BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年 10月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 寧波市 慈溪市 ~ 市内人口 105万人、 一人当たり GDP 105,000 元(寧波市全体)


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  三山所城(滸山城、滸山所城)
  三山所城(滸山所城)の歴史
  慈溪市博物館 と 青瓷(青磁)遺跡(日本の有田焼の ルーツ)
  寿司店メニュー、なぜに「フジワラノリカ」と「モトローラ」が!?
  風流な竹飾り と 男子便所の、仁義なき組み合わせ
  観海衛跡
  炮頭山と衛山の 山頂から
  寧波市慈溪市の 歴史



【 三山所城(滸山城) 】

慈溪市

投宿した慈溪辰茂国脉ホテル北側が、虎嶼公園であった。ちょうど部屋から公園一帯が臨められたことは運がよかった。

慈溪市

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現在、わずかに残る 小さい丘(かつて滸山と呼称された)を利用して、城塞が構築されており、当時は、このすぐ東側は海岸線であったという。
ここに現在、三山所城の北門跡が残されている(下写真)。

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資料によれば、城壁の高さは 3.1~5 m、幅は 3.8 mで、すべて石積みであったという。

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この北門の楼閣は平屋式で一階部分だけだった。
それにしても、楼閣の柱が城門外側に設置されている構造にはやや驚かされた(上写真右)。城門の内側に柱を設置した方が、敵に対しては弱みを見せずにいられると思うのだが。
いちおう、この北門の外側には甕城もあったようで、門の左手側にその甕城城壁の根っこ部分が一部、残されていた(上写真左)。

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上の古写真は、かつての北門の様子。城門内側から外へ向けて撮影されたもの。城門内側の様子がよく分かる。


そもそも、この虎嶼公園自体は、その昔、海に浮かぶ小島であったらしい。
その後、徐々に海岸が埋め立てられる中で陸地とつながり、虎嶼山(虎山)と命名されたという。遠目から見ると、虎が伏しているように見えたことに由来するらしい。

北宋代の初期から、虎嶼山に人の居住が開始されたという。この頃から、虎嶼山(虎山)は滸山と通称されていたらしい。

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明代に入って、朱元璋は幼馴染で建国の功臣となっていた 湯和(1326~1395年)に命じ、倭寇の襲来が多発する東部海岸地区の防備強化を図る。
この一環で 1387年、滸山の南側の山麓に城塞が築城される。滸山と烏山、眉山の 3つの山に取り囲まれる状態にあったため、三山所城と通称されることとなる。東側のみ海に面する形であった(上地図)。
周囲の 歴山、眉山、蔡山、呉山、担山などの7箇所には狼煙台が設置され、それらを統括する役割を担ったという。 備軍は 1,120名と史書に記されており、東隣の 観海衛 の監督下に配された。

築城当初、高さ 5.5 m弱の城壁が全長 1,600 mにわたって建造されていたという。1400年代前半に入り、城壁はさらに 2 m高くなり、 城壁の厚さも 15 mにまで強化される。城門が 4箇所と、水門が 1箇所設けられ、楼閣も合計 8箇所、設置される。あわせて、深さ 4 m強、幅 12 m強の外堀が 2.2 kmにわたって掘削された。

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1555年5月24日、周囲の県城や城塞を陥れた倭寇がついに三山所城へ襲来するも、劉朝恩率いる守備軍はその猛攻を防ぎ切り、倭寇の撃退に成功する。この激戦の最中、周囲の 観海衛、龍山一帯の要塞も防備強化が図られることとなり、最終的に戚継光や俞大猷らの倭寇撃破の一助となる大功を挙げることとなった。上地図。

後世になって、滸山の北側が兵士の練兵場となったことから、教場山と呼称されるようになり、また城塞も基礎となっている滸山から命名されて、滸山所城へ改称されるに至る。

清代以降は、三山所城(滸山所城)の軍事的目的は失われ、この城塞内は集落地として発展していくこととなる。

共産党時代の 1954年、慈溪県の県役所が 慈城鎮 から移転されると、三山所城(滸山所城)の集落地は、慈溪市の 政治、経済、文化の中心地として急発展する。こうして都市化が進む過程で、東西南の 3城門と、水門や城壁などが撤去されてしまったのであった。

慈溪市 慈溪市

現在、旧城塞内にはかつての古城時代の記憶が、各所の路地名に色濃く刻み込まれていた。
環城北路、南門大街(上写真右)、滸山路(上写真左)、水門路、環城南路、南城路、沈府巷橋、東門橋、老水門路、東城河橋など。

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古城地区一帯を散策後、南側城壁跡にあたる環城南路まで移動し、国貿ビル前のバス停(上地図)で、路線バス ⑥番に乗り慈溪市博物館へ移動する(1元)。それにしても、この博物館、あまりに年代もの過ぎて、一見、刑務所の風情が漂っていた(下写真左)。さらに、1F部分しか解放されておらず、ひたすら陶器の陳列と解説板だけであった。
下写真右は、慈溪市の南側にある上林湖の湖畔に残る遺跡。後漢時代に始まり、特に宋代に一大生産地にまで成長していた青瓷(青磁)産業のかつての栄華を今に伝えるもので、湖畔には大量の青磁の破片類が残されているという。日本の有田焼の先祖にあたるものである。

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三国時代から、西晋、東晋、南北朝時代の陶磁器の形状変化に関するパネルがあったので撮影してみた(下写真)。時代の移ろいとともに、余計な装飾が減り、シンプルで実用的になっていることが分かる。

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博物館見学後、同じく路線バス ⑥番で、博物館前(文化公園)から、終点の 慈溪市南バスターミナル(南三環路沿い)に移動した。周囲には何もない。そのまま市内へ戻ることにしたが、途中に通過した烏山南路の 南半分(宜青橋村)の露天街はなかなか見応えがあった。


また市内では、幾つも日本料理屋を発見した。味千ラーメン(北二環東路と新城大道北路との交差点のショッピング・モール「慈溪華潤店」内、および、南門大街にあるモール「慈溪銀泰城」 1F)や寧坡市一帯でフランチャイズ展開している寿司チェーンの「寿鮮亭」(南門大街にあるモール「慈溪銀泰城」3F。下写真)があった。

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特に、この寿司チェーンの「寿鮮亭」のメニューに度肝を抜かれた(下写真)。
縁は君?? 縁で会う??? フジワラノリカ???? モトローラ?????

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また慈溪市の西バスターミナルの男子便所(下写真右)。慈溪市の長距離バスターミナルも同じスタイルだった。
風流な竹飾りにめがけて放尿させてくれるトイレも、ここぐらいだろうな。。。。

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  交通アクセス

寧波市 南バスターミナルより、22.5元(所要時間 75分)。

舟山市の沈家門地区の バスターミナル(舟山普陀長途客運センター)より、64元(3時間強)。

寧波市街地と同じく、慈溪市内もタクシーは初乗り 10元。メーター上昇のスピードも遅いので、市内のだいたいの場所は、初乗り 10元で移動できる。同伴人数が多い場合は、タクシーが最もいいかも。

古城地区の南門大街沿いの慈溪辰茂国脉ホテルに投宿した。
ちょうど前はレストラン街で、韓国料理屋、日本料理屋(3店舗あり)、ステーキ屋、中華など、たくさんのショップが軒を連ねていた。

余姚市 は高速鉄道が開通したためか、もしくは有名な 観光地(古城地区、王陽明の生家など) があるためか、
 域内のホテルの値段は結構高い。対する慈溪市内は非常に安く、ここに投宿(4つ星ホテル 29 USD、朝食付)
 して、一帯を巡る拠点にした方が効率的かと思う。



観海衛跡

慈溪市

観海衛鎮バスターミナルに到着後、ローカル線の 310番バスに乗り換える(2元)。短い路線なのに、ここのローカル市民たちは結構、割高なバス料金を支払わされているようである(上のバス路線図の中央部、オレンジ色のライン)。

なお、この 310番バスは時計回り(西往)、反時計回り(東往)の 2路線がある。いずれにせよ、古城地区を西門口→北門口→東門口→南門口を(もしくは逆方向)ぐるりと一周回って戻ってくるルートだ。下写真。

慈溪市 慈溪市

筆者は、西門口と北門口の間にある衛山景苑というバス停で下車し(環城北路沿い)、後方に見える炮頭山を登山した(広義路の北側)。下写真。

慈溪市

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炮頭山の横には、衛山が連なるわけだが、この山上に、集落の住民らが動員されて、観海衛の城塞が築城されていたわけである。結構、高度があり、独立した 3つの山から成る。
下写真。筆者の訪問的は、雨天であったため視界が悪かったが、遠くに山の稜線が見える。

慈溪市 慈溪市

炮頭山の頂上にあった物見台(下写真左)。作って間もない様子だったが、もう土台部分が陥没しかけていた。。。誰も補修管理とか、していないんだろうな。。。

なお、山の北側は、全斜面が墓地となっていた(下写真右)。

慈溪市 慈溪市

この観海衛遺跡であるが、地元では、対倭寇戦の英雄で、明軍を率いた威継光のゆかりの地としてアピールしており、中国浙東地区に残る 衛所跡(杭州前衛、杭州右衛、台州衛、寧波衛、温州衛、臨山衛、松門衛、金郷衛、定海衛、処州衛、紹興衛、昌濶衛、海門衛、盤石衛、観海衛、海寧衛、三山、定海后、定海中、定海中中、瀝海、三江、大嵩、郭巨、龍山、石浦前、石浦後、爵溪、銭倉、水軍、新河、桃渚、侹跳、隘頑、楚門、平陽、瑞安、海安、蒲岐、壮士、沙園、寧村など)の中でも、ベスト 4の一つに数えらている、と謳う。しかし、実際はそういう風に自称しているだけみたいだった。


慈溪市

山から下山後、西門口の バス停(下写真左)より、西大街を通って、旧市街へ入る(下写真右)。

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中央部分に水路が走る(忠孝橋を渡る)。ここから北へ 運河沿い(西河沿路)に進む。下写真。

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静かな旧家屋が続く一方で、西欧風の同じような風情の新築の家がどんどん建てられていた(下写真右)。なお、旧家の軒先には水甕が各所にあり、現在も使用されている様子が伺える(下写真左)。

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文景橋を渡って、さらに北の環城北路を目指す。この一帯が衛北村。

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環城北路にある北門口バス停(下写真左)。ここから北大街を南下する(下写真右)。
ちなみに、この北大街の東側一帯は三官殿村という地区で、かつて、天官、地官、水官の三官を祭る廟があったものと推察される。

慈溪市 慈溪市

北大街が南大街へと名前を変える付近になると、街並みがおしゃれになっていく。
そして、古城地区で最も繁華街である城皇廟市場まで来た(市場東路)。下写真左。しかし、かつての古城の 守り神「城隍廟」も今は撤去されてしまい、存在していない。

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ここから城隍廟橋をわたって、南市場を南下し、三北中路のバス停まで、自転車タクシーで移動した(6元)。上写真右は、かつての南側の外堀にあたる。


  交通アクセス

慈溪市博物館前のバス停から ③番バスに乗り(1元)、終点の烏山バスターミナルへ移動した。ここから、293番バスに乗り、観海衛鎮バスターミナルまで移動する(2元)。所要時間 40分

また帰りは、観海衛鎮から路線バス 219番で、慈溪市東バスターミナルまで移動し(2元)、ここで ②番バスに乗り換えて、慈溪市の 古城地区(国貿ビル前のバス停)まで移動した。



寧波市慈溪市の 歴史

河姆渡文化遺跡の発掘調査から、新石器時代(約 5000年前)には既に人類の生息が確認されているという。

春秋時代には越国と呉国の紛争地帯となり、度々、為政者が交代することとなった。紀元前 472年、越王勾践により 句章城(今の 寧波市江北区城山村と城山渡の一帯)が築城される。

戦国時代に入り、楚国が越国を滅ぼすと、楚国の版図下に組み込まれる。

紀元前 221年に秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入され、句章県(今の 寧波市江北区城山村と城山渡の一帯)と 鄮県(今の 寧波市鄞州区五郷鎮同岙村)が新設される(共に会稽郡に帰属)。下地図。

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前後漢時代から三国時代期を通じ、この行政体制が踏襲される(上地図)。後漢時代の一時期、句章県城内には会稽東部都尉の役所が併設されていた。

後漢末期の 172年、会稽郡下に無数に存在した宗教集団の一派を率いた許昌が句章県城で反乱を起こし、自ら陽明皇帝を名乗り、その息子の許韶らと共に周囲の県城の宗教勢力と呼応して、反乱の拡大を画策する。しかし、若き 孫堅(155~191年)は会稽郡の司馬と協力して、配下の千人余りを率いて反乱軍の撃破に成功する(首謀者の許昌父子は斬首される)。この功績により、孫堅は十代にして、各県の重要ポストを歴任することとなった。

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東晋時代の 400年、孫恩が 20万を数える反乱軍を率いて海より 浹口(浙江省寧波市鎮海区)に侵入し、一帯の制圧に乗り出す(上地図)。この過程で包囲・占領された句章城は徹底的に破壊されてしまう。この直後、 劉裕(後に南朝の宋王朝を建国し初代皇帝に即位する)が反乱軍を駆逐した後、鄞県城 内(今の 寧波市鄞州区鄞江鎮小溪橋)へ句章県の県役所が臨時移転される。

隋代の 589年、余姚県(今の 寧波市余姚市)と 鄮県(今の 寧波市鄞州区五郷鎮同岙村)、鄞県(今の 寧波市鄞州区鄞江鎮)が廃止され、臨時入居中であった 句章県(鄞県城内に併設されていた)に統合される。

唐代初期の 621年、鄞州(鄮県、鄞県、句章県の 3県を統括)と姚州が新設される。
624年には、姚州が余姚県へ改名される。
翌 625年、鄞州が廃止され、その旧行政区は越州(今の浙江省 紹興市)に帰属された。
738年、鄮県が分割され、慈溪県(今の 寧波市江北区慈城鎮)、翁山県(今の 舟山市定海区)、奉化県の3県が新設される。あわせて、鄮県城(今の 寧波市鄞州区鄞江鎮)を州都とする明州が統括することとされた。
821年に、明州役所と鄮県城が三江口(今の 寧波市海曙区)へ移転される。このとき、新城郭が築城される。
後梁時代の治世下の 909年、鄮県が鄞県へ改称される。もともとの 鄞県城(今の 寧波市鄞州区鄞江鎮)は廃止される。

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五代十国時代、呉越国の治世下にあった 960年、明州望海軍(五代十国時代期に呉越国が命名していた)が明州奉国軍へ改編される(上地図)。978年、その呉越国も北宋に併合されると、そのまま北宋の領土となる。

南宋時代の1133年、明州城(鄞県城)に沿海制置使の役所が開設され、温州、台州、明州、越州の4州を統括することとされる。
1194年に、寧宗が即位すると、翌 1195年に元号が慶元へ改元されるに伴い、明州城(今の 寧波市海曙区)が寧宗の別荘地に選定されたため、元号に由来する改名が許され、明州は慶元府へ昇格される。慈溪県はここに帰属された。下地図。

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元代の 1276年、慶元府(鄞県城)に宣慰司が開設される。翌1277年、慶元路が総管府へ改編される。

1302年には、浙東道宣慰司都元師府が 婺州(今の浙江省 金華市 婺城区)から慶元路城へ移転される。
元代末期には、当地に割拠した軍閥の方国珍がこの慶元路城に本拠地を構えた(下地図)。
1367年、その方国珍も朱元璋に帰順することとなり、明の領土に組み込まれると、慶元路城は明州府へ改名され、浙江行中書省(1376年、承宣布政使司へ改編)の管轄下に置かれた。

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1381年、明帝国の国号にダブるということで、朱元璋は鄞県出身の学者である単仲友の意見を取り入れ、明州府を 寧波府 へ改称する。「海定則波寧」の文言から命名されたとされる。

1418年、慈溪県長官が県印を紛失する事件があり、その県印の悪用を恐れた明朝廷により、名称の変更が進められる。こうして、「慈溪」からより簡略化された、「慈渓」へと書き換えられる。引き続き、浙江承宣布政使司下の 寧波府(鄞県城)に帰属された。

清代初期、浙江布政使司が浙江省へ改編され、浙江省寧紹台道下の寧波府の所属とされた。
清代末期の 1861年11月、李世賢の率いる太平天国軍の一派が 寧波城(鄞県城)を占領すると、一時的に寧波府が寧波署へ改称される。反乱の平定後、再び寧波府へ戻される。

中華民国が建国された 1912年、寧波府が廃止され、慈溪県は浙江省軍政府の直轄下に置かれた。


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