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訪問日:2015年 9月中旬 『大陸西遊記』~


湖北省武漢市江漢区・江岸区 ~ 人口 130万人、 一人当たり GDP 36,000 元(武漢市)


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  英、露、仏、独、日の租界地跡
  日本の漢口租界地の歴史
  宋慶齢(孫文の妻)旧居とアメリカ領事館跡
  夏口県城(漢口鎮城、夏口庁城)
  イギリス租界地にあった香港上海銀行と Citibank(花旗銀行)
  前後漢時代の庶民のトイレ事情と富豪の邸宅
  1938年5月20日、中国空軍による九州空襲
  江漢区・江岸区・礄口区(旧漢口鎮)の歴史
  イギリスの漢口租界地の歴史
  フランス・ロシアの漢口租界地(共同管理)の歴史
  ドイツの漢口租界地の歴史



【 江漢区・江岸区・礄口区(旧漢口鎮) 】

清末の列強の租界地跡 の視察と、武漢市歴史博物館の訪問を兼ねて、江漢区(旧漢口鎮)へ行ってみた。

まず、長江沿いの租界地跡を見る。フランス、ロシア、イギリスの跡地はかなりはっきりと残されていたが、ドイツ、日本の租界地は全くその面影をとどめていなかった。

旧漢口鎮

戦前、日本は 天津重慶蘇州杭州 と並ぶ租界地を、この漢口に保有していたわけであるが、その発端は、日清戦争での外債発行の借金苦にあえぐ清国政府に対し、英仏ロ独日の列強がますます圧力を強めて利権競争を展開した結果であった。日本は1898年、列強の租界地の端っこ 約 0.134 k㎡の土地の租借に成功する。このとき、元首相の伊藤博文が当地を訪問している。
1907年には、さらに 0.415 k㎡へ拡張される。

しかし、日中関係が悪化の一途をたどる中、 1937年8月13日に盧溝橋事件が勃発し日中全面戦争が本格化すると、漢口地区の日本人 1,984名は全員、日本へ帰国してしまい、以後、中国政府による代理監督地となる。

開戦日からちょうど一年後の1938年8月13日、中国政府は正式に日本租界地の接収を宣言するも、同年10月25日には日本軍が武漢に達し再占領を果たすと、再び、日本人租界地が復活設置されることとなる。
下写真左は、漢口の日本領事館。下写真右は、横浜正金銀行の建物。

旧漢口鎮 旧漢口鎮

1943年3月30日、日本軍は同地区を汪精衛政府へ返還している。

なお、漢口に開設された租界地の中でも、最も遠いエリアにあった日本租界地は、宗主国日本の経済力の限界もあり、あまり開発が進まなかったという。
結局、大陸中国の中で、最も繁栄した日系租界地は、天津のみであったとされる。

開発があまり進まず、しかし治外法権が認められた漢口の日本租界区は、多くの中国人ら犯罪者の巣窟となり、荒廃エリアの代名詞となっていく。

そんな中の1944年12月18日、漢口の旧日本租界地を中心にアメリカ空軍が爆撃し、一気に廃墟と化してしまう。下地図。漢口エリア全体の半分が破壊され、戦後、旧日本租界地区は貧民街と化してしまったという。

旧漢口鎮

以後も、日本租界地の名残は残存し続けたらしいが、2003年の都市開発のあおりをうけ、旧三菱洋行や日本神社の遺構も撤去されてしまう。
今日では、山海関路2号にある旧日本領事館、勝利街272号にある旧日本軍宿舎のみが現存するという。


他方で、英、露、仏の旧租界地エリアは、至るところに洋風の建物が残されており、現在でもショップや住居に利用されていた。
また、たくさんのバーやカフェ、クラブなどがあり、夜ともなれば、賑やかになるはずだ。

旧漢口鎮 旧漢口鎮
旧漢口鎮 旧漢口鎮

上写真左は、宋慶齢(孫文の妻)が一時(1927年夏)、居住していた建物である(現在は、宋慶齢紀念館となっている)。かつてはロシア租界地内にあって、1896年~1926年9月まで営業していたロシア系の道勝銀行の本店ビルであった。国民政府の接収後、一時はその財務部が、後に中央銀行の武漢支店が入居した。

上写真右の赤色の建物は、1905年建設のアメリカ領事館跡である。現在は、ハローワークと起業家センターになっていた。

旧漢口鎮 旧漢口鎮

上写真左は、租界地と長江との間を通る沿江大道。かつては、この半分ぐらいの広さしかなく、長江が間近まで迫っていた(下の博物館内の模型参照)。

上写真右は、立興洋行漢口支店の事務所跡という解説(租界エリアの古い建物には、一つ一つ解説ボードが付されていた。ここは1901年建設。1935年に漢口飯店となる)があった建物入り口。掃除係の人の自宅と化していた。。。

旧漢口鎮

漢口鎮には、清朝後期の1861年に城壁が築かれるも、現在、その城壁はすべて撤去されてしまっている。今の京漢大道がその城壁跡地である。
しかし、現在は循礼門などの地下鉄駅名にわずかにその名残を残すにとどまる。


続いて、漢口区の武漢市博物館へ行ってみた。

下写真は、清末に列強が租界地を開いた一帯の模型。下写真右は、アメリカ大使館。

旧漢口鎮 旧漢口鎮

下写真左は香港上海銀行で、下写真右は Citibank(花旗銀行)の建物。

旧漢口鎮 旧漢口鎮

その他、武漢市の歴史文物が数多く展示されていた。
下写真左は、三国時代の呉の治世時代に墳墓の埋葬品として製造されたという、当時の庶民らが使った厠の模型。下には豚小屋、二階部分に厠があり、耕作時の肥料に使用していたようだ。かつては、同族家族で共同利用していたのだろうか。

また下写真右は、同じく呉の治世時代、墓所に埋葬された一品という。富裕な豪農か、商家の家の模型なのだろう。四つ角に組まれた楼閣が、城壁に対し45度、傾いて設置されていたのが特徴的だった。

旧漢口鎮 旧漢口鎮

また、日中戦争時代の1938年5月19日、中国空軍が武漢から、日本の九州へ向けて爆撃機を飛ばしたという資料の展示もあった。翌5月20日未明に長崎に到達したという。下地図。

旧漢口鎮

一方で、日中戦争時代、日本軍も武漢市へ激しい空爆を実施している。


それにしても、四川省に比べると、武漢市はなんと美人の少ない都市であることか。湖北省はもっと美人の宝庫かと思っていたが、その省都がこのあり様では、他の地区は押して測るまでもあるまい。


江漢区・江岸区・礄口区(旧漢口鎮)の歴史

明代前期、既に小さな集落が形成されていたという。
明代中期に入るころには、漢江(漢水)の流れが大きく変わり、それまでの 亀山 の南側の河口部から、直線的に亀山の北側を通って長江へ注ぐようになり、その河口部に位置した港町として発展していくこととなった。
明代を通じて、多くの住民が移住し水運拠点が設けられるようになり、1572年には最初の居民区(坊)が設置される。

旧漢口鎮

明代末期、長江沿いの堤防が拡張され、都市は北側へと拡大し、今の満春地区と民族地区、民権地区に相当する「花楼街」が誕生する。上地図。

清代末期、アヘン戦争や日清戦争を始め、列強との戦争に敗北した清朝は数々の不平等条約を締結させられ、ついに1898年、漢口の完全開港を迫られることとなる。下古絵図。

旧漢口鎮

それより早く、1861年、まずはイギリスが漢口に 0.305 k㎡の租借地を得る。 1898年には 0.53 k㎡へ拡大される。
漢口のイギリス租界地は、当時、英国が大陸中国に有した 上海天津鎮江九江広州アモイ と並ぶ 7拠点の一角を担うものであった。

一番最初に漢口地区における租界地を開設していたため、多くの多国籍企業が事務所を構えるようになり、漢口地区の金融・貿易業の中心エリアとなっていく。全多国籍企業の実に80%が英国租界地内に拠点を設けていたという。
日系企業では日清汽船株式会社、横浜正金銀行、台湾銀行が進出していた。
その他、現在でも世界にその名を轟かす香港上海銀行やCitibank、チャータード銀行(現スタンダードチャータード銀行)、ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)、スワイヤーグループ(Swire Group)の拠点もここにあった。


旧漢口鎮

英国が漢口に租界地を開設したのと同じ1861年、漢口地区を取り囲む城壁の建設が清朝により開始される。 城壁内に英国租界地をも囲み込む大規模なものであった。上絵図。 他方で、城壁の外側には天門墩、王家墩、姑嫂村、八古墩などの20以上の村落が形成されていった。

1905年、長江堤防の追加補修が加えられ、漢口地区は長江沿いにさらに北側へ拡大することとなる。 これに伴い、生成里、五常里(今の永康里)、同善里(今の積慶里)、福生里(今の前進二路の一帯)、六合里、衡栄里、紹興里、楚宝里、桃源坊、藕塘村、藕池巷など集落地が誕生していくこととなる。

旧漢口鎮



フランス租界地 >>>

1896年に締結された清朝との条約に基づき、漢口でのフランス租界地(約 0.125 k㎡)がスタートする。
1902年以降、ロシアと共同で租界地開発が進められ、同居状態となる(ロシア2/3、フランス1/3の割合)。当時、フランス・ロシアの租界地は、歓楽街の様相を呈し、ナイトクラブなどの娯楽エリアとなっていたという。また、外国人のための高級住宅街も建設されていった。
1943年2月23日、フランスのヴィシー政権が漢口租界地の放棄を宣言し、同年 6月5日に汪精衛政権が、天津広州 にあるフランス租界地を含めて接収する。


ロシア租界地 >>>

フランスと同じ、1896年に開発が始められ、0.278 k㎡の面積を有した。

ロシア革命により混乱するロシア政府に代わって、 1920年、中国政府が代理統治するようになり、最終的に1924年、正式に接収される。
当時、ロシアが大陸中国内に有していた租界地は 天津 とこの漢口のみであったが、全てを失うこととなった。

旧漢口鎮

ドイツ租界地 >>>

1895年の三国干渉により、日本の権益を遼東半島から放逐した見返りに、ドイツは初めて大陸中国に租界地を取得することとなる。
これが、同年10月3日に開設された漢口でのドイツ租界地(0.4 k㎡)である。

しかし、第一次世界大戦が勃発すると、1917年3月14日、中国政府はドイツと国交を断絶し、翌日に200名の軍事警察を派遣して、このドイツ租界地を接収してしまう。

さらに同年8月4日には、中国政府も対独宣戦布告し参戦すると、戦勝国として 1919年6月28日調印のベルサイユ条約に参加し、大陸中国におけるドイツの全租界地(1898年租借の 青島 と漢口の 2箇所)の完全返還が承認されることとなる。
漢口での列強租界地の中で、最初の返還事例となった。

1944年12月18日、アメリカ軍爆撃機が漢口の日本租界地を空爆した折、これに隣接した旧ドイツ租界地も破壊され尽すこととなる。


1912年、夏口庁が夏口県へ改編される。 下写真は、ちょうど1912年当時の英国租界地の様子。

旧漢口鎮 旧漢口鎮
旧漢口鎮 旧漢口鎮

最終的に1926年、国民政府により夏口県が廃止され、漢口市が誕生することとなる。

翌1927年1月1日、北伐から凱旋した国民政府が広州から 武昌城 に首都を正式移転すると、武漢市の街中では歓喜に沸く人々によって数多くの集会が開催される。

1月3日午後、漢口地区の江漢税関前で市民集会に参加していた人々に対し、英国水兵が発砲し、3人の重傷者を含む、数十名の負傷者を出す。
同日夜、李立三や劉少奇らをリーダーとする中華全国総工会と湖北省総工会が先頭に立って、武漢国民政府に対し、即時、イギリス租界地の接収を要求する。

1月5日午後、重い腰をなかなか上げない国民政府を横目に、李立三と劉少奇らは20~30万人の市民らとともに街頭デモを強行し、そのまま群衆はイギリス租界地へなだれ込むこととなる。

2月19日、事態の収拾を図るべく、国民政府と英国政府との間で、租界地返還の合意が成立する。
3月15日、英国人と資本の完全撤退が完了し、イギリス租界地区は消滅する。


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