BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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湖南省 株洲市 ~ 人口 460万人、 一人当たり GDP 21,000 元


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 株洲城(建寧県城)
 南雲州城



【 株洲市の 歴史 】

古代、株洲一帯は先住民族らが割拠する地域であった。株洲県の漂沙井黄霞壠磨山には、6000年前の新石器時代前期の大溪文化遺跡が発掘されている。また、域内には 4000年以上前の新石器時代後期の龍山文化遺跡もある。
春秋戦国時代、株洲は楚国の黔中郡に帰属された。紀元前 223年に秦国により楚国が滅ぼされた後も、秦国下の黔中郡と長沙郡(臨湘県)に分かれて帰属される。
その秦王朝も紀元前 208年に滅亡し、紀元前 206年には劉邦により前漢王朝が建国される。紀元前 202年、長沙国が封じられ、株洲全体は 長沙国領(臨湘県など)に属した。紀元前 184年、長沙国王子の一人であった劉越が醴陵侯に封じられ、醴陵城を築城する。当時、管轄域内には 600の村々が点在していたとされる。
後漢初期、臨湘県と湘南県から一部ずつが分離され、醴陵県が新設される(県施政の始まり)。

後漢末の 215年、呉の孫権が蜀の劉備から荊州 3郡(長沙・江夏・桂陽)がようやく「返還」されたことを機に、長沙郡下に建寧県を新設する(湘南県と醴陵県、攸県の湘江東岸一帯を分離)。このとき、今の株洲市旧市街地にあたる慶雲山解放街に県城が築城される。

株洲市

孫権の死後、 第 2代目皇帝として呉王を継承した孫亮により、257年、 建寧県役所は槠洲から 淦田(今の 株洲県淦田村の河沿いに築城された:現存せず)へ移転される。
呉第 4代目皇帝・孫皓の治世下の 266年、建寧県役所は再び槠洲へ戻される。
280年に呉の孫皓が西晋に降伏し、三国時代が終焉すると、西・東晋王朝の時代となる。
このとき、荊州長沙郡下の建寧県役所は引き続き、槠洲に設置された。
420~589年の南朝斉の時代も同様に、建寧県は湘州長沙郡に属する。
南北朝時代の末期、陳朝を滅ぼし中国を再統一した隋朝は、589年、建寧県を廃止し、湘潭県に吸収させる。
唐代の 621年、建寧県が復活され、南雲州(州役所は今の 攸県に開設)の下に配された。 627年、南雲洲、建寧県ともに廃止される。これらの地域は湘潭県と醴陵県の両県に吸収される。

南宋時代の 1190年、株洲へと改名される。五代十国時代からこの地域の名勝となっていた株田が、建寧県城下からわずか東へ数キロの場所に広がり、 この「株」の字が取られて命名されたという。また、「洲」の字は古代の湖南省の人々が湘水の両岸のことを「洲」と表現したことに起因する。この二文字を連結された合成語として誕生し、以後、今日まで「株洲」の地名が続くこととなる。

時は下って清代末期の 1908年、株洲庁が新設される。今の芦淞区樟樹坪に「株洲托民府」が開設される。
中華民国が建国された 1912年、わずか 5年にも満たず株洲庁は廃止され、株洲が再び湘潭県に吸収されることとなる。
1934年、湘潭県下に株洲鎮が新設される。
1947年、湘潭県株洲鎮と白関郷、および昭陽郷が合併されて株洲郷へ再編される。
1949年8月、湘潭県株洲区が成立し、1951年には湘潭県から分離される形で株洲市が設置される(長沙専区の一つとして)。
1983年に正式に県級都市として株洲市が開始され、今日に至る。

株洲市

三国時代の 215年、呉の孫権により建寧県城が築城されて以来、株洲城へと拡張されてきた長い歴史を持つ古都であるわけだが、ちょうど古城東面に鉄道駅が開発されたこともあり、かつての旧市街は全く保存されていない。ほんのわずかな路地や地名に名残が感じられるのみである。銀行 南大門支店、中国銀行 北区支店、老武装部路、中国建設銀行 城南支店、月塘路(かつての堀川跡)など。


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