『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2018年1月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省東莞市虎門鎮 ~ 人口 65万人、 一人当たり GDP 87,000 元(東莞市全体)


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  威遠砲台
  靖遠砲台
  鎮遠砲台
  蛇頭湾砲台
  南山頂砲台

  虎門口鎮城跡(虎門林規徐紀念館)
  沙角砲台
  定洋砲



虎門鎮の中心部を成す、黄河時装城バス停から路線バス L1に乗車する(2元)。約 20分ほどで、終点の海戦博物館前に到着できた(下地図は地元の路線バスマップ。掲載されていない路線も多々ある)。

虎門鎮


 威遠砲台

海戦(アヘン戦争)博物館を見学した後、海岸線沿いに残る威遠砲台遺跡を見学する。

虎門鎮

上写真は、砲台基地が複数、建造されていた威遠山と虎門大橋。
アヘン戦争当時は、威遠山は森林がすべて伐採され、はげ山に石積みの防塁壁が取り囲む砲台基地が何重にも張り巡らされていた(下絵図)。

虎門鎮

現在、観光客のほとんどが訪問する砲台遺跡が、この山裾部分にわずかに残る威遠砲台である。
相当に分厚い石積み防塁壁が、迷路のように残っていた。

虎門鎮 東莞市虎門鎮

下写真は威遠砲台の外壁と、遠くに見える沙角砲台跡。それぞれ珠江河口部にあって、第一防衛ライン、第二防衛ラインの要を担った。

虎門鎮

山裾をさらに西へ進み、虎門大橋をくぐって珠江沿いに進むと(下写真左)、威遠山の中腹部に残る靖遠砲台、鎮遠砲台、蛇頭湾砲台、南山頂砲台への登山口に行きあたる(下写真右)。ちょうど自家用車で来る訪問者のために設けられた駐車場の脇にあった。威遠砲台遺跡からは結構、離れていた(徒歩で15分ほど)。

虎門鎮 東莞市虎門鎮

ちょうど、下の観光案内地図の左端「領票処」にあたる。

虎門鎮

珠江に目をやると、対岸まで 3000m弱あり、さすがに大陸の河川は広大で、時折、タンカーなどの巨大船も航行されていた。
この広い河口部を守る第二防衛ラインでは、威遠山上の 6砲台陣地(上案内図)以外にも、河川上にある孤島群にもそれぞれ砲台基地が設置されており、清末の緊迫した厳戒体制時代を妄想しながら(下絵図)、西側のバス停まで歩みを進めた。

虎門鎮

アヘン戦争当時の清、英軍の大砲火力 比較表

国名
有効射程 最大射程距離 発射速度  その他、性能
清軍大砲 約 1,000m 約 2,000m  6分毎
 1発
 命中精度は極端に低く、発射角度の調整能力も乏しかった。
 また、各大砲は非常に重く、移動用の滑車も粗末な木製で、
 機動性が乏しかった。
英軍大砲 約 1,500m 約 4,500m  2分毎
  3発
 命中精度が高かった。
 各大砲は軽く、移動用の滑車も4輪タイプで、機動性が高かった。



下写真左は、蛇頭湾砲台と鎮遠砲台が配備されていた山の西面。
先の登山口からさらに10分ほど進むと、路線バス②番の終点ポイントに到着する(下写真右)。だいたい、10~15分に一本の割合で運行されていた(3元)。虎門鎮中心部まで20分弱のドライブ。

虎門鎮 東莞市虎門鎮

逆算すると、路線バス②番のバス停から、お目当ての威遠砲台遺跡まで実に30分弱は歩かねばならず、どういうセンスでここをバス停留所にしているのか、さらに「威遠砲台」行という行き先を掲げさせているのか、その意図が全く分からない。
筆者が2011年ごろに訪問した折は、確か、虎門大橋の真下までバスが来ていた記憶があるのだが。。。。
とりあえず、教訓としては、虎門砲台遺跡群へ向かうには、海戦博物館を終点駅とする路線バス L1、⑫、⑯、832のいずれかをお勧めする。



 虎門砲台

威遠砲台は、珠江が海へと注ぐ河口部東岸の威遠島(旧名称:亜娘鞋島)の川辺の波打ち際ギリギリに建造されていた。当時、その背後の威遠山の山頂から中腹部、山裾にかけて、複数の砲台基地が設けられており、それぞれ威遠砲台、鎮遠砲台、靖遠砲台、南山頂砲台、蛇頭湾砲台、定洋砲台と命名されていた。

虎門鎮

これらの砲台基地は立体的にそれぞれが相互機能する海防ラインとなっており、珠江河口部の第二防衛ラインの主力を成す場所であった。この第二防衛ラインは、珠江に孤島として存在する 下横档砲台 や、永安砲台(上横档島)、巩固砲台などと連携され、その堅固な防衛網は、「南方海上の万里の長城」とも比喩されたという。

今日、虎門砲台遺跡と一般に認識され、多くの人々に訪問される場所となっている威遠砲台は、山裾の最前列に位置していた。 現存する虎門砲台は、全長 360m、横幅 7.6m、防塁壁の高さ 6.2mの歯型の形状をしており、合計で大砲 40門が配備されていたわけであるが、これは1882年に再建された頃の様子で、アヘン戦争当時は 12門の大砲が配備されていたというが、占領した英軍により完全破壊されてしまっているので、当時の形状は全く残されていない。

この威遠砲台と、背後の威遠(北武)山の中腹部に設置されていた鎮遠砲台と靖遠砲台とを合わせると、「品」の字型に配置されていた。
威遠砲台は靖遠砲台の前線部に位置し、銅鎖で河川を封鎖するのに重要な位置を占めたが、標高が低かったため、視界が悪く、これを補ったのが、当時、最大数の大砲が配備された靖遠砲台であった。また、前衛の威遠砲台が打ち漏れた艦船などを、さらに遠めから砲撃できる位置にあり、上下で呼応して砲撃するコンビネーションが期待されていた。

この第二防衛ライン上には、当時、河川の川底に鉄楔が打ち込まれ、銅製の鎖でつながれていたため、船舶の通行が一切不可能な工夫が凝らされていた(下地図)。

虎門鎮

1835年、関天培が広東水師提督に就任すると、すぐに広東省エリアの海岸線の防衛強化のために、 各地に砲台基地が新設されることとなる。また、すでに存在した虎門砲台陣地群には 強化工事が施された。

1838年、林則徐がアヘン取締担当の欽差大臣に就任すると、翌1839年に任地の 広東省に赴任する。違法アヘンを積極的に没収するとともに、海岸エリアの防衛ラインを視察し、 その強化を図ることとなる。
その際、当地を熟知する鄧廷楨と関天培の建議を受け、虎門砲台の対岸に位置する 大角山 の山裾に 設置されていた砲台基地の強化工事が進められている。また、珠江上の孤島であった横档島も改造され、砲台基地が新設されることとなった。
林則徐は自ら大砲を試射し、それらがすべて対岸にまで届く飛距離をもったので、非常に満足したという。

アヘン戦争の直前、その強力な防衛網を目にしたイギリス人は大いに危機感を覚え、 清朝廷内の琦善を買収し、駐留軍を減少させるとともに、珠江上の銅鎖の封鎖を解除させることに 成功する。

直後に侵攻を開始し、第一防衛ラインであった大角山砲台と 沙角砲台 とを 徹底的に無力化した後、1841年2月26日、ついに第二防衛ラインへと駒を進めてくる。
イギリス軍はまず 横档島 の側面から侵入し、その火力を集中させて、主力の靖遠砲台を総攻撃する。 靖遠砲台の守備を司った主師の関天培と数百の兵士らは全滅することとなった。関天培の殉死(享年62歳)は、中国史上の英雄として称えられている。

靖遠砲台が陷落すると、イギリス軍は続いて威遠砲台へ一斉射撃を展開する。守将を司っていた潮州総兵の李廷鈺は弾丸も尽き、多くの部下が負傷する中で、 撤退を余儀なくされる。こうして、威遠砲台も完全破壊されてしまったのだった。

1月7日の英軍の侵攻開始してから、2月26日の虎門砲台陣地群の陥落までの間、 広州城 や清朝廷からは一切の増援が送られ ることはなかった。
このため、英軍は砲台基地への艦砲射撃の後、上陸軍を派遣して、要塞背後の山から 各砲台基地をせン滅する作戦を悠々と展開できたのだった。

この戦争時、すでに欽差大臣を罷免され、新疆の左遷先への移動途上になった林則徐は、 関天培の訃報や砲台基地の壊滅を耳にしたとき、激しく絶句したという。

虎門での敗戦は、大砲火力の性能差以外にも、買収された琦善が防衛網を弱体化させたこと、 積極的にイギリス軍と交戦した虎門戦線に、清朝廷中央から全く援軍が送られてこず、各個撃破されてしまった ことなど、多くの敗因が指摘されており、清朝の末期状態を如実に露呈するものとなった。

第一次アヘン戦争後に英軍が撤退すると、直後の1843年、再び虎門砲台の防衛ラインの再建工事が開始されるも、第二次アヘン戦争が勃発し、再びイギリス・フランス連合軍の攻撃を 受けると、虎門砲台は再度、壊滅に追い込まれた(1856年10月16日)。

1877年、張樹声(1824~1884年)に両広総督に就任する。 さらに1882年、李鴻章が母の死去により直隷総督の任を辞職すると(1870年より着任していた)、 張樹声がこれを引き継ぐ。軍事、外交の最高権力者として、一時期、天津 に拠点を移す。 この時、朝鮮半島で日本軍と小競り合いがあり、その収拾に手腕を発揮した。翌1883年に 直隷総督を辞任し、再び、(両広総督を兼務していた)任地の広州へ戻る。
海外勢力の中国侵出が常態化する中、張樹声は復帰早々の1883年、虎門砲台基地群の 修復工事を指示する。1884年には、ベトナム 侵略を進めるフランス軍とも戦っている。

この張樹声による修繕工事の際、鋼鉄板、コンクリートなどの資材はすべてが海外直輸入とされ、 高品質の砲台基地の再建が推進された。
現存する威遠砲台遺跡はこのときに建造されたもので、防塁壁内に36門の大砲が配備され、 さらに防塁壁外にも4門の大砲が設置された。それぞれの大砲の両脇には弾薬庫も備えつけられる。 また、防塁壁は厚さ 2mを有するもので、さらに、砲台の後方部にも厚さ2mの壁が設けられていた。

また、砲台には上陸してくる敵軍に対抗すべく、射撃口も複数、存在した。
砲台基地内には、官舎1つと、神廟3間、兵舎20部屋(左右に10部屋ずつ、各部屋面積は 3.65m×6.6m)、 医務室1つ、船着き場が1ヵ所設けられる。
もともと、砲台の東西には城門が1つずつ配置されており、砲台要塞に入る唯一の貫通した通路になっていた。
現在、砲台基地の中には、火薬庫や兵舎家屋などがほぼ完全な姿で残されている。



虎門鎮【前編】 >>>

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