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訪問日:2018年1月中旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



香港 九龍区 尖沙咀 ~ 人口 202万人(九龍区)、 一人当たり GDP 48,000 USD(香港全体)


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  香港旅行の訪問必須エリア「尖沙咀(嘴)」地名の由来 ~ 尖ったクチバシ
  「尖ったクチバシ」時代の尖沙咀湾と尖沙咀村、黑頭角、九龍角
  【豆知識】尖沙咀の歴史 ~ 広東省沿岸の水運交易集落から植民地政府の海軍基地へ ■■■
  九龍公園内に残る西九龍砲台遺跡(英軍)
  尖沙咀エリアで最高峰の山であった官涌山の今
  尖沙咀砲台と香港警隊水警総部(水上警察本部)の庁舎跡地
  【豆知識】尖沙咀砲台 ■■■
  今は無き官涌村の記憶
  天后廟とテンプルストリート(廟街)
  【豆知識】官涌山の掘削と海岸埋め立て、油麻地の誕生 ■■■
  官涌砲台跡地のかすかな名残り ~ 砲台街と官涌街
  【豆知識】官涌の戦い ■■■
  界限街(Boundary Street)

  九龍城塞 と 九龍砲台
  官富場(塩田監督署)
  宋王台



香港への訪問者が必ず立ち寄るエリアの一つに、尖沙咀(Tsim Sha Tsui)がある。

かつては、官涌山(現在の九龍公園一帯)という小高い丘陵地帯が九龍半島南端の背骨を形成しており、その先端部はビクトリアハーバーに向かってとんがった急斜面の岸壁(洋館型ショッポングモール 1881 Heritageの辺り)が突き出る形であった(下地図の九龍角)。
この東隣には、もっこりと盛り上がった岬の黑頭角(現在の尖沙咀郵便局の辺り)があり、上空から見ると、まさに「先端鋭い鳥のクチバシ(嘴)」に見える形状をしていたのだった。下地図。

九龍区


 九龍公園と尖沙咀村

今日の尖沙咀地区の雑然としたコンクリート・ジャングルにあって、一転、人々の心に安らぎを与えてくれる森林公園、それが九龍公園である。ちょうど、ニューヨーク・マンハッタン島のセントラルパーク的存在と言える。
この公園はかつて、九龍角と呼ばれた丘陵エリアの一部に相当する(上地図)。この丘陵地帯はもともと、現在の洋館型ショッポングモール 1881 Heritage という旧香港警隊水警総部(水上警察本部)庁舎建物まで続いており、ここから急な段差で海岸線に降る地形であった(海岸ギリギリまで標高 10m程度の高台が続いていたことを意味する)。

九龍区

上の古写真は清末、この九龍角上から東方一帯を眺めたもの。ちょうど尖沙咀湾と尖沙咀村、黑頭角(現在の尖沙咀郵便局のあたり)、さらに後方の湾を隔てて紅磡エリアの大環山、さらに海峡の向こうにうっすらと観塘、藍田エリアの山々が見える。

現在の尖沙咀地区は大部分が埋め立て地で、上写真の海岸線は現在の K11ビルあたりに相当する。つまり、それより南側のネーザン通り(Nathan Road)一帯はすべて海だったということになる。

この尖沙咀湾は、かつて九龍角(官涌山の南端)と黑頭角という並行する二つの丘陵部分に囲まれる形で立地し、小さな湾を成していた。
この湾に面して形成された尖沙咀村は、だいたい現在のミラホテルあたりから北側に広がっていた。現在、尖沙咀地区のバー街となっているナッツフォード・テラス(Knutsford Terrace)一帯は、まさにかつて漁民や水運従事者らが集った飲み屋街に由来を発すると考えられる。

この尖沙咀村の酒場で起こった英国水兵による地元民の殴打殺人事件が、アヘン戦争の遠因になったと指摘されてもいる。


尖沙咀(もしくは、尖沙嘴とも記される)エリアは、古くは、尖沙頭や香埗頭とも呼称され、香港東莞深圳市 エリアの海洋交通の中継ポイントとして早くから集落が形成されてきた。当時、この広東省南部の海域エリアには香木がたくさん自生しており、採取した汁で香料が精製されていた(莞香)。これらの製品が海上交通により、尖沙咀の港町に集積され、大陸中国の各市場へ出荷されていたのだった。

明代末期に著された『粤大記』の地図によると、尖沙咀の集落地はすでに記録があるという。
清代中期の1819年に発行された『新安県志』にも、尖沙頭村の名が記されている。

広州港は清朝の海上交易都市の中心地となっており、19世紀はじめ、大量の外国商船や貨物船(その中にはアヘン船も多く含まれていた)が、尖沙咀や対岸の香港島周辺の海域に停泊していたという。

こうした関係から、九龍半島沿いの集落地には、外国商人や軍人らが日常的に上陸していたようで、必然的に地元民との衝突事件が発生することとなった。
その最も代表的なものが、1839年7月7日、英国水兵が尖沙咀村の酒場で起こした殺害事件で、酔った水兵 6名がいざこざを起こし、村民の林維喜を殴り殺してしまったのだった(林維喜事件)。これがアヘン戦争の遠因の一つになったと指摘されている。清英対立は後戻りできない段階にまで歩みを進めてしまったのだった。

第一次アへン戦争、第二次アヘン戦争を経て、1860年締結の北京条約により、界限街(Boundary Street) から南側の九龍半島が英国へ割譲されると、尖沙咀村もこれに含められて、英国領となる。

英国植民地政府は、早速、尖沙咀湾の埋め立て工事を進めるとともに、水上警察庁舎などを建設し、また、尖沙咀の西部の海岸エリア(黑頭角=現在の尖沙咀郵便局のあたり=の岸壁部分)を港湾用地として整備し海軍施設を開設する。下地図内で「大包米」と記された地点で Old Fort の文字が見える。

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下写真は、シェラトラホテル内から見た、旧黑頭角(今の訊号山花園。訊号山とは灯台の意)。正面の青色ビル「Mariners' Club」が見えるが、これは当時、この丘陵一帯が英国海軍基地であった名残である。

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また、清末から中華民国時代にかけて、英国植民地政府により尖沙咀湾の埋め立て工事が進められ、現在のペニンシュラホテルや重慶マンションあたりの土地が造成されていったのはつい100年ほど前のことであった。

1888年にスターフェリーが就航すると、尖沙咀地区はますます発展を遂げ、外国人らの新興住宅地区として開発が進められることとなる。



 西九龍砲台遺跡(英軍)と尖沙咀砲台(清軍)

上の古地図で、左側に「官涌」の文字が見える。ここが現在の九龍公園に相当する。 この九龍公園の南北に細長い丘陵エリアが続いており、その頂上部分を官涌山、 南端の岬部分を九龍角と呼称されていた。九龍角の先端部は、 現在のワン・ペキンビルの南側にある洋館型ショッポングモール 1881 Heritage あたりに位置した。

古地図内で、この官涌山の頂上あたりにも Old Fortの文字が見える。ここには もともと清朝の簡易な駐留要塞が設置されていたが、それを英国植民地政府が 西九龍砲台陣地へ改修したものである(1878年説、1880年説あり)。この砲台基地が九龍公園内に現存する(下写真)。

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官涌山頂部の斜面を掘削して陣地が構築され、その深堀りした窪地に弾薬庫、兵舎などが横穴式に建設されていた様子が伝わってくる(上写真左)。1917年に砲台機能は 停止されたが、1976年まで軍用倉庫として継続利用されていた。

現在、3門の高角砲(Mark Ⅲ 5インチ砲)が保存されている。いずれも九龍公園から西側へ砲身を向けていた。 下写真。

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この英軍砲台陣地エリア「歴奇楽園」は、入場制限が設けられており、24時間 365日無料開放の 九龍公園内にあって、朝 6:30~ 夜 21:00までしか開いていない(下写真左)。

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この歴奇楽園の南側には(上写真右)、展望テラス が整備されている(下写真左)。
下写真右は、展望テラスから見下ろしたもの。

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下写真はこの展望テラスから、この九龍角の最南端、ビクトリアハーバー側を臨んだもの。かなりの標高差があったことが分かる(標高 30mの官涌山の頂上部)。

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この官涌山の頂上「展望テラス」は、ちょうどフラミンゴ水園の北側に位置する。下写真。

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英国が占領する前、清朝はこの 官涌山 の山頂や尾根沿いに複数の陣地群を設置しており、 その代表的なものが官涌砲台と尖沙咀砲台であった。

尖沙咀砲台は九龍角の岬の岸壁部分に建造されており、ちょうど現在の洋館型ショッポングモール 1881 Heritage あたりに位置した(下絵図)。

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下写真は、現在の梳士巴利道(Salisbury Road)とネーザン通り(Nathan Road)との交差点。右手にはペニンシュラホテル、YMCAホテルと続き、その横の小さい灯台を有する建物が、かつての香港警隊水警総部(水上警察本部)の庁舎跡地。

この場所にあった尖沙咀砲台基地が破却され、その跡地に 1881年から 建設工事が着手され、1884年に洋館が完成後、1996年までの100年以上に渡って水上警察の本部が入居していた。

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1839年7月に 尖沙咀村 で起こった英国水兵による林維喜事件以降、イギリスと清国との間はぎくしゃくしており、同年9月に九龍の戦いが、そして、11月には官涌の戦いが勃発することとなった。

1839年年11月3日~13日、英国海軍の商船武装船団が官涌村と官涌山上の清軍拠点(狼煙台程度の簡易なものだった)への攻撃を展開するも、清軍は 6度にわたる英軍の上陸作戦を撃退し、撤兵に追い込むことに成功する。
海上から迫りくる英国の上陸軍を、やや高台に位置する官涌山から監視し、効果的に防衛作戦を進めることができたとされる。

清英関係決裂が決定的となる中、次なる英軍の再襲来にそなえ、 1839年早々に広州入りしていた欽差大臣の林則徐は、早速、両広総督の鄭廷楨、水軍提督の関天培らと協議し、 海岸線の防衛力強化を図ることを決議する。こうして、翌 1840年についに官涌山の岩場エリアと 尖沙咀の岸壁上に砲台基地が建造されたのだった。
この官涌砲台と尖沙咀砲台には、両者あわせて計 56門の大砲が配備され、それぞれの陣地内には官舎、 兵舎、廟所、火薬庫などの諸施設が設置されていた。合計で 75名の守備兵が駐屯したという。

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しかし、大変残念なことに、第一次アヘン戦争が勃発した際、清朝廷はこの二つの砲台陣地があまりに遠方で、虎門防衛ラインから孤立し過ぎていたため、防衛作戦に不適合と判断し、守備兵らを全員、撤収してしまうこととなる。

英軍は1841年に香港島に上陸し無血占領した後、同時に九龍半島にも上陸し、戦わずしてこの二つの砲台基地を接収している(3月)。
英軍は、これらの砲台基地がビクトリア海峡の 実効支配上、脅威になりかねないと判断し、早々に撤去工事を進める(5月)。砲台基地のレンガや石材などの 資材は香港島側へ移送され、島内の建築用材へ転用されていったという。

第二次アヘン戦争を経て、1860年に英国が九龍半島を割譲すると、 いよいよ尖沙咀エリアの開発が着手されることとなる。尖沙咀湾の埋め立て、黑頭角の海軍基地建造に 続き、1881年、尖沙咀砲台の跡地に水上警察本部の庁舎が建設されるに至る。こうして尖沙咀砲台の遺構は徹底的に除去され、今日、一切の痕跡すら残されていない。



 官涌山と官涌村

なお、尖沙咀をさらに北へ移動すると、佐敦(ジョーダン)、油麻地、旺角という、ローカル地区が続く。
油麻地という地名は、英国植民地時代に誕生する。 当時、この地域は漁船や商船などへの給油用の油を扱った商家が軒を連ねたことに由来しているという。
下古写真は、すでに官涌山が掘削され、海岸線の埋めてたが進んで、船舶の停泊地が 形成され、「油麻地」集落が誕生した当時のもの。

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この海岸線の埋め立てが実施されていなかった植民地初期の頃、現在の地下鉄・佐敦(ジョーダン)駅、油麻地駅の一帯は、尖沙咀地区から続く官涌山の丘陵斜面が続いていた。

官涌山は南へ向かって徐々に高さが増す傾斜地形となっており、先の九龍公園内の展望テラス部分が頂上となっていた(標高約 30m)。
この官涌山が北へ続く中で低地となっていた谷間(今の油麻地の天后廟あたり)に官涌村が形成されていたという。現在の廟街の北半分ぐらいのエリアと推察される(下写真)。
1819年編の『新安県志』には「官涌泛」と記され、すでに清軍の小規模部隊も駐屯していたという。
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この集落地には小川(京士柏流)が流れており、ちょうど今の甘粛街をつたって海へと注いでいたという(下写真左)。
その水源は、現在の加士居道と佐敦道の交差点付近あたり(下写真右)にあった湧き水で、これが流れ出る小川が官涌山の谷間を通過しており、 ここに官涌村(官涌泛)が形成されていたのだった。

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なお、九龍公園と油麻地にある 天后廟(下写真左)、そして、ネーザン通り向かいにあるエリザベス女王病院がある台地エリア(下写真右)には、かつての 丘陵斜面の名残が残されている。

今日、官涌山の丘陵地帯は掘削され平地化されており、現在のテンプル・ストリート(廟街。俗称「男人街」)を中心に平地が続くようになっているが、本当はなだらかな登り斜面となっていたのだった。

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この官涌村(官涌泛)の地に清兵が駐屯したことからも明らかだが、当時、尖沙咀村よりも官涌村の方が発展しており、アヘン戦争前夜、イギリスはこの官涌村地区の占領を企図して、官涌山上の清軍陣地に攻撃を加えていたのだった。



 官涌山の掘削と海岸埋め立て、油麻地の誕生

九龍半島がすでに英国領となっていた1906年、香港全域で 台風による大規模被害が発生する。1909年、英国植民地政府はこの事態を受け、特に高波の被害が 大きかった官涌村(油麻地エリア)や尖沙咀村の海岸線沿いに 防波堤の建設を決定する。こうして、官涌山(現在の九龍公園から官涌街のあたり)を掘削して、 その土砂で、旺角から油麻地の一帯の遠浅の海を埋め立てる工事を進める。 この過程で官涌砲台陣地の資材は防波堤に転用されることとなった。この時に 新海岸線となったエリアが、今に残る「渡船街」という(1915年完成)。

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こうして跡形もなく消失した官涌砲台遺跡であるが、現在、砲台街、官涌街、官涌街市などの路地名にその存在痕跡をとどめるのみとなっている(下地図)。

1979年に地下鉄・観塘線が開通すると、旺角と尖沙咀との間に、地下鉄駅が設置される。ちょうど、佐敦道(Jordan Road。下地図)の下に建設されることとなり、佐敦駅と命名される。なお、「佐敦道(Jordan Road)」は、20世紀初頭に香港政府によるネズミ伝染病の撲滅政策に尽力した英国人医師を顕彰して命名されていた。

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こうして、官涌の地名は、駅名としても残すことがかなわず、多くの人々の記憶から消えていくこととなる。もはや、香港に住む人々でも、かつて官涌山が存在した事実すら知られず、また興味も持ちあわせていない層が圧倒的多数となってしまった。

尖沙咀地区をタクシーなどで移動される際、 BPインターナショナルホテルが位置する柯士甸道(Austin Road。上地図①)は、当エリアにあって珍しく非常に高低差の激しい道路となっているが、その理由が当時の地形に由来するというネタは、いつかどこかで役に立つかもしれない。



 官涌砲台の跡地

油麻地の海岸埋め立て工事にともない、官涌砲台陣地や官涌山の丘陵斜面は掘削され、すべてが平地化されており、今日現在、その遺構や原風景はまったく視認できない。

しかし、路地名や地区名にはしっかり、その記憶が刻み込まれていた。官涌体育館、官涌市政ビル、砲台街、官涌街、官涌市場など(上地図参照)。

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上写真左は砲台街が始まる玉器市場。甘粛街との交差点にある。
上写真右は、砲台街の全景。ここは古紙再生業者が集積するエリアになっていた。所々に、宝石店なども出店していた(下写真左)。玉器市場で成功した商人らが露天マーケットから脱皮して自身の店舗を構えたのだろうか。

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ちょうど砲台街の南端が佐敦道(Jordan Road)との突当りになる(上写真左)。写真奥に見えるカラフルな建物が 官涌市政ビル(中に官涌体育館や官涌市場が入居する)。
その手前に官涌街と九龍佐治五世紀念公園(King George V Memorial Park。上写真右)がある。

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九龍佐治五世紀念公園は南へ進むにつれ横幅が狭くなっていく逆三角形型の公園だった(上写真左)。最後は、官涌市政ビル(カラフルな建物)と広東道との間で消滅する(上写真右)。



 官涌の戦い

1839年11月、清朝と英国との間で2度目の武力衝突事件が発生する。 9月の九龍の戦いに続き、まさに、第一次アヘン戦争の前哨戦を構成するものだった。

1839年11月3日~13日(旧暦1839年9月29日~10月8日)、 広州領事 兼 英国海軍大佐であったチャールズ・エリオット率いるイギリスの商船艦隊が 九龍半島(尖沙咀にあった官涌山上の清軍陣地)へ海と陸から攻撃をしかけたもので、 10日のうちに上陸作成が6度、展開されるも、大鵬所城から 派遣されていた副将・陳連升(1775~1841年。下写真) の率いる守備隊が官涌山の陣地と官涌村を守り切ることに成功する。

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当時、官涌の清軍陣地は、丘陵斜面の頂上(今の九龍公園)にあって平地や海を見下ろす位置にあり、英国船の作戦展開を俯瞰できる地の利を有していた。その高度差から、イギリス側の商船艦隊の大砲も効果を発揮することかなわず、英軍の上陸作戦はことごとく失敗に追い込まれたのだった。

戦後、同年のうちに、欽差大臣の林則徐と両広総督の鄧廷楨、水師提督の関天培が討議し、英軍の再侵攻に備えるべく、虎門防衛ラインの一角を成す九龍半島にも防衛拠点の増築が決定される。

余保純、賴恩爵、梁星源らが現地を視察し、尖沙嘴の山麓部分(九龍角の南端)、および官涌山の頂上部(今の九龍公園)にそれぞれ砲台基地が一つずつ新設され、合計で大砲 56門が配備されたという。

結局、この九龍半島の砲台陣地と守備兵らは、 第一次アヘン戦争直前になって、九龍半島が虎門防衛ラインからあまりに遠方で孤立 してしまう危険性があったため、撤退と陣地放棄を命じられる。こうして 1841年3月に香港島に上陸した英軍が、対岸の尖沙咀エリアの両砲台陣地を無血占領してしまうのだった。

なお、先の官涌の戦いで戦功を挙げた陳連升は、虎門砲台 陣地群の第一防衛ラインの主力を担う 沙角砲台 の指令官に抜擢されるも、1941年1月7日に英軍の攻撃を受け戦死に追い込まれることとなる(上写真の 陳連升の立像は、沙角砲台遺跡に設置されている)。



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