉文化の発祥の地の一つ、と指摘される由縁となっている。

鎮江市

春秋時代初期の紀元前 589年、宜国は呉王の寿夢により滅ぼされる。以後、その旧領土と 王都・朱方邑城は呉国の版図下に組み込まれることとなった(上地図)。
越国が呉を滅ぼし(紀元前 473年)、続いて楚国が越を滅ぼすと (紀元前 334年)、楚の統治下で、朱方邑は谷陽邑へ改称される。

秦代に入り、全国で郡県制が導入されると、会稽郡に帰属する(下地図)。

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紀元前 210年、秦の始皇帝が実施した会稽山訪問を目的とする最後の東巡の途上、谷陽の地に足を運んだとき、「山々は反り立ち、河川と海を眼下に臨む」圧倒的で神秘的な風景を目の当たりにし、まさに王者の雰囲気を見せつけんとする当地の地形と地名(現地の人々は、その山一帯を「京=天の都」と呼称していた)に敵意を覚える。

当時、京峴山の北西には北固山が高々とそびえ立ち、その山頂から連なる鋭利な稜線は眼下の長江にまで直接、伸びていたという。また、北固山の後峰、中峰、前峰の起伏は連綿として、龍の如き風格を成していた。
前峰は内部の盆地を取り囲むような地形を形成しており、現地では古代より京(天の都)と呼称されていたのだった。始皇帝は王都は天下に二つと要らぬ、とうことで、この地の完全破壊を命令する。

鎮江市

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赤い服(赭衣:当時は下賤な人々の象徴だった)を着せた 3000名にも上る囚人らが動員され、京峴山の美しい稜線を掘削し、龍のように蛇行する山々や河川の地形を変形させて、威風を放っていた景観は徹底的に破壊されてしまう。一説には、その掘削地に馳道を建造する目的だったとも指摘される。
同時に、谷陽邑は「丹徒県(凡庸で取り得のない者の意)」へ改称されてしまう。

秦末の戦乱を再統一して前漢朝が建国されると、直後の紀元前 201年、淮河以東の 52ヵ所の城邑を統括すべく、荊王に封じられ荊国を建国した 劉賈(初代皇帝・劉邦の従兄弟)により、この丹徒県城がその王都に定められたとされる。

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しかし、 紀元前 196年に淮南王の英布が反乱を起こすと、劉賈は討伐軍を率いて戦うも惨敗し、戦死に追い込まれる。同年内に英布の反乱も鎮圧されると、嗣子のなかった劉賈の荊国はそのまま廃止され、その版図は呉国へ改称されて、英布討伐に功績のあった従子の劉濞が呉王として継承することとなる(紀元前 195年)。その王都は、長江対岸の 広陵県城(今の 江蘇省 揚州市)に開設された。上地図。
このとき、現在の鎮江市エリアもこの呉国の版図下に組み込まれる。 しかし、紀元前 154年に呉王・劉濞が呉楚七国の乱を起こし戦死すると、これ以降、封国は廃止され、前漢朝の直轄地とされた(呉郡下の丹徒県)。
以後、前後漢時代を通じて、この行政区が踏襲される(下地図)。

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後漢末期、天下が大いに乱れると、今の浙江省エリアに勢力基盤を有した孫氏が丹陽郡へも勢力圏を拡大し(上地図)、後にこの一族から、孫堅、孫策、孫権という英雄たちが輩出されることとなる。

孫権が江東に覇を唱えると、208年に 呉県城(今の江蘇省 蘇州市)にあった本拠地を 京城(今の 鎮江市中心部の京口区)へ移転させ、北固山の前峰部分に堅固な軍事要塞を建造する。これが、今日に残る鉄瓮城遺跡である(下写真)。

鎮江市 鎮江市

ちょうどこの時代、孫権は北の曹操の南下政策の脅威に直面し、まさに同年秋に勃発する赤壁の戦い前夜のタイミングとなっていた。ここは曹操の侵攻に備えるべく建造された、臨時の本陣基地といえる。その様子は、「急造りではなったが、周囲は 630步の広さを誇り、南門と西門の 2城門を有する、すべてレンガ積みで十分に強固な要塞であった」と、唐代に書かれた許嵩の『建康実録(第 1巻)』と、清代に執筆された顧祖禹の『読史方舆紀要(第 25巻)』に言及されている。

なお、西晋時代に書かれた陳寿の 正史『三国志(孫韶伝)』によると、195年に孫策が江東を占領した際、将軍の 孫河(孫策の父・孫堅の一族)を派遣し、ここに京県城を建造させ駐屯させた、という記載があり、さらに 204年、孫河が孫翊と共に部下の媯覧と戴員の裏切りにより殺害されると、甥の 孫韶(188~241年)がその職権を継承し、京県城の修繕を手掛け楼閣櫓などを新設したとも言及されており、赤壁の戦い以前にすでに一定の城塞が存在していた可能性もあるという。下地図。

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赤壁の戦いの後、本拠地を呉県城に戻していた孫権は、間もなくの 211年、秣陵(建業、今の 南京市)城への再遷都を決定する。
以後、鉄瓮城は王都・建業の東部を守備する重要拠点として機能するようになる。
古代の百越民族らが呼んだ「京」の地名を冠して、この頃から、一帯は京口と通称されるようになったという。

三国時代を統一した西晋朝初期の 281年、孫呉が設置していた毘陵典農校尉が廃止され、呉郡から分離・新設された 毘陵郡(郡都は毘陵県城)が、丹徒県城(今の 鎮江市丹徒区丹徒鎮のあたり)、曲阿県(今の 鎮江市丹陽市)、武進県(丹徒県と曲阿県から分離新設。今の 江蘇省常州市)、延陵県(今の 鎮江市丹陽市延陵鎮)、毘陵県、無錫県、暨陽県(無錫県と毘陵県から分離新設、今の 江蘇省無錫市江陰市)の 7県を統括することとされる。

304年、毘陵郡が東海王世子の司馬毘の封地に組み込まれると、その地名が重なったことから、毘陵郡は晋陵郡へ、また同時に、毘陵県も晋陵県へ変更されることとなる。

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311年、永嘉の乱で西晋朝の 王都・洛陽が陥落する混乱の中で、晋陵郡の郡役所が 丹徒県城(現在の 鎮江市丹徒区丹徒鎮のあたり)へ移転される。
この頃から、華北エリアは大いに戦乱で荒廃したため、多くの人々が大挙して長江以南へ流入してくる(上地図)。

当時、京口は重要な長江渡河拠点となっており、ここを経由して大量の移民が旧呉越の地へ移住していた。こうした人口の大移動は、以後、100年かけて江東地方の生活文化に劇的な変化をもたらせることとなる。
鎮江市エリアの元々の方言であった古代呉方言は徐々に北方エリアの言葉に取って代わられようになった。また、東晋朝下で名を馳せた北府兵という名称も、この北方移民らが主たる構成者となった背景にちなんで命名されている、という。

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こうして、 華南地方へと勢力基盤を移し建国された 東晋朝(317~420年)の治世下、長江流域一帯には流民らの集落地が新たに形成されていく。これら新居留地の統括のため、州や県が次々と新設されていった。
東晋朝が建国された翌 318年、晋陵郡役所と丹徒県役所が 京口(今の 鎮江市中心部の京口区)へ転入される。 328年に再び、晋陵郡役所のみ旧丹徒県城内へ戻されるも、最終的に 413年、晋陵郡役所が晋陵県城へ移転されるに及び、旧丹徒県城(今の 鎮江市丹徒区丹徒鎮のあたり)は完全に廃城となる。

420年、東晋朝から権力禅譲の形で政権を奪取し劉宋朝が建国されると、 431年、南徐州が新設され、その州都が京口城内に開設される。晋陵郡や南蘭陵郡、南東海郡などを統括した。
これが由来となって、今日、当地は南徐とも別称される。

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589年、隋朝が京口を占領する(上地図)と、丹徒県(京口城)が廃止され、延陵県役所を京口に移転する形で、その県域が吸収合併されることとなる。
595年、潤州(城の東側にあった潤浦という沼地から命名)が新設されると、州役所と(延陵県)県役所は引き続き、共に京口に併設された。
隋代後期に大運河が開通すると、京口(今の 鎮江市京口区)は物流交易拠点として大いに発展を遂げていくこととなる。

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唐代の 620年、丹徒県(京口)が復活設置され、江南道下の潤州の州都を兼務する(上地図)。延陵県役所はもともと存在した 旧城(今の 鎮江市丹陽市延陵鎮)へ再移転される。
742~758年の一時期、潤州が丹陽郡へ改編される(後に潤州へ戻される)。州役所はそのまま京口に開設された。

唐代末期の 758年、浙江西道観察使が新設される(780年ごろに鎮海軍節度使へ改編)。当初、その鎮海軍節度使の役所は 升州(今の江蘇省 南京市)に開設されるも、後に 蘇州(今の 蘇州市)へ移転され、800年ごろに 潤州城(京口)へ再移転された後、最終的に 杭州(今の 杭州市)に落ち着くこととなった。唐末の群雄割拠の時代、銭鏐は鎮海軍節度使の立場で 呉越国(王都:杭州)を建国するに至っている。

宋代の 1113年、潤州が鎮江府へ昇格されると、ここに鎮江の名が史上初めて使用されることとなる。
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モンゴル人により南宋朝も併合され、元朝による大陸中国統治が開始されると、交易都市・鎮江府には多くの外来人らが足を運び、城内人口の 5分の 1がイスラム教徒であったとされる。

元代、明代、清代、そして中華民国時代を通じて、丹徒県の名が継承され、鎮江府(元代には鎮江路へ、太平天国の占領時代には鎮江郡へ一時的に改編)に属した。

中華民国時代の 1928年、丹徒県が鎮江県へ改称される。
共産党中国時代に入って、鎮江市と丹徒県が別々の行政区となり、中心部と近郊エリアが鎮江市に、残りの部分が丹徒県の管轄域とされる(後に丹徒区として鎮江市に併合)。


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