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四川省自貢市 ~ 人口 327万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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 紹熙府城(江陽郡城、治官県城、栄県城)
 富順県城



【 自貢市の歴史 】

この「自貢」という地名は、かつて地下塩採掘による塩業で栄えた、二つの地区の名称「自流井」と「貢井」を合成したものとなっている。この地に1939年、地級市が創立される前、それぞれは「富順県」と「栄県」に分かれて帰属しており、両者ともに古代より「塩の都」と称される塩の採掘、製塩等の業を営む富裕な商人がたくさん住む街として、全国に名を馳せてきた。

この地の地下塩採掘業は後漢時代に開始されており、三国時代~晋の統一、そして南北朝時代へと至る中で、徐々にその規模が拡大されていったようである。唐や宋の時代には中国全土でその名が知れ渡るところとなり、明末清初の時代には他の四川省地域と同様に、人口激減で荒廃するも、 清代末~中華民国建国期にはその絶頂期に達したようである。そして、欧米列強による安い塩製品や岩塩、製塩手法が持ち込まれることにより、この内陸部の高価な塩販売も難しくなり、暴利をむさぼれた塩業も、1930年代には下火となっていく。

しかし、日中戦争時代には、まだまだこの地の商人らの財力は高く(おそらく、塩業の他、物流、金融業等へ商売の多角化を進めていたのであろう)、 中国側の軍事義援金を最も多く寄贈した地区としても有名である。
現在でも、かつての栄華の威光は残っており、四川省でも成都、綿陽に次いで、第三の都市として君臨している。

自貢市

古代、自貢市のうち、栄県は蜀国に、富順県は巴国に帰属した。西周の時代、栄県一帯は栄公封国と称し、周に服属していた。紀元前316年秋、秦郡は張儀と司馬錯を派遣し、同年冬に蜀、巴両国を平定してしまう。2年後、周により、秦の恵王は蜀国補佐として任命され、西側に巴郡を新設した。自貢市の西部および栄県は蜀国に帰属し、自貢市の東部および富順県は巴郡に属した。

紀元前285年、秦の昭襄王は蜀太守を追い出し、ここを占領し、改めに秦領蜀郡を設置した。栄県は引き続き、蜀側に帰属する。このころ、秦国の南部にあった夜郎国が徐々に強大化し、最終的に四川盆地は、巴郡と蜀、夜郎国に分割して統治される形になっていったようである。その後、秦が四川全体を平定することになる。

後漢の135年、蜀郡および巴郡を分割して、その中間に犍為郡が設置された。これより50年ぐらい前に、すでに富世塩井にて地下採掘塩業が起こっている。また、後漢の時代、鉄器の普及で、ますます地下採掘技術が向上し、さらに製塩技術の高まりと、河川交通の発展が進んだ。このころ、「江陽の塩」と呼ばれるようになった、という。

自貢市

そして、三国時代の劉璋統治時代、犍為郡から江陽郡を分離独立させる。現在の、自貢市の中心地あたりに郡役所が開設されたという。益州地域の塩を一手に供給する地として、のちの劉備、劉禅の時代も含め、重要な郡であったと推察される。

南北朝時代の東晋王朝末期、四川省はその北部(含:重慶)までを北朝側に占領されていたわけであるが、この成都、犍為郡、江陽郡一帯は未だ領有しており、さらにこの地下塩井戸、および鉄鉱石山を国家管理すべく、414年、治官県(犍為郡城内に開設)が設置される。これが、自貢市域における初の中央政府直轄地編入となった。
その後、度々王朝が変遷する中で、国家管理が解かれ、またその都度、統治単位や名称が変更された。
そして、唐の時代後半、財政がひっ迫する中で、塩の専売事業を国家収入の大黒柱とすべく、唐皇帝の子女を現地統治機構のトップにあてて、この地方は再び、中央管理下とされることになった。この官位は、「栄王」と称された。この「栄王」は南宋の時代にも引き継がれる特権となる。

南宋時代の1265年、モンゴル軍が四川盆地へ侵攻する。この地は、四川一帯の塩の供給基地でもあったため、最重要防衛地点とされ、その管轄役所を、より急峻な地形を有する、現在の富順県大城郷虎頭村へと移転される。臨江(今の沱江)沿いの急峻な岡の上に築城され、内城と外城がある二重構造を持つ城郭であったという。当時の南宋時代、この城での徹底抗戦の武勇伝は世に知れ渡るところとなり、その堅城ぶりは高く評価されていた。しかし、ついに1275年、援軍の期待もできない南宋守備兵は、その知監(長官)であった「王宋義」らを筆頭にモンゴル軍へ降伏し、元軍によって廃城とされることになる。これより先、すでに1258年には、自貢市のもう一つの拠点であり、栄県に開設されていた中央政府直轄機関が入る紹熙府と栄王旧城はモンゴル軍に占領され、完全に破壊されていた。
しかし、四川盆地ではその後も反モンゴル民兵による反乱が相次ぎ、また裏事業として地下塩採掘業を営む者もあり、モンゴル側は、かつて長官として派遣された中国皇帝の王族が政務を司っていた紹熙府に、軍直属の統治機構を設けて、現地の強制支配を強めることにする。そして、治安も回復された元末の1340年、軍政が解かれ、栄州が新設され、この統治機構の下へ改編された。

元末明初の大夏王朝が四川一帯を支配した時代、多くの四川省原住民らが殺害され、人口が激減していたので、湖北省、湖南省、広東省一帯からの移民を受け入れ政策をはじめた。四川省内での人口大激減は、明末清初の兵乱時にも引き起こされ、再び、他省からの移民受け入れ策が実施されることになる。この両政策の期間、多くの移民が自貢市内に流れ込み、この地の地下塩採掘業は再び息を吹き返し、清末に向けて最盛期を迎えることになる。


下は、現在の自貢市栄県の地図。かつての中央政府直轄の行政府「紹熙府」もこの地にあった。

自貢市

この地も、現在はかつての漢安県時代から続く古城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。付北街、南街、東街、西街、河街(城壁都市内に小川が流れていたのであろう)、環城東路・南路路・西路(かつて城壁があった)、沿河西路(城外西側にあった堀川の跡)。


また、下は現在の自貢市富順県の地図。

自貢市

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