BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~


広東省 揭陽市 恵来県(恵城鎮 / 澳角鎮) ~ 県内人口 115万人、県域 一人当たり GDP 18,000 元


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  恵来県城の南門エリアと外堀、関帝廟
  恵来県城跡の地図
  環城東路と恵来県城の東門エリア、城内池
  城隍廟と古城北エリアの路地街、環城北路
  環城西路と恵来県城の西門エリア
  【豆知識】恵来県城の歴史と古地図
  海岸線の絶壁に建造されていた澳角砲台
  巨木と砲台の防塁壁が一体化しつつある ド迫力
  第二次大戦中、日本海軍との砲撃戦が行われた
  【豆知識】澳角砲台
  葵陽公園内に悠然と建つ 文昌閣塔
  海岸エリアと県城との中間地点に建つ 鰲頭塔
  海寧県城(今の揭陽市恵来県千秋鎮村)と 交通の要衝・菱潭鎮



【 恵来県城(恵城県城) 】

投宿した中旅大酒店を出た後、まずは南門大街を北上し、恵来県恵城鎮の中心部にある古城エリア(恵来県城の跡地)へ入る。

古城跡地に入る手前に外濠跡であるドブ川が流れる(下写真左)。このドブ川は北門辺りまで続いており、環城路沿いにしっかり貼り付いて流れていた。
街中にあって、ここまでしっかり周囲を取り囲む形で外堀跡が残されている古城エリアも珍しい。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

とりあえず、城壁跡などを探してみようと、南門跡地から外堀沿いに東方面へ歩いてみた。ちょうど南門大街から脇に入った外堀沿いに関帝廟が残されていた(上写真右)。
そのまま引き続き、環城(東)路を外堀沿いに歩みを進める(下写真)。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

途中、古老が話しかけてきたので、城壁のことなどを質問してみると、大戦中、日本軍が来たときに破損・撤去されたこと、また城壁はそれほど高くはなかったことなどを教えてくれた。

下地図は、古城エリアの航空写真。筆者が歩いたポイントを書き込んでみた。

恵来県恵城鎮

下写真左はちょうどドブ川(外堀跡)が東門の手前で、外部へと流れ出るように運河が設けられていた地点。ここからドブ川は進路を南に変えて、葵陽公園内へと続いていた。
下写真右は、このドブ川が恵来県総合バスターミナルの横を通過するポイント(下写真右)。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

下写真は、環城東路と恵東路との交差点。かつて、ここに東門があった。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

さらに、環城東路の北上を続けていると、外堀にもう一つの橋が架設されていた。群力二橋という名が刻まれた、東門跡よりも幅の広い橋だった(下写真左)。

ここは、古城内の湖辺路から城外へと続く道路と連なっており、古城内外の住民らの生活道路となっている様子だった。ここで北門まで外堀沿いを歩くのを放棄し、路地・湖辺路より古城エリア内へ入ってみることにする。
ちょうど、巨大な城内池が残されている辺りなので気になったためだ(下写真右)。
古城時代から県役所の中庭か、県長官宅などに設けられていた庭園池であろうか。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

そのまま細い路地へと姿を変える湖辺路を北へ入っていくと、城隍廟 があった(下写真左)。 明代の 1526年の築城当時からこの場所に鎮座され、その境内には、明代、清代の石碑や木片が数多く現存するという。
その昔、学業に熱心であった就学生が志半ばで城内の池で溺死し、 無念の思いから魔物へ化身するも、その心の清さが評価され、城隍廟内の一地元神として 祀られるまでのエピソードが解説されていた。その出自にかかわらず、善行は人を富貴にする、 という意味が込められているという。

古城エリアの北半分は、古民家も所々に点在し、非常に路地が入り組んでいた。 西一三座厝横巷、天帝翁二横巷など。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

迷路のような路地街をそのまま北へ進むと、環城北路に行きあたる。
恵香路と恵河路との間には、環城北路沿いにあるべき北側の外堀跡が埋められていた(もしくは水堀ではなく、空堀だけだったのだろうか。下の古地図参照)。
今でも、その外堀跡と思われる段差が残り、この低地に建ち並ぶ住宅街と城壁跡の環城北路との埋められない境界線が、古城時代の記憶を今に伝えていた(上写真右)。

そのまま西へ進んでいると、恵河路から再び環城北路沿いに外堀(ドブ川)が復活する。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

ちょうど環城西路が始まったあたりに、人民広場(老広場)があった。その先に、旧影劇院の建物がみえる(上写真左)。現在は使用されておらず、打ち捨てられたまま。新影劇院(芸術文化会館)は南門大街沿いにすでに開館している。
旧影劇院の前には文化路という路地が通り(上写真右)、ここを南下すると、恵来県役所に至り、そのまま南門大街と 恵東路 の交差点に戻れる。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

ちなみに、この恵東路が古城エリアの東西のメインストリートで、その西側の外堀にかかる橋は、西門橋と呼ばれている(下写真左)。この西門橋より西側は恵西路へ名前を変える。
ちょうど、この西門橋の手前に、西門が設置されていたわけである(下写真右)。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

恵東路の東側には東門が、西側には西門があったわけで、現在でも、付近の商店街には東門頭市場、西門頭ショップなどの店舗名の看板があり、その記憶を今に伝えている。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

結局、古城エリアでは全く城壁を見つけることができなかったが、環城西路沿いに住宅用の石材が山積みされており(上写真左)、これらはかつて城壁の資材であったのではないかと思う。城壁が撤去される前から、こうした石材は住民らにはがされて、民家や畑用に転用されていたはずで、それは今でもまだまだ利用価値があり、こうして別の住宅用に一時保管されているのだろう。

それにしても恵来県城であるが、明代、清代の県レベルの城郭都市としては、結構、面積が大きかったように思われる。


1524年、潮陽県下の大坭都、酉頭都、恵来都の三都、および、隆井都の半分が分離され、また同時に、海豊県 からも龍溪都が分離され、これらの 4都半が合併されて、恵来県が新設される(設立当初の戸籍人口は、総勢 20,258人)。潮州府 に帰属した。 当初は県役所も城壁もなく、民家の一部を租借して、役所業務が行われたという。

翌 1525年に、第 2代県長官として蒋恩(在任:1525~1531年)が 赴任すると、県城や県役所庁舎(今の恵来県役所の場所)の建設が建議され、 翌 1526年より築城工事が開始される。これにあわせて、城隍廟(横 24.7m、奥行 44.4m、総面積 1097 m2)も新設されている。
恵城県城は葵嶺山脈の南東に位置したので、葵陽城とも別称されたという。

恵来県恵城鎮

1553年、 管轄の県域が拡大され、海岸部の防衛の要衝であった 靖海千戸所城 も行政区域に加えられる。以後、清末まで継承された。



【 澳角砲台 】

葵陽公園内にある恵来県博物館を視察した後、すぐに公園横(南門大街)に停車中の 靖海 行のローカルバスに乗車した。
だいたい 8分毎一本の割合でバスは運行されている。澳角鎮まで片道 6元、所要時間 20~25分程度だった。

バスは南環一路沿いに西へ進み、恵神南道との交差点である中国税関ビル前でさらに乗換客を呼びこんで、いよいよ本格的に走り出す。
移動中、運転手も、チケット販売員も、乗客も自由にタバコを吸いまくっていた。車内には幼児などもいるのだが、そんなことはお構いなし。。。。

神泉鎮を越えると、間もなく澳角鎮の集落地(青空市場になっている)に到着する。
このあたりで客待ちする三輪タクシーと交渉し、10元で連れて行ってもらうことに。実際は、5~10分程度で到着できる近さだった。

恵来県恵城鎮

澳角砲台はかなり小規模なものだったが、ほぼ完全な姿を今にとどめていた。海岸線ギリギリの高台上に建設して、大砲の飛距離アップを図ったものと考えられる。当時は、3kmぐらいの射程距離だったらしい。

恵来県恵城鎮

この砲台 は丁寧にも防塁壁へ上がる階段も修繕されており、上から砲台砦の全体を見ることができた。巨木が何本も防塁壁を貫通したり、根を張って一体化しており、時の経過を如実に物語る生き証人となっていた。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

筆者が防塁壁上を巡っていると、地元の男性が砲台内に入ってきて、立小便していた。ここはもう地元民にとっては公衆便所でしかない場所なんだろうな。。。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

とりあえず、外壁面も撮影する。
第二次大戦中、日本海軍の艦砲射撃を受け、砲台の南面(下写真左)が大きく陥没したと博物館の解説板に記されていたが、今ではどこがその痕跡か確認できなかった。
下写真右は、東面の北側にある砲台入り口。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

砲台のやや後方に、共産党時代のトーチカらしいの建造物があった。とりあえず、澳角砲台の石碑とともに撮影しておいた(下写真左)。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

砲台の周囲は旧家屋や宅地開発された住宅街が広がっているのだが、この遺跡の周辺だけは空き地のまま放置されていた(上写真右)。もし、別荘やリゾート施設でも建ったのなら、相当に視界良好のベスト・ロケーションなのだろうが。

見学後、三輪タクシーと同じ道を歩いて帰る。
そのまま主要道路との交差点まで戻り、これを下って青空市場まで行かずに、その三差路でバスが通りかかるのを待つことにした(下地図)。大陸中国の田舎は、路上、どこでもバスの乗降車ができるので、非常に便利だ。

恵来県恵城鎮

しばらく立っていると、恵来へ戻る普通車タクシーや三輪タクシーが度々、「恵来?」と声をかけてくる。「いくらか??」と質問すると、「15元」と言われたので、「バスは 6元だぞ」と返答すると、10元に下がったので、三輪タクシーに飛び乗った。
視界が 180度見える魅力もあり、最初は喜んでいたが、巨大トレーラーやダンプカー、自動車、バイクなどが入り乱れて走る車道の走行はスリル満点だった。おまけに、道路はあちこちデコボコと陥没穴があり、いつ吹っ飛ばされるのか冷や冷やさせられた。

道中、神泉鎮にあるという古廟狼煙台跡と思わしき小山があったが、どうしても頂上まで登る登山口を目視できず、そのままタクシーを下車せずに恵来県の中心部まで戻ってしまった。

おそらく、神泉鎮の入り口にあたる丘の部分がその狼煙台跡ではないかと思われる。ちょうど道路沿いに古廟もあり、また、海岸線と恵来県城との中間地点に位置する、そのロケーションはベスト・ポジションのはずだ。

また、同じく連なる山並みの果てに、鰲頭塔が見える。明代清初に建設されたものという。
これと同型のものが、葵陽公園内にある文昌閣塔である。
その昔、これらの塔と狼煙台は連携して、相互に相図を送り合う機能を担ったと思われる。


澳角砲台は、恵来県の中心部から南へ 10kmほどにある澳角郷の北西部に位置する。
清代の 1717年、当初は倭寇対策として建造された。

ここには大砲が 6門(四方向すべてに装備)、兵舎が 7間あり、守備担当の統括者 1人と、砲兵 18名が配備されていた。
防塁壁は高さ 5.8m、厚さ 2m(西面のみ 4.5mと特別仕様)で、貝殻と粘土が混ぜられた土壁で練り上げられており、壁上には凹凸女壁が並べられ、矢座間や兵士らの通路(幅 1.3m)が設けられていた。内部の面積は、東西 22.5m、南北 15.2mの長方形で、312 m2 あったという。

恵来県恵城鎮

なお、この澳角砲台もまた、恵来県城を防備するために設置されたもので、ここから西へ 2.5km先の神泉砲台と、東へ 2.5km先の 溪東砲台 と共に、第一から第三防衛ラインを構成していた。
特に、最終防衛ラインの神泉砲台(同じく、1717年建造)は、恵来県城の真南に位置し(現在の広東省揭陽市恵来県神泉港)、外部から海路を伝って恵来県城へと至る守備の要衝であった。



【 文昌閣塔と鰲頭塔 】

葵陽公園内の恵来県図書館 3Fにある恵来博物館へ出向くも、地方都市によくある、午前と午後間の昼食時間で昼休み中だった。開館時間は午前 9:00~11:30、午後 14:30~17:30ということで、先に昼食を食べることにした。

15:00前に博物館を再訪してみる。ここの廊下に掲示されていた恵来鎮内の古跡マップが一番、役に立った。司書さんが暇だったようで地図を指さしながら、いろいろ説明してくれた。ここで、路線バスの靖海行きが、すべての史跡が並ぶ海岸線(神泉砲台、澳角砲台、溪東砲台資深砲台靖海砲台靖海所城)を巡っていることを知る。
バス停車場は、当地の最大ホテルである恵来賓館(Huilai Hotel)の東隣に位置する(下写真左)。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

また当初、文昌閣塔 のことを中国の市民公園に一般的に飾られている普通の塔まがいの物体かと思っていたが、博物館の司書に教えられて、その歴史的価値に気づいた。明末清初の建造という。神泉鎮の山合いに立つ鰲頭塔、そして狼煙台と連携して、相図を送り合う機能を担ったと思われる。

恵来県恵城鎮

文昌閣塔は近年、修復工事が済んで、ずいぶんと新しくなっており、あまりに普通のオブジェ過ぎて、無視してしまうところだった。かつて文昌閣塔は、上まで登れたそうだが、男女の野外プレイや毒物使用などで不法地帯となったらしく、立ち入り禁止になってしまったと説明された。

恵来県恵城鎮

文昌閣は、明代末期の 1604年に最初に建造され、もともと梁化河の上流の甘竹河にかかる甘竹橋の左側 300mの場所に設置されていた。その塔門は甘竹河に向かって配置されていたという。上地図。
しかし、清代初期に火災で焼失してしまう。
1687年、恵来県の県長官である張秉政が塔を再建し、やや北側へ移転され、南向きとなる。
1737年、県長官の楊宗秉がさらに修繕工事を施し、塔の入り口部分に「奎光閣」の直筆額を寄贈する(上写真の正門入り口に掲げられている)。以後、奎光閣塔とも別称されている。

現存する塔は正八角形の石材とレンガ積みで、その高さは 3階建て、25mで、 周囲は 29.76m、塔の底面積は 504 m2 という。現在の塔門は 北向き に配置されている。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

一方、高さは、11m の鰲頭塔(上写真左)は正式名称を玉秀鐘華といい、恵来県神泉鎮鰲頭村の東にある鰲頭山の山頂に忽然と設置されている(上写真右)。
この塔は明代末期の 1628年に、県城の東の郊外にあった東福村の方氏によって建造された風水塔で、もともと一族の子孫繁栄を祈念するために祖先を祭る宗祠の赤山古院の一部として建造されたものという。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

余談であるが、葵陽公園を歩いていると、射的ゲーム場を見つけた。何と「打倒小日本」というスローガンの下(上写真右)、子供たちの奮発心をあおっていた。。。。



 陸豊市 → 恵来県 へのバス移動

陸豊市総合バスターミナルで、恵来県菱潭鎮行きのバスチケットを購入する(20元)。所要時間 1時間強。昼時を除き、40分に一本、運行されている(夕方 18:00最終)。

かなりのローカル田舎バスで、陸豊市の市街地(最初の 15分間)は最徐行で運行しながら、道すがらの乗客を拾っていくスタイルだった。都市間バス、というタイプの大型バスではなく、型落ちした中型バス車両を使い回して、最終末期段階に到達しているようなバスだった。

途中、博美鎮、南湖鎮、銅鑼湖鎮を経由し、主要幹線道路の G324号線沿いを進むルートだった。
約 1時間10分後、恵来県菱潭鎮に到着。G324号線が G337号線と交わる三差路で下車させられた。

ここ菱潭鎮は、恵来県の西端のはずれ町だったが、潮恵高速道路との接続ポイントで、大型トラックが頻繁に往来していた。少しの間、G337号線沿いを恵来県方面へ歩いてみた(下写真左)。

恵来県恵城鎮 恵来県恵城鎮

恵来県 中心部 ⇔ 菱潭鎮 のローカルバスが 10~15 分に一本、往来しているので、どの方角が恵来県の中心部なのか、すぐに推察できた。
菱潭駅近くの鉄道陸橋まで来たので、振り返って市街地を撮影(上写真右)。
この先の線路沿いの千秋鎮村にあった海寧県城跡地も見たかったが(下地図。東晋時代の 331年、廃止された掲陽県から、海陽県、潮陽県、綏安県と共に 分離・新設された)、荷物もあったので、今回は諦めた。

恵来県恵城鎮

そうするうちに、恵来県方面行きの大型バスが通りかかったので、手を上げて乗り込む。
走ること 50分ほどで、恵来県恵城鎮の西端まで到着し、南環一路と恵神南路との交差点、塩嶺川の橋の上で降ろされた。
ちょうど、中国海関ビル前の交差点(後でわかったことだが、ここは南の海岸エリア=神泉鎮、澳角鎮、渓東鎮、靖海鎮などへ向かうバスの乗降車ポイントでもある)一帯である。

ここからバイクタクシーで恵来県総合バスターミナルへ行く(8元)。
バスターミナル沿いのホテルに投宿しようと、同じ葵和大道沿いの大型ホテルに見えた文昌大酒店と交渉してみるも、外国人は宿泊できない 2つ星レベル以下というわけで断られた。

その裏手の中国旅行社の看板があった中旅大酒店(China Travel Hotel)だと、何とか泊めてくれた(150元+保証金 150元)。ネット環境の悪いホテルで、接続がぶつぶつ途切れて悪戦苦闘させられたが。。。。

翌日、恵来県総合バスターミナルから 40分に一本ある、深圳 行きのバスに乗り込んだ。
深圳市布吉区に着いたのは、出発後 3時間強で、そこから 40分ぐらいかけて深圳市内の羅湖、東門などで客を降車させていた。 結構、個別客のリクストに対応して、道中、いろいろな場所で停車していた。筆者は華強北の上海賓館前で降ろされた。
トイレ休憩もないぶっ通しのバス走行だった(いちおう、バス車内にトイレ完備だったが、乗客の誰も使用した者はおらず)。



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