『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2018年 2月上旬 『大陸西遊記』~


広東省珠海市 斗門区 ~ 斗門区人口 35万人、 一人当たり GDP 55,000 元 (斗門区全体)


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  斗門旧街道(斗門墟) ~ 文明開化時代の町並み遺跡
  菉猗堂 ~ 今に残る宋王朝皇室の末裔たち



 斗門古街

斗門鎮斗門墟(「墟」は、寂れた集落地区の意)は、全長500mほどの街道一帯を指している。

斗門区

清末当時、斗門鎮は 香港マカオ江門、石岐(今の 中山市)、広州 などへの主要交易拠点の 中継地を成し、もともと商船団の寄港も多く交易マーケットが盛んであったため、大陸中国市場へのゲートシティとして、 早くから外国商人らに知られていた。
1840年の第一次アヘン戦争後、大陸中国が市場開放を迫られると、 これらの外国商人らがこぞって斗門鎮内に会社支店を開設するようになる。こうして、集落地のメイン街道は海外輸入商品の卸売市場の様相を呈するようになり、一気に大陸中国と西洋列強との商業、文化交流の 最先端都市に躍り出ることとなった。

1850年ごろには、澳門浸信教会(Macau Baptist Church)のカナダ人牧師で建築技術者でもあった嘉理慰(Rev. John Galloway)と、広州、石歧(今の中山市)教会の宣教師であった耿其光(フランス人、Ignazio Canazei)、孤里花(フランス人)、紀励雲(ドイツ籍ベルギー人)らの西洋人宣教師らが度々、斗門鎮を訪れてはキリスト教の伝道に尽力するようになり、大陸中国と海外との宗教文化の交流も進展が見られるようになる。

こうしてヒト、モノ、カネの流入が活発化すると、当時の旧集落地の建築群では供給不足ということで、外国商人と現地の豪商らが協力して、街道や家屋などの整備が図られていくこととなった。

度々、当地を訪れていた建築技術者でカナダ人宣教師あった嘉理慰(Rev. John Galloway)らの設計協力により、ハイカラな欧米風建築群が建設されていく。順次、商店舗や教会などが整備され、現存する騎楼(欧米列強の植民地下の東南アジアによく見られる建築様式)通りが出現することとなった。
これらの植民地風建築群は清末の異国情緒の雰囲気を今によく伝える文化遺産として評価され、珠海市内で唯一の近代街道遺跡となっている。珠海市の中心部から遠く、 現代都市開発から隔絶した場所に位置したため、今日までその姿を残すことができたのだった。

場所:斗門区斗門鎮 路線バス609番か402番で、南門バス停留所で下車

斗門区

 菉猗堂

菉猗堂は斗門地区の趙氏祖祠で、広東省の指定文化遺跡となっている。その名称は、経典『詩経』から命名されているという。

斗門区

そもそも、当地の趙氏一族とは、北宋朝から魏王に封じられた趙匡美(947~984年、別名・趙廷美。北宋初代皇帝の趙匡胤の実弟)の末裔とされている。

この趙匡美自身は982年に兄の趙光義(二代目皇帝)の政権算奪を企てた罪で西京城(今の河南省 洛陽市)での蟄居を命じられる。 後に罪を許されて、涪陵県公に封じられ、984年、一族を引き連れて房陵県城(房州城を兼務。今の湖北省 十堰市 房県)へ移住する。しかし、その没落を嘆き、間もなく憤死してしまう(38歳)。

以後も、一族はこの房州城内で存続し続けるも、生活は苦しいままであったという。そして、その8代孫にあたる趙懌夫(?~1236年)が進士に合格し承節郎に就任した後、1234年に香山県(今の広東省中山市)長官に任じられ、3年間、香山県に滞在する。その政務は清廉潔白を旨とするものであったが、両親の死後、黄梁都(今の珠海市斗門区の旧名称。下地図)に隠居し、斗門鎮の趙氏一族の始祖となったと考えられている。

斗門区

それから40年後の 崖山の戦い で皇室本家が絶滅した(1279年3月19日)後も、彼の一族は斗門地区に居住し続け、今に至るまで35代の子孫を継承してきたという。
明代初期の1454年に、14代孫の孫趙隆がこの猗堂を建立したとされる。

菉猗堂は斗門鎮南門村に位置し、広東省沿岸部に一般的に見られる伝統的建筑スタイル(三進三間四合形式)を踏襲しており、建立から500年が過ぎた今日でもその壮麗さは 見る者を魅了して止まないという。

場所:斗門鎮南門村(路線バス K4番、609番、402番)


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