BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年5月下旬 『大陸西遊記』~


四川省 徳陽市 旌陽区 ~ 人口 360万人(市街区 74万人)、 一人当たり GDP 42,000 元


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  徳陽県城
  関帝廟
  徳陽文廟(孔子廟)
  徳陽市 と 石像モニュメント
  蜀漢の重鎮となった 秦宓 と 三国志公園(徳陽市北公園:三国芸術文化長廊)
  2008年5月の四川大地震の つめ跡
  成都空港の バス・アナウンス音 と JR東日本



徳陽市はかつて夏商王朝の時代、漢三星堆遺跡(今の四川省 広漢市)に代表される古蜀国を成した重要な拠点都市の一つとして栄えたようである。しかし、周時代の初期、洪水もしくは兵火により、都市は荒廃してしまった、という。周末の春秋戦国時代期には復興し、秦による郡県制施行の際、蜀郡に属した。

三国時代、綿竹出身の学者である「秦宓」は、劉璋降伏後の劉備建国の蜀に文官として仕えたが、関羽死後の呉討伐戦に反対し、劉備を懸命にいさめたため、一時、投獄される。その幽閉の地が、ここ徳陽市である。劉備の死後、幽閉が解かれ、諸葛亮により重用される。その後、大司農という地位まで登りつめ、諸葛亮の政治を助けている(226年没)。ここ徳陽市は、彼の功績をたたえて、「秦密村」という地名が今も残る。

唐時代の 620年、徳陽県 が新設され、県城が築城される。以後、益州の重要地方都市の一つとしての地位を確固たるものとしたようである。上流にあった 旧綿竹城 廃城後に、これに代わる綿遠江の水運拠点として発展したきたものと推察される。

徳陽市

徳陽市 徳陽市

さて、その徳陽市の 城郭都市 であるが、完全に城壁は取り除かれてしまっていた。残された路地名も少ない ー 「署前街」「南城根街」など。ただし、城壁内にはたくさんの寺院や廟、祠があったようで、その名前を冠した路地が今でも複数、残る。しかし、すべての廟や祠等の建築物自体は撤去されてしまっていた。関帝廟の敷地跡のみ、わずかに壁のみ残っていた。写真右は、かつて関帝廟前を流れていたであろう、現在、「なぜか」白濁した溝。写真下は、壁跡。この壁は現在、学校の校庭の外壁として使用されており、校庭の内側からみたもの。左側が外側より撮影。

徳陽市 徳陽市
徳陽市 徳陽市

下は、古城内で唯一残されている 徳陽文廟(孔子廟)。南宋時代の 1206年に開設された。その後も、幾度も修繕、改築などが施され、現在のものは、清代後期の 1800年代前半のものという。

徳陽市

徳陽市 徳陽市

夜ともなれば、この廟前はたくさん人々が散歩、ダンス、露店などをするリクリエーションの場所となるのだが、最も驚いたのが、上の写真右の「寺門前池の遊園地化」。。。。神聖なる廟であるが、その前にある池には、夜になるとどこから持ち込まれたのか、水上遊具が浮いていた。。。。家族連れがこれに乗って遊具をこいで遊んでいた。。。。

その他の市街地ネタとしては、文廟街と南街との交差点 3Fにある焼肉食べ放題店はなかなかよい。また、西街と華山北路との交差点に、「麻辣戦士」という火鍋料理屋を発見した。日本語で言えば、「激辛戦士」といった感じか?なかなかユニークな命名であった!


市内の一番北側の橋「青衣江路」を渡って、西側~新開発区の東側へわたる直前に、三国時代の蜀の 官僚「秦宓」の巨大立像を入り口中央に据えた三国志公園「徳陽市北公園:三国芸術文化長廊」がある。これは、北は青衣江西路、南は黄河路に挟まれた川べりの公園で、あちこちに三国志のエピソードを刻んだ石碑や、人物の肖像画の石彫り画像が設置されていた。

徳陽市

徳陽市 徳陽市
徳陽市 徳陽市
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「官途の戦い」や「唐卓暗殺」などのエピソード碑もあったが、99%は三国のうち蜀に関するものばかりである。

これらの中でも特に、蜀建国後の諸葛亮の北伐、孔明死後の蜀政界、諸葛瞻や諸葛尚らの逸話に関するものが豊富であることが特徴的。蜀政権後期における登場人物らの肖像画も残っていない今、あくまでも想像上での絵図や肖像であろうが、自分のイメージを補完する点で役立つものと言える。諸葛賤、尚父子の立像もあった(写真:左下)。

今は、「芸術館」としてのみ機能している 建物(上写真:中左)も、三国志関連の博物館として整備されるとのこと。開館は年内であろう(2014年)。いちおう、楽しみである。

一つ気になったのは、石碑に刻まれている肖像画で、馬超、関羽、関平、周倉に関し、何やら日本の 横山光輝著『三国志』の画風を参考にしているような気がした。


このような 石の彫刻 は、三国志公園以外でも街の至る所に配置されている。そもそも、徳陽市は石碑や石像を作ることが街自慢となっているようで、街中にいろいろモニュメントがある。他の中国の都市にはない、遊び心を感じさせる雰囲気がある。街中のごみ箱も周囲に同化するようにデザインされており、時には「木の根っこ」の形、時には中国の伝統的家屋風の柱に模したものなどがある。街全体的にもきれいな環境作りが心がけられていた。

徳陽市 徳陽市

特に、歴史都市を前面に打ち出そうとする市政府の取り組みがよく伺える街であった。市内、郊外それぞれの名所を路傍の石碑、博物館、その他の観光地内で何回も何回も広報していた。伝統的家屋の復元による歴史風情通りみたいなところもきれいに整備されていた。これは、徳陽市全体に言えることで、綿竹、孝徳などなどの郊外地区でも、同様の復元建築群による街道整備が施されていた。
また、徳陽市内の路線バスは、各主要な停留所に地図入りで路線が表示されており、観光客にも利用しやすい工夫がなされていた。

徳陽市 徳陽市

上の写真左にあるように、橋を渡って、綿遠江の対岸にある東側へ行ってみた。この対岸側のメイン道路は南北に走る「天山路」である。この通りと、長江東路とが交わる地点に、巨大な ショッピングモール「凱徳広場(シンガポール系資本Capital City Asiaが親会社)」があった。このモールの中には、米系ウォルマートや日系食堂の「味千ラーメン」が入居していた。この地区は、総じて、新しく開発された一帯となっており、道も広々しているし、通行する自動車や人もまだまだ少ない。また、建物や店舗類も新しく、心なしか、おしゃれなものも複数あった。

ちなみに、綿遠江 の河幅が広く水が豊富に湛えられているように見えるが、これは市街地南側で水量調整がなされているためであり、本当はもっと水量の少ない、両岸に河原ばかりの河川である(かつてはきっと水量も豊富であったのだろうが)。このため、中国では珍しく、船の往来を全く目にすることのない河川となっている。


成都市 の北に位置する、綿陽市、徳陽市は、2008年5月の四川大地震の際に大きな被害を受けた場所で、その被害と復興の軌跡をしっかり図書館内に展示室を設けて、市民への共有・広報を図っていた(写真左)。右の写真は、徳陽市の旧市街地南側の工業区内にある当地最大企業、東方汽輪機有限公司(中国 3大 蒸気タービン製造メーカーの一つ)の主力工場。地震後に建物が修繕された。この親会社は、上海香港 証券取引所に上場する中国東方電気集団有限公司で、本社は 成都市 にある。

徳陽市 徳陽市

なお、筆者はこの徳陽市に 成都空港 から直接、長距離バスで移動してきた(2時間弱)。成都空港には、第一ターミナル側に長距離バスターミナルがある。ここから、遂寧徳陽綿陽 等方面への直通バスがある。なんと、ここのバス案内のアナウンスの音が、 JR東日本の「電車が参ります、ご注意ください」のメロディーと全く同じであった!!! (2014年5月末現在)
徳陽市側では体育館前が下車専用のバス停になっているらしい。ここから路線バスに乗り 3~4つ目が、市内の中心部「文廟広場」である。

それにしても、成都市内や成都空港から北側の徳陽市内への道中は、西部大開発のまさにその現場が「これでもか!」というぐらいに眼に飛び込んでくる。農村地帯がものすごい勢いで不動産開発されていく風景を永遠と目にすることになる。
四川省 は、「天府の国」と称されるほどに肥沃な土地して有名であるが、空港を「天府空港」といったり、道路に「天府路」とつけたり、マンションに「天府マンション」といった文字がたくさん見られた。

徳陽市 徳陽市

ここは中国でも西部にあり、南部や東部にくらべて、夕方の時間が異様に長く感じられた。つまり、日の入り時間、日の出時間が 北京上海 とは、絶対的に日照時間の感覚が違うようである。2014年5月末時点では夜 8:20ごろまで明るかった。

最後に、さすが 四川省、美人と火鍋屋がやたらと多い。


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