『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2014年4月上旬 『大陸西遊記』~


湖南省衡陽市石鼓区・雁峰区 ~ 人口 733万人、 一人当たり GDP 30,000 元


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  衡陽城(酃県城、臨烝県城、衡州城)
  三国時代の衡陽と諸葛孔明
  石鼓学院と武侯祠
  日中戦争の大激戦地「衝陽攻防戦」
  回雁峰
  接龍塔
  来雁塔
  衝陽県と夏明翰



高速鉄道の「衡陽東駅」は、市街地中心部から車で 20分ぐらいに位置する。駅舎は農村地域のど真ん中に建設されており、夜は本当に真っ暗闇で、駅だけが煌々と電気を照らしている様は、かなり異様(下写真左)。また、従来からある国鉄の衡陽駅(下写真右)は、市街地中心部とは湘江を挟んだ対岸にある。ここは、昔から居住民も多い地区であり、中国らしい古い集合住宅が密集する地区。商店街やホテルも集まり、便利だがすべてが古い。

衡陽市 衡陽市


衝陽古城

さてさて、衡陽古城であるが、三国時代の直前までは、酃県城と呼ばれる地であった。 196年に、荊州刺史であった劉表により、酃県が分離されて、臨烝県が新設されることにより、臨烝県城と呼ばれるようになっている。

荊州の南部3郡(武陵郡、桂陽郡、零陵郡)のちょうど中間地点に位置し、また、荊州の水脈系の交通の要衝でもあったこの臨烝県城に目をつけたのが諸葛孔明で、この地に一時滞在し、地方行政を監督する任務にあたっていた。

この孔明の滞在を記念して、現在、石鼓書院と呼ばれる学校跡に孔明廟が建てられている。所謂、武侯祠である。四川省 成都市 の武侯祠が有名であるが、劉備に忠義を尽くした天才軍師・孔明を神として祭った廟は、孔明にゆかりのありそうな場所には結構、たくさん建設されている。

衡陽市 衡陽市

ちなみに、湘江、蒸水ともに相当な大河で、現在でも大きな船がひっきりなしに往来している。特に、下写真のように、砂を運ぶ運搬船が一番多い。船の先っぽを砂山に突っ込んで、ベルトコンベア方式に船内に流し込んでいた。荷積み後、そのまま上流へ(方角的には南方)戻っていく船たち(下写真右)。

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さてさて、この孔明の武侯祠が開設されている「石鼓学院(本当に石の太鼓が設置されていた)」だが、ここは大陸中国を代表する4大書院(学校の意)の一つである(下写真)。この湖南省(かつての荊州)は知的集積地の一つでもあり、その総本山的な立場にあった。
あとで古城地図が出てくるが、この学院は城郭都市の外に位置していたようである。

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時は下って、北に女真族の金王朝を控えた南宋時代の1195年、衡州、永州、郴州一帯で農民反乱が勃発し、南宋朝廷によりこの衡州城に枢密院(軍事統率機関)が設置される。この関係上、対金・モンゴル戦でも重要な軍事拠点の一つとなっていく。
衡陽市 衡陽

この衡州出身の州牧であった李芾(李忠節公)(上写真)率いる南宋軍 3000人超が、1275年7月より湖南省長沙城に立てこもり、 3か月あまりの籠城戦を続けたが、食糧、武器が底をつき、壊滅する。李芾は戦死。そのとき、この衡陽城に滞在していたのが、当時の南宋政権の右丞相兼枢密使(軍事総督)の文天祥である。彼は長沙城陥落後、衡陽城を放棄し、福建省や広東省で対元抗戦を続けていくことになる。

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下は、かつての 衡陽古城 絵図。

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大変、残念なことに、現在は衝陽城の城壁や城門跡は全く残っていない。しかし、今に残る路地名(雷祖巷、司前巷、銭巷、、、、、などなど)に昔の城壁都市時代の記憶を見ることができる。

下の写真は、現在の環城南路。その昔、この通りの上を、都市をとり囲む城壁が設置されていた。今は完全に撤去され、道路のみ通る。ちなみに、衝陽中心街で唯一見かけた日本料理屋もこの近くにあった。先鋒路沿い。

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そのすぐ南側に、張飛支巷という路地があった。三国志の「張飛」の名を冠した小道だったので、とりあえず、踏破してみた。比較的、貧しい集合住宅街となっている。

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この 衝陽城 は、北と東を大河、西は湿地帯、そして、南を小高い丘が囲む天然の要害であり、また広東省や広西省方面への交通の要衝で、戦略的意味の大きな都市であった。ここへ日中戦争時、日本軍が湖北省方面より南下を進めてくる。戦車などの機動力兵器は南側のみしか使用できず、必然的に、衝陽城攻略戦は南側の中国軍の山上陣地の奪還戦がすべてとなった。

まず、最初の攻略目標となったのは、今の岳屏公園に築かれた中国側の要塞であった。この小さいが急峻な小山を巡り3日間にも及ぶ激戦が繰り広げられる。この山頂はだいたい、近くのビル10階分ぐらいの高さぐらいある。現在、山頂にはこの激戦を記録した博物館がある。

日本軍の当初の目標である、1日内での占領とはほど遠い、47日間にも及ぶ攻城戦となり、19000人もの死者を出した、日中戦争時に唯一、日本側兵の死傷者が中国側よりも多くの被害を受けた戦場であった。この長期籠城戦の戦果は、今でも衝陽の人々に大きな誇りを生んでいる。知り合った現地の中国人からも、日本絡みの話題で、この点は何度か言及された。下の写真は、戦争で壊滅する直前の衡陽市街地、都市防衛戦の遠景、山上陣地の防衛戦図である。

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また、岳屏公園のすぐ横にも、小高い丘があり、ここには寺院が祭られていた。通称、回雁峰 と呼ばれている。ここも、かつての旧城壁都市のすぐ南側の外に位置する丘陵地帯であり、両軍激突の際、すべてが破壊・焼失されてしまう。

その地下には地下防空壕が掘られていた形跡あり。今は、地元の人たちのバイク類の駐車場、マージャンや飲食など団らん場所となっていた。

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現在は、市街地から対岸へ橋が2本かけられている湘江だが、今も渡し船は健在である。15分に一本、運行中。片道 2元。だが、実際のところ、ほとんど地元の衝陽市民はこの船渡しを利用したことがない、と言う。すでに陸橋でバスやバイクが簡単に往来できるようになって久しいのだ。さらに、ここに2本のトンネル(解放大道と雁城路)の建設が予定されており、河川の景観を保とうとする開発計画に好感が持てた。現在、川べりは散歩道、運動場、駐車場などになっている。

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回雁峰の向かいに塔(接龍塔)がある。元々の村の風景もそのまま残る。地元の赤土を使った赤土レンガ作りの家屋だ。

その谷間に基軸道路(蒸陽南路)が作られているが、地形の変形具合から考えて、この塔とこの回雁峰はもともと一つの丘を形成していた、と考えられる。その真ん中に小さな小道があったのであろう。今は、それが拡張され、掘りえぐられて自動車道路になっている。

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ところで、衡陽市内には、このような塔が3つ現存している。この 接龍塔、そして街の北側(下流側)に位置する来雁塔、そして来雁塔の川の対岸にある珠揮塔である。地元の人曰く、かつてはもっと数多くの塔が建設されていたであろう、とのことである。

これらの現存する3塔はすべて全く未整備の状態で放置されている。来雁塔の歴史説明文によると、 1997年に一度、解体、復元作業が施されているが、その後は観光地からも離れた辺鄙な場所にあることもあり、観光客の訪問を受けることなく放置されているようである。

交通の便が不便なこと、周囲が工場群、漁村地域で貧しい環境にあることなどが原因であろう。特に、来雁塔については、有名な観光地「石鼓書院」から北方にその遠景を望むことができ、どのような塔になっているのか興味をそそられる人も多いはずである。

これらの塔は明代に、船の往来安全を祈る意味で建てられたらしい。
唯一、上ることが可能な来雁塔の中に入ってみた。実際に、各階、各方角にそれぞれ神様が祭られていた。その最上階には、関羽像があった。内部は地元の人が定期的に管理しているようで、供え物がされた形跡も見られた。
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この来雁塔一帯は、地元の赤土で作られたレンガ作りの貧しい農村風景が広がる。トイレも村で共同使用というスタイル。鶏がたくさん放し飼いにされていた。

この村の中の道なき道を通って、これか?と思われる道を突き進んで、本当に道に迷った!?と思ったところあたりを一か八か上へ突破すれば、小さな階段に出くわすことになる。

通常はカギが閉まっているので、塔門下の一番近い家の女性オーナーに5元を支払って、鍵を借りて、庭門と塔門を開錠する。帰り際に、鍵を女性オーナーの家に返却する。

塔は塔で、また薄暗く、一人で搭乗するのは度胸がいった。もうこのまま降りられなくなっても、誰も知られずに帰らぬ人となるのは簡単である。しかも、何体もある神様の像も、いろんな表情でこちらを見ているので、ますます心細くなった。。。。

とりあえず、勇気を振り絞って、上まで登ってみた。階段は狭く暗い。

各階の出窓や回廊がついていた。真ん中の箇所は木や石で足元が作られていたが、底が抜ける危険性もあり、とりあえず、石の側だけ横切ってみた。

上写真はバス停から村の中を通ってきたルートを、塔のてっぺんから振り返って見たもの。

塔は近くの工場からの煤煙で痛みがひどいようだが、造りは頑丈だ。今後は、観光地として整備される、という話を女性オーナーから聞いたが、まだまだ時間がかかると思われる。

2014年4月時点では、現地の衝陽市民ですら来た人が少ない、完全に打ち捨てられたスポットである。


下写真左は、郊外地区の広場(五一市場地区)にあった毛沢東主席の銅像。 この周辺地域は古い住宅や農村家屋がまだまだ多く、住民共同使用のトイレが村の要所要所に設置されていた(つまり、上下水道整備の関係上、自宅に風呂トイレがない住居が一般的であった)。
下写真右は衡陽市郊外(南側)から市街地方面を臨んだもの。このようにたくさんの池や水田があり、この地が水に豊富な場所であったことがうかがえる。ちなみに、日中戦争時、日本軍はこの方角から攻城戦を展開した。

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衝陽県

南北朝時代に臨烝県から分離・新設された重安県の県役所が設置された場所である。しかし、その県城跡は全く残されておらず、今日、それがどこにあったのかすら、分からない状態だ。

日中戦争の際、日本軍は衝陽市街区への進軍のために、この衝陽県の地を含め、周辺4県を先に攻略して、衝陽市内へ逃げ込んだ周辺住民たちも加えた中国軍と、47日間にも及ぶ攻城戦を繰り広げることになる。
ここの中州にある船山公園へ行ってみた。市民の憩いの空間になっている。
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夏明翰(1900~1928年)のふるさと。五四運動の折、湖南省学生連合会を率いたリーダーであり、湖南省長沙地区の共産党幹部に抜擢された人物。28歳にして国民党により拘束され、処刑される。


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