『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2015年 9月中旬 『大陸西遊記』~


湖北省咸寧市赤壁市 ~ 人口 55万人、 一人当たり GDP 38,000 元(咸寧市)


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  武漢市内から赤壁市、三国志記念公園へのアクセス方法
  赤壁の古戦場跡(三国志赤壁記念公園)
  三国志赤壁記念公園内の高楼閣と水上ホテル跡、ユニークなごみ箱たち
  長江を臨む ~兵どもが夢の跡~
  陸水と長江の合流地点「陸口」の、呂蒙と陸遜による大要塞化
  呉軍の屯田地と狼煙台の跡地(陸遜営塞)
  蒲圻県城の歴史



赤壁市

武昌(武漢)鉄道駅の横の武昌バスターミナルから、赤壁行のバスに乗車(下写真)した。 約 2時間で赤壁市バスターミナルに到着する(片道45元)。

※ 高速鉄道で 武漢市 から 50元(15分)。
※ 鉄道の普通列車利用で 18.5元(1時間半)。

赤壁市 赤壁市

途中、湖北省の農村地帯を延々と目にすることになる。一帯は、水が豊富な地方であることが分かる。筆者が訪問した秋真っ盛りの9月中旬には、トウモロコシ、米など、豊富な作物を実らせていた。日本と同じように四季があり、冬には雪も降るらしい。作物や自然環境が非常に日本的で、懐かしい感情にとらわれた。

赤壁市

赤壁バスターミナルに到着すると、たくさんのシロタクたちがたむろする。赤壁市には、三国赤壁記念公園があるため、ここへ向かう観光客をねらった輩たちだ。片道 100元が彼らの言い値。値段交渉は往復で行うべき。彼らも片道 30分の道のりを手ぶらで戻るよりは客を乗せて帰りたいはず。で、往復は 170元となった。

赤壁市


三国赤壁記念公園

赤壁市

三国赤壁記念公園の入場料 150元であるが、入場門前の簡易食堂(商店)で依頼するとネット予約してくれる(下地図)。これで、130元となる。食堂カウンターで現金支払して終わり。携帯電話に領収メールが送信されてくるので、それを入場券チケット売り場で提示すると、当日券を交付してもらえる。

これもシロタク運転手に教えてもらった方法で、やはり現地人の情報は役に立つ。

※ もしくは、自力でも事前(当日でも可)にネット予約できる。
※ ちなみに、赤壁市内から三国記念公園まで、ローカル路線バスもある(下地図)。片道 8元。
※ シロタク運転手は、駐車場外で、そのまま2時間でも、3時間でも待っていてくれる。

赤壁市

三国赤壁記念公園は相当に広く、三国志テーマパークといった様相の庭園。すべてを見て回ろうと気合を入れ過ぎると広すぎて後まで続かない。2時間半はびっちり要する。
さくさくと目ぼしいポイントを見て回るのが得策。

園内には三国時代の櫓や城門、戦艦(かつて水上ホテルがあった)、楼閣、城壁などが復元されていたが、必見ポイントは、最終地点の「赤壁」の有名な岩壁と、廃墟と化した水上ホテル跡、そして高楼閣の登頂といったところか。

下写真左は、テーマパークの正面ゲート。 下写真右は、入り口右手の城門から。

赤壁市 赤壁市

下写真は、テーマパーク内で最も目立つ高楼閣 と、その頂上から見たテーマパークの全景。

赤壁市 赤壁市

園内のゴミ箱もなかなか趣向が凝らされていた(下写真)。

赤壁市 赤壁市

下写真は水軍の実物大の戦艦。ちょうど高楼閣の真下にある。
かつては水上ホテルが営業されていたようで、客室跡などが生々しく見学できる。下写真右。

赤壁市 赤壁市

特に、高楼閣からの長江や湖北省の農村地帯の眺望が最高であった(上写真左)。秋の収穫時期のタイミングで、稲穂が実り、また木々の一部が紅葉化していた。
赤壁の戦い、それは208年旧暦11月。ちょうど現在の12月中旬ぐらいだった。
きっとこの長江の対岸沿いに曹操軍の軍船が並べられていたことであろう。下写真。

赤壁市 赤壁市

帰りは、赤壁バスターミナルから、最終バス(17:40)で出発した。約1時間45分で武漢市(武昌バスターミナル)に帰着した(40元)。


陸遜営塞

赤壁市の中心部から北へ4kmの地点にある(黄龍古鎮虎山村)。市内にも観光案内板があった。タクシーだと10~15分ほど(シロタク交渉で往復40元)。

赤壁市

かつて赤壁の戦いの際、呉軍はその陣地を陸口(今の咸寧市嘉魚県陸溪鎮)に開設しており、戦後も引き続き、呉軍の荊州最前線基地が設置され続けることとなる。下地図。

周瑜亡き後、呂蒙が当地に駐屯し、対岸の劉備配下の関羽と曹魏ににらみを効かしていた。赤壁の戦いの後も、荊州戦線における緊張状態は引き続き継続されていたことが分かる。
呂蒙は病気になり、若き陸遜(当時、安徽省蕪湖市一帯に駐屯していた)に、その偏将軍、右翼司令官(右部督)職を代行させることを孫権に進言する(219年秋)。
こうして、無名の将軍・陸遜への代変わりに安堵した関羽は、北の魏への攻撃に本腰を入れるようになる。その隙を突いて、呂蒙と陸遜らは陸口から長江を渡河し、瞬く間に荊州3郡を占領してしまうのであった(219年冬)。

同年末に呂蒙が死去すると、そのまま陸遜が大都督として荊州一帯の守備を委ねられることとなる。

赤壁市

以後、彼は陸水と長江との合流地点である陸口(今の咸寧市嘉魚県陸溪鎮)を拠点とし、その陸水の上流域の開墾と屯田を推進する。上地図。
あわせて、河沿いの山々には数多くの狼煙台も設けられ、荊州守備の中心地として要塞エリアとなっていく。

そもそも陸遜は、その出世が地方の反乱軍や異民族らを掃討し、功績を挙げたことからスタートしており、彼はその残党勢力を積極的に配下に加えたことで有名であった。きっと、この寄せ集めの集団をこの地に屯田させたのであろう。

222年に蜀の劉備が呉領へ侵入すると、陸遜はこの陸口から出陣し、夷陵で蜀軍を撃破することに成功している。

翌223年、陸遜の提言により、長江防衛ラインの強化が図られ、陸口に設置されていた呉軍駐留基地が蒲圻県城へ改編されることとなる。
この県名は、呉の孫権が詠んだ詩「蒲草千里、圻上故壘、蒓蒲五月、川谷対鳴」から命名されたとい

赤壁市 赤壁市

現在、陸遜営塞として史跡公園となっているエリアには、陸遜が築いた狼煙台の一部が残存している。

実際に陸遜が駐屯したのは、陸水と長江が合流する陸口の陣地(蒲圻県城)で、開墾と屯田を奨励すべく、度々、この陸水の上流域に足を運んでいたものと推察される。

赤壁市 赤壁市

とりあえず、正面の長い階段を上ってみる(上写真左)。周囲に広がる大小50ほどの山々が連なる一帯に狼煙台が設置されていたという。前の山の背後には、長江の傍流である陸水が見える。上写真右。

なお、かつては入場料をとる史跡公園だったようだが、今では門は開けっ放しで、チケット事務所も廃墟と化していた(下写真左)。

赤壁市 赤壁市

三国時代に設置された 蒲圻県城(旧陸口陣地)は、以後、400年にも渡り、継承されることとなる。

しかし、隋代初期に長江の洪水被害に遭い、県城が蒲圻湖(今の西凉湖)の河畔へ移転される(今の咸寧市嘉魚県の魚岳山上)。
唐代初期の620年ごろ、再び陸口(今の咸寧市嘉魚県陸溪鎮)へ再移転されるも、間もなくの624年、鮑口(今の赤壁市の中心部)へ転出され、そのまま蒲圻県の中心部として現在まで存続されることとなった(下絵図)。1986年に蒲圻市へ昇格され、1998年に赤壁市へと改称されるに至る。

赤壁市


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