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訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~


広東省揭陽市 恵来県 靖海鎮 / 資深鎮 / 渓東鎮 ~ 県内人口 115万人、一人当たり GDP 18,000 元


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  渓東砲台遺跡
  資深砲台遺跡とその絶対的孤立ぶり
  風力発電と漁村風景の絶妙な対称世界
  手つかずの貴重な残存ぶりを見せつける資深砲台遺跡の防塁壁
  資深砲台と靖海砲台 ~ 南砲台と北砲台ペア
  靖海砲台遺跡に行きたかったが、トーチカ跡へ
  靖海鎮が誇る風光明媚な岬、客鳥尾の奇石群
  靖海所城(靖海千戸所)と北門、その甕城
  靖海所城の東門と甕城
  北面城壁と角楼
  南面城壁の跡地
  石畳の路地と古民家が連なる古城エリア
  城隍廟と米街
  北門と西門へ続く城壁の残骸 ~ 草むらにその名残を見る
  西門の甕城の残骸 ~ いつまで持ちこたえられるやら
  【豆知識】靖海所城
  【豆知識】靖海鎮の歴史



【 渓東砲台 】

恵来県 の中心部の大動脈・南門大街沿いにある葵陽公園横で、靖海行の路線バスに乗り込む。
資深鎮まで 12元だった。約 1時間5分で到着した。

恵来県澳角鎮

途中、渓東鎮あたりで渓東港があり、河を渡る。ここにかかる橋は紅東橋というらしいが、この北側に小高い丘が二つあり(麓にはお墓がたくさんあった)、その西側の丘(大崎山)上に、かつて渓東砲台が設けられていたらしく、石積みの防塁壁跡のようなものが見えた。上地図。
ここへの訪問は、澳角鎮と同じ運賃 6元で、澳角鎮を過ぎて以降、定まったバス亭がないので自力で下車することになる。

恵来県澳角鎮

渓東砲台は清代の1717年に建造され、貝殻と粘土を混ぜ合わせた土壁と、花崗岩の石材を一部使用して防塁壁(高さ 5.6m、厚さ 0.5m)が構成されていた。南北 24.3m、東西 15m の楕円形をしていたという。防塁壁上には 1.5m 幅の通路があり、凹凸女壁と矢狭間が 10ヵ所、大砲 8門、兵舎 12間が装備されていた。
1752年秋、砲台要塞に立て籠もっていたリーダーの方万邦の率いる義勇軍と地元民らが、大軍勢の海賊集団の攻撃を受け、この地で全滅している。砲台遺跡の脇に、方万邦の墓が残されているという。

恵来県澳角鎮

上の古地図は、恵来県城 下に配備されていた砲台群を示す。海岸沿いには、神泉鎮城、神泉砲台、澳角砲台、渓東砲台、南山塞砲台、資深砲台、靖海所城、靖海砲台が並ぶのが見える。


【 資深砲台 】

さてさて、ローカルバスで恵来県の中心部(恵城鎮)から資深鎮に到着すると(12元、1時間強)、ここからバイクタクシーで片道7元で、資深砲台まで行ってもらった(10分弱)。
本当に漁村の岬の先っぽに、その砲台はあった。下写真の中央奥にある風車の下。

恵来県靖海鎮

停泊中の漁船であるが、竹と板で見事に組み上げられていた!!

恵来県靖海鎮

砲台が位置する、その絶海の孤島ぶりには最初、度肝を抜かされた。300度すべてが海に囲まれ、集落地からも離れた岬の先端部分の、絶壁上に悠然と存在していた。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

周囲には誰もいないので、自由に 防塁壁 を登ったり、中に入ることができる。
下写真は、防護壁の土壁の断面図。下から平行に積み上げられて、粘土が固められている工法のようだった。

恵来県靖海鎮

また、この海岸線沿いには大量の風車が設置されており、風力発電エリアになっているらしかった。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

漁港 から砲台に至る湾内にあった古い漁村の風景は、実にすばらしかった。上写真。
浜辺の岩場上に建設された民家群は非常に見応えがある。高波や台風のときは、波が自宅内まで入り込んくるはずだろうが。。。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

さてさて、視点を砲台に戻すと、一部の防護壁上には、凹凸女壁も残っており、往時の形状が偲ばれる(上写真)。上写真右には、共産党時代に増築されたトーチカ跡が見える。

この資深砲台であるが、元々の名称は石碑澳砲台といい、清代の1717年に建造されたものという。当時、大砲 6門、兵舎 18間が設置され、司令官 1人と砲兵 18名が常駐した。東西 22m、南北 15mの長方形で、防塁壁はほとんどが土製で構成されており、上部にレンガや石材が一部、使用されていた。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮
恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

現在、砲台要塞内には、共産党時代の軍事駐留設備の残骸が残されている。
上写真は、かつての兵舎跡らしいコンクリート製の建物壁と柱。

恵来県靖海鎮

さてさて、20分ぐらい興奮して撮影していたが、とりあえず、靖海鎮までの道を急ぐことにした。
さっき送ってくれたバイクタクシーが迎えに来たので、これで靖海砲台まで行くことにした(15元)。だいたい 7~8 分ほどのドライブで靖海鎮に到着する。

ちょうど、上写真の海岸部に見える巨大発電所がある地点が、靖海砲台(北砲台)である。

恵来県澳角鎮

なお、現地で知ったことだが、この資深砲台と靖海砲台は一対を成しており、設置当時、それぞれ南砲台、北砲台と通称されていたという(距離は 5km)。上地図。


【 靖海砲台 】

靖海砲台であるが、もともとの遺構は発電所建設にあわせて破壊されてしまったようで、現在は復元された砲台が見られるのみである。明代初期に石積み防塁壁として建造され(東西 29.3m、南北 21.8m、総面積 638 m2 の大型砲台基地)、大砲 8門と兵舎 18軒が設置されて、指揮官 1名と砲兵 47名が常駐したとされる。

恵来県澳角鎮

本当は直接、砲台跡へ行きたかったのだが(下写真左。発電所建設で破壊された後、付近に復元された直後の様子)、見せたいものがあるというので、バイクタクシーに乗り続けていると、工業大道沿いにあるトーチカ跡の近くまで寄ってくれた(下写真右)。
この沿岸エリアは、今でも一部が軍事用地となっており、かつては全面がその敷地であったようで、このトーチカ跡もその当時の残骸のようだった。現在、かなり草むらに埋もれた放置状態で、近づくことができなかった。下写真右。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

さらに、この海岸線上に 客鳥尾 という風光明媚な海岸線があるというので、ついでに連れて行ってくれた。長い時間かけて、彫刻されたような石が海岸線上に無数に並び立つ様が有名という。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

博物館で見ていた写真とは大いに違ったが(上写真左)、確かにたくさんの石が重なり合う、荒波が打ち付ける岬だった(上写真右)。

恵来県澳角鎮

それにしても、この岬は一部が軍事用地になっており、所々に立ち入り禁止の看板が立つ草むらの先に位置し、あえて連れてきてもらえないと、自力では絶対に見学不可能な場所だった。
上地図内の旧暦山には、軍事レーダー施設と思わしきものもあった(下写真の円形ドーム)。

恵来県靖海鎮

この見渡す限り 300度すべてが海という圧倒的な景観と、ほぼ手つかずの自然な海岸線が、数百年前の風景を自ずと妄想させてくれる。

岬の駐車場に、1969年7月28日と1993年9月14日に襲来したという巨大台風の解説板が設置されていた。バイクタクシーの運転手も、少年時代にこの台風に出くわしたと話していた。
この運転手は好奇心旺盛な初老の男性で、家族のことや日中両国のバイクメーカーのこと、現地ネタなど、いろんな話をしてくれた。この靖海に訪問する中国人の観光客は必ずここにも連れてくる、というので、私にも案内してくれたとのこと。


【 靖海所城(靖海千戸所) 】

最後の目的地である、靖海古城の北門に到着したので、バイクタクシーの運転手とは、ここでお別れしようと思ったが、本人が待っているというので、「私の見学時間は30分はかかるよ」と伝えて、再び、この北門で落ち合うことにした。

恵来県澳角鎮

下写真は、北門の甕城。上の凹凸女壁と共に、城門脇にも矢座間が設けられていたらしい。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

この靖海古城は相当に見応えのある古城であり、結局、30分では到底、見終われない代物だった。
下写真左は、北門を甕城内からの撮影したもの。下写真右は、東門。城内より撮影した。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

古城 には、もともと東西南北の4城門が設けられていたが、現存するものは北門と東門だけという。
その城門上には木造の楼閣が設けられており(下写真左)、現在、内部には各城門を守る神様が祀られていた(下写真右)。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

下写真は、東門とその甕城。 東門前は広場となっており、かつて軍事教練場だったという。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

下写真左は、東側の城壁とその先に見える東門の甕城を撮影したもの。
下写真右は北側の城壁を内側から見たもの。北側の城壁外面のみ急斜面に再整備されていたが、その内面の馬道(城壁上の通路スペース)用の石垣や東面の城壁(下写真左)はやや崩落しかけており、デコボコや湾曲が激しかった。時の経過を感じ入るに十分な刺激を提供してくれていた。
この先は、北東の隅にあたり、城壁上の石積み角楼が設置されていた。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

下写真左は、現存する 角楼。屋根の部分はなくなり、矢狭間を有する土壁のみが残っていた。
下写真右は、角楼から見た北面の城壁と城内。民家群と城壁との間には、広めの路地が設けられていたことが分かる。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

城壁沿いには、時折、城壁と一体化した小屋が埋まっていた(下写真)。近代以降に不法建築物が設けられた跡だろうか。史跡指定後も撤去が困難で、このまま放任されたものと思われる。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

城壁は北門から東門、さらにその南東部まで完全な形で現存するも、 南面の城壁 は途中から撤去されてしまっていた(下写真左)。
城壁を構成していた石材は、住民らに持ち去られ、今でも民家建設等に有効活用されている様子だった(下写真右)。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

そして、そのまま南側の城壁跡を追っていこうとするも、途中から新しい民家群と融合してしまって、どこまでが南面で、どこからが西面の城壁なのか分からないぐらい、路地も民家も入り組んでしまっていた(下写真左)。
下写真右は、北門から古城内を見下ろしたもの。南北のメインストリート「北大街」を挟んで、対象的に旧家屋と新家屋が立ち並ぶ様が伝わってくる。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

古城エリア の東半分一帯には、石畳の路地や家屋がそのまま残っており、古城時代の面影を今に伝える貴重な場所となっている。古民家では今でも人が生活している住宅もあれば(下写真左)、廃屋となってしまった建物もたくさん見られた。特に、南東部分の荒廃ぶりはひどかった(下写真右)。人が住まなくなる → 物騒になる → ますます人が住まなくなる、という負の連鎖反応に陥っている様子だった。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

しかし、こうして人々が離れ、近代以降の住宅開発のあおりを食らわなかったが故に、古城の北面と東面の城壁や城門、古民家群が取り残され、今日でも我々の眼前に当時の完璧な姿を見せてくれることができた、というわけである。

恵来県澳角鎮

古城内の路地をさまよっていると、急に広場が現れたので近づいてみると、城隍廟 があった(下写真左)。
その横には靖海中心小学校があった。古城の守り神の横に、地元の子供たちが通う小学校が設けられている構図は、意味深げでなかなかうっとりする。
ここの路地名は米街と記されており(下写真右)、かつて食糧市場が開かれていたのか、役所や兵士らの食糧庫があった場所なのだろうか。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

そのまま米街をまっすぐ西へ進むと、古城エリアの中心部にたどりつく。ここは、北大町と西仁街という、古城エリアのメインストリートの交差点となっていた(下写真左)。

ここから、バイクタクシーが待つ北門へ向けて、北大街を北上した。下写真右は、北門の楼閣を上って、北側の城壁と馬道(城壁上の通路スペース)を撮影したもの。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

北門へ戻るも(下写真左。北門を城内から撮影したもの)、まだ西半分を見終えていないので、もう少し散策する旨を運転手に告げる。

とりあえず、北面城壁の西側を撮影してみた(下写真右)。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

最後の方は草むらになっているだけで、ここが城壁跡だとは分かるが、西側の境界線がどうしても特定できず、やや消化不良が残った(下写真左)。

草むらと化した城壁跡には、よく見ると、所々に城壁片の石組みが残り(下写真右)、下には石材がごろごろと散らばっていた。付近の農家や畑などの部材に転用されるため、はがされていったのだろうと容易に推察できた。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

そのまま南下して北門まで戻り、ようやくバイクタクシーの運転手と合流した。実に50分近くも待たせてしまい、申し訳ない。。。
今からバスで恵来県へ戻るつもり、と伝えると、バイク運転手は、気をきかせてわざわざ遠回りし、北門から東門、南門へと外周をバイクで一周してくれた。

途中、自力では発見できなかった南門の跡地と思われる、南門口という交差点を教えてくれた。

また、西門 の位置も分かりにくかったと伝えると、西門はつぶれかけているが、まだ存在していると言うので、バイクで路地へ入り込んでくれた。
その西門跡であるが、なんと甕城の外面のみがギリギリ残存している状態だった(下写真)。
これも、時とともに崩落し、そのまま撤去されるのも時間の問題の気がした。というより、道路幅を狭める要員にしかなっておらず、地元民からいつ撤去の声が上がっても仕方ないほど、道路交通を邪魔する物体と化していた。。。

恵来県靖海鎮 恵来県靖海鎮

1時間を超える見学に付き合ってもらった後、恵来鎮へのバス乗り場の交差点まで送ってくれるだけでなく、一緒にバス到着まで待っていてくれた。

本当に申し訳ないので、途中から値段を聞かずに、最終的にまとめて 165元分を手渡してきた。日本に対して何らの偏見もなく接してくれたこの初老への日本広告費と思って、多めに手渡した次第である。

その雑談の途上、自分はバイク運転歴20年目だが、日本製のバイクは長期間の走行にもよく耐える品質を有し、本当に良いと言っていた。
昔、中国にバイク製造の技術力がなかったころ、日本のバイクは輸入車ばかりで本当に値段が高かったと。今は、自分のバイクは1000元ぐらいの中国産とのこと。 2年前に販売されたばかりの頃は、3000元したそうだ。

この日、昼食を食べていなかったので、かなりぐったりして、バスに乗り込んだ。来たルートとは逆回りで、 50分ほどで恵来県総合バスターミナルに到着できた。


清末時点での城壁の全長は 2000m ほどあったといい、現在では、西門から北門、東門へと至る約 1300m 分の城壁のみが残存しており、東門と北門には瓮城が完全な形で残り、広東省東部地区では非常に貴重な城郭遺跡となっている。現在の形状が確立されたのは、明代後期の1549年に大規模な拡張工事が施された際という。

東西南北の 4ヵ所に城門が設置されており、それぞれの城門に連なる街道が城内中央で十字に交わっていた。また、城門上にはすべて瓮城と城門楼閣が設けられていたという。
これら 4城門の上には、それぞれ石碑に文言が刻み込まれており、東門上には表海勝概、西門上には靖海安瀾、南門上には化洽趨虞、北門上には莱鑰永固と記されていたという。
南城門と周辺の城壁は、1952年に狮石湖ダムを建設する際、部材として転用されてしまい、撤去されたという。

城壁の外枠は完全なる石積みであったが、内部は粘土で構成されていた。
また、高さ 4~5mの城壁上には凹凸女壁と矢狭間が装備され、上には馬が乗り入れられるような道幅(馬道)が 4m分、設けられていた。

恵来県澳角鎮


 【 靖海鎮の歴史 】

靖海鎮が属する恵来県エリア一帯は、古代より揭陽県の管轄下にあり、東晋朝の331年に揭陽県が廃止され、管轄域が 4分割されると、新設された海寧県に帰属した(東官郡に帰属)。
413年に東官郡から義安郡(後の潮州の管轄域に相当)が分離・新設されると、海寧県はこれに帰属した。

なお、この靖海鎮エリアで人々が生活を始めたのは、唐代、宋代の頃と考えられているが、史書に正式にその記述が載るのは、元朝末期(明代初期)の 1369年のことで、大坭都などの十八郷の村民らが海賊らの襲撃から逃れるべく、この地に共同集落を形成させたというニュースが最初という。このとき、最初の靖海所の築城工事で、百戸司令官の董聚が陣頭指揮を取ったとされる。
また同時期、小坭都などの十八郷と石碑郷の一部の村民らも、資深鎮の集落地の形成を開始している。

この1369年には潮州路が 潮州府 へ改編され、一帯の海岸線の防衛ライン整備が開始された年でもあった。同年、程郷千戸守御所が早くも新設されている。
1382年には、蓬州、海門、靖海、大城の4ヵ所の千戸守御所が設置され、1394年までに合計 10ヵ所が整備され、同年、潮州府内に潮州衛指揮司が新設されると、この統括下に組み込まれる。いずれも、守備兵力は旗軍一隊分の 1,121名が配備されていた。

明代の1500年ごろより、一帯の海域で海賊の襲撃が激化するようになり、地方経済や社会秩序は大いに乱れる。

1512年から 恵来県 の新設が度々、建議されるようになり、ついに1525年に正式に批准される。
潮陽県下の大坭都、酉頭都、恵来都の三都、および、隆井都の半分が分離され、また同時に、海豊県 下の龍溪都が分離されて、これらの4都半が合併し、恵来県が新設されたのだった。当時の戸籍人口は、総勢 20,258人で、その内の 5分の1 に軍責が課された。

1548年、明朝廷内で靖海所城の城壁増強工事が了承され、13年の年月をかけて現在の規模にまで拡張されたという。その形状から、象の城とも別称された。
城内には、所庁、守備署、靖海倉、靖海舗等などの役所機関が設置されており、また、城隍廟、関帝廟、天妃廟、龍王廟、観音堂なども完備されていた。

1553年に正式に 恵来県 の管轄域に組み込まれ、靖海所はもともとの大坭都と酉頭都の一部分のみをそのまま統括することとされた。
また、ほぼ同時期、靖海湾エリアの海防ラインが強化され、靖海砲台、資深砲台、狼煙台などが付近に設置されていったという。

清代中期以降、海禁政策が解除されると、軍事的なニーズは減退し、沿岸の商業や漁業活動の管理役所へと変貌してしまうも、引き続き、正規軍が163名、民間徴用兵 509名が常備され、海防ネットワークの一角を担い続けた。

なお、「靖海」の名称は、戦乱の時代にあって平和への希求が込められて命名されたと考えられている。
清代の1699年と、中華民国時代の1927年に城壁の修繕工事が施されている。



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