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訪問日:2015年 5月中旬 『大陸西遊記』~


甘粛省天水市秦安県隴城鎮 ~ 人口 3.2万人、 一人当たり GDP 14,500 元(市全体)


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  諸葛孔明の北伐戦「必勝プラン」
  諸葛孔明の魏軍迎撃戦、3つのシナリオ
  馬謖が街亭で交戦中、孔明はどこで何をしていた?
  出陣先の風土環境に無知だった 馬謖の誤算 ・・・・
  略陽県城(街泉県城)と街亭の古戦場 記念公園
  隴城鎮城
  女娲祠
  すべてがイスラム教一色となる、張家川回族自治区エリア
  天水市秦安県隴城鎮の歴史



【 孔明の長年のプランをかけた第一次北伐戦 】

228年春、満を持して、諸葛亮孔明は第一次北伐を決行する。趙雲旗下の蜀軍先鋒隊を 秦嶺山脈 内の箕谷に進駐させ、斜谷道から中原攻撃の姿勢を見せると、魏第二代皇帝の曹叡は、皇族の曹真を総大将とする迎撃軍を派遣する。

孔明は、曹真らの魏主力軍を斜谷道(今の 陝西省宝鶏市眉県 の南西部)に集中させる陽動作戦の成功を確認し、自ら蜀の本隊を率いて祁山へ出撃する。下地図。

隴城鎮

孔明出撃の報を受け、雍州西部の天水郡、南安郡、安定郡下の多くの諸県は、戦うことなく蜀軍に帰順していく。この幸先よいシナリオはすでに大前提で、孔明の全作戦行程は、  

      第一段階 ▶
      この3郡の完全制圧と同時に、周辺の諸県や諸郡らの平定、
      そして、魏からの援軍部隊を迎撃する。

      第二段階 ▶
      魏の援軍を敗走させ、魏朝廷との交信ルートを断ち切った上で(下地図)、
      雍州、秦州、涼州エリアの旧馬超勢力らに檄を飛ばして、蜀軍へ合流させる。

      第三段階 ▶
      涼州と蜀の連合軍で、関中盆地へなだれ込み、長安城を陥れる。

      第四段階 ▶
      函谷関もしくは 潼関の要害ポイントで、魏軍の反撃を抑え込む、

      というシナリオを組んでいた。


隴城鎮

この大前提として、第一段階 で魏の援軍がどのルートを使って、蜀の制圧した三郡へ侵攻してくるか、ということがポイントであった。

考えられるルートは、下地図の通り、3つあった。

   ① 旧シルクロードと千河(旧名は汧河)を使った 裏ルート ▼

   ② 千河(旧名は汧河)と 清水県城 下を流れる牛頭河を使った 中間ルート ▼

   ③ そのまま渭河(渭水)を直進してくる 直進ルート ▼

隴城鎮

このため、蜀軍はそれぞれのルート上に軍を配備して、迎撃体制を取らせていたものと推察される。

その証拠に、

   ① 裏ルート対策として街亭へ派遣した馬謖軍
     (特に旧シルクロード上の要衝であった略陽県城一帯に進駐)

   ② 現在の 清水県城 のすぐ東に残る「諸葛垒村」の地名にある通り、
     ここにも蜀軍の陣地が展開されていた。諸葛亮孔明が足を運んだ
     証拠として、この地名が残る。

   ③ 天水郡下の上邽城は、祁山から渭河エリアの入り口に位置し、重要拠点であった。
     これが、現在の天水市内にある「諸葛軍塁」であると推察される。
     つまり、ここが旧上邽城跡、ということになる(下地図)。
     配下の諸県が大挙して蜀軍へ寝返ったため、疑心暗鬼に陥った天水郡太守の
     馬遵に見捨てられた姜維らは、この地に取り残され、間もなく到着した蜀軍
     に帰参することになったわけである。

隴城鎮


実際には、蜀軍 は最重要ルートである③の渭河沿いに主力部隊を配備させていたものと推察され、広魏郡都の臨渭県城や天水郡都の冀県城などに諸軍を展開していたであろう(上地図)。

孔明は、その各方面の蜀軍陣営へ視察や軍議などで足を運んでいたわけで、その一部の足跡が ②と③の孔明遺跡(諸葛垒村と 諸葛軍塁)へとつながっているものと推察される。

『正史三国志』では、馬謖が街亭で交戦の折、孔明は戦場から数kmの地点に在陣していたにもかかわらず、救援に出向かなかったと指摘されており、ここから推察されるに、蜀軍陣地群の中でも、この裏ルート①に最も近い陣営である②の 清水県城 下まで、当時、足を運んでいたとも推察できる。

街亭に在陣中の馬謖か王平の軍から一報が入り、魏の援軍が街亭に到着したことを聞き及んだ孔明が、③あたりから②へ駆けつけたのかもしれない。
勝手な推察だが、①の街亭へ、②から援軍を差し向けるかどうか軍議していたのであろうか?

隴城鎮

ここで魏の援軍を撃破できれば、広魏郡、天水郡、安定郡の3郡の人民らも安心して蜀へ正式に帰属するものと踏んでいたことであろう。

そして、天水郡、南安郡、安定郡で未だ蜀に帰参しない諸県や、雍州下の他の各郡や諸県の攻略を計画していたものと推察される。その先には、涼州の西域民族らとの共同戦線も期待でき、ちょうど17年前に馬超らが通った同じルートで長安攻略を目指せるのだった。上地図。


馬謖と王平に1万の兵を与えて、裏ルート①へ派遣していたが、他方で、蜀軍のベテラン将軍である魏延や呉懿らを、より主要ルートである②や③の各方面に在陣させていたはずである。

孔明としても、①~③ルートの中で、最も魏軍が現れる可能性の低い ①ルートだからこそ、新人指揮官の馬謖を派遣してみたわけであり、まさかここで実戦が行われるとは考えていなかったのかもしれない。すべてのリスクを一つずつ確実に排除する上でも、孔明は、「いちおう①へも蜀の防衛ラインの一環として馬謖軍を派遣しておいた」わけだ。 これが、魏のベテラン将軍・張郃が相手となってしまったことが大誤算となった、というのが事の顛末ではないだろうか。

孔明は②と③ルートが、魏の援軍の到達ルートとして可能性大という目算の下、自身はこの周辺を巡回していたのではないだろうか?

隴城鎮

もし、張郃の魏軍が最短距離として③や②のルートを選択していたなら、孔明率いる防衛戦線と本格的な戦闘になっていたことであろうに。

さてさて、最も敵軍の襲来可能性が低いと思われた①ルートへ派遣された、馬謖と王平の1万は、未だ蜀へ帰順していなかった広魏郡内の略陽県城(街泉県城)を攻撃し、これを何なく占領する。

本来なら、この略陽県城を中心に街道を抑える役目であった馬謖であるが、魏軍の到着を目にして、つい戦功を焦り、城外へ出て、張郃軍と正面対陣してしまった、というのが街亭の戦いの顛末かと思われる。

隴城鎮

裏ルート①を選択し、急行した張郃軍であったが、まさかこのルート①にも蜀軍が展開されているとは予想しておらず、蜀軍の裏を取ろうと回り込んだつもりの作戦が失敗したかに思われたであろう。さすがに用意周到な諸葛亮孔明と感嘆したに違いない。
いったん、進軍を止めて、曹操が廃止した隴県城(今の張家川回族自治県の中心部)跡地に陣を構えたものと推察される。

しかし、略陽県城(街泉県城)と旧街道に軍を展開していた蜀軍が、さらに前進して、魏軍と対峙する姿勢を見せる。そう、馬謖の独断であった。馬謖は、この時、自力で魏軍を敗走させる意気込みを抱いていたのであろう。
乾燥土質ばかりの隴西省、寧夏省エリアの風土を甘くみていたのであろうか、断崖絶壁がそり立つ地形が延々と続く中で、馬謖は最も要害の地と見越した陽南山の山頂に陣取ったのであった。水資源の豊かな荊州、四川省、漢中しか知らない馬謖は、当地の風土条件を全く勘案せず、戦術的な地形のみで選択したものと推察される。

隴城鎮

華北の気候や風土を熟知していた張郃は、その弱点を見抜き、すぐに水脈を絶つ作戦に出たわけである。間もなく、蜀軍は総崩れとなり、戦いにならないまま散り散りに敗走することとなる。
一部の兵士のみ、略陽県城(街泉県城)にあった王平軍に合流し、蜀へと帰国できたのだった。

馬謖敗走の一報が入った蜀の守備軍は、防衛ラインの裏をかかれかねない立場へと追い込まれ、急遽、全軍が 祁山 まで撤退することになる。

こうして、大半の諸県が蜀軍に寝返っていた南安郡(今の隴西市)、天水郡(今の 天水市)、安定郡(今の鎮遠市)の3郡も、魏軍に再平定されてしまうのであった。


【 略陽県城(街泉県城)と街亭の古戦場 】

隴城鎮 隴城鎮

もともと今の隴城県には旧シルクロード沿いの宿場町が秦代から形成されており、西方へ通じる交通の要衝地帯であった。馬謖は、後漢時代に宿場町を改修して築城されていた略陽県城(街泉県城)を前面に押したてて、小規模な城郭であったため、入城し切れない軍勢はその後方を中心に布陣させて、あくまでも守備第一、足止め重視の作成を展開していればよかったものを、わざわざ魏軍に対陣する形で前進し、 高台に陣を敷いた、というのが街亭の戦いの結果を大きく決定づけてしまうこととなった。

下写真は、街亭古戦場跡の記念公園から山麓部分を眺めたもの。かつて、この下の平地部に旧シルクロード街道が通っていた(本街道の脇道レベルのもの)。

隴城鎮

下写真は、記念公園の南側。眼下は急峻な斜面で、その下には小川が流れていた。1800年前とは地形が大きく変形されているだろうが、当時も風土や自然環境はだいたい似たようなもので、乾燥土質が積み上がった複雑な地形が延々と続いていたことであろう。

元々雨量の少ない土地柄にあって、このような小川は貴重な水資源であったに違いない。

隴城鎮

隴城鎮

陽南山の山頂に陣取る蜀軍の水補給の弱点を見切った魏の張郃は、谷間の水資源を占領する、もしくは小川の上流部分を封鎖することで、水の供給ラインを絶ったわけである。

副将の王平は1000名ほどを率いて、旧街道上の略陽県城に布陣し、陣太鼓を慣らして、魏軍の進軍を牽制した。張郃は伏兵ありと危惧し、王平の陣へは攻め込まなかったという。以降、王平は散り散りとなった馬謖軍の残兵らを回収しつつ、祁山 まで撤退していた諸葛亮の蜀軍本隊と合流することとなる。


【 女娲祠 】

隴城鎮は、古代中国の伝説上の女神である女娲の故郷とされる地でもある。

女娲を祀る女娲廟は、もともと今の隴城鎮より北 2.5kmの龍泉山の山頂に設置されていたという(漢代~)。しかし、清代の1736年に龍泉山が崩落したことをきっかけに、女娲廟が隴城の東門付近に移築されたという。その後、清水河の河川氾濫により城域の半分が水没するに及び、女娲廟は東山坪へ再移築される。しかし、ムスリム教徒らの反乱により女娲廟が破壊されてしまったため、再度、隴城内の南門付近に移転される。文化大革命の折に女娲廟も破壊されたというが、1989年に南門跡のかつての設置場所に再建されて、今日に至るという。

下写真は、バスで隴城に到着した地点。ここが街の中心部。

隴城鎮

女娲の郷里を示す門。かつては、ここに古城の南門があった。左の高台上の建物が現在の女娲廟。

隴城鎮

下は女娲が誕生した洞窟とされる場所。街亭の古戦場公園から山道を車で10分ほど。

隴城鎮 隴城鎮


隴城県 から秦安県へ戻るバスは夕方16:30に終わるので、現地視察は早目の時間をお勧めしたい。

もしくは、もう少し冒険心があれば、夕方18:00ごろまである龍山県行のバスへ乗り、さらに東へ向かう。この龍山県はイスラム教徒の町で、街の様子が一遍することに驚かれることであろう(下写真左)。この龍山県で、さらに張家川県へ向かうバスに乗る。張家川(下写真右)はイスラム教徒の自治地区となっており、モスクが多い。中国文化と融合したモスク群はとても見応えがある。

隴城鎮 隴城鎮

この張家川(上写真右)の中心部に一泊してもいいし、もしくは夜遅くまであるバスで 天水市 内へ帰れる(張家川は大きな都市であるので、天水行きのバスも多い)。



  交通アクセス

天水 バスターミナルから、隴城行のバスに乗る。蓮花鎮(下写真左)、五営鎮、隴城鎮の3カ所を経由する便だ。片道20元。1時間半。途中に、大家湾遺跡という古代遺跡博物館横を通過する(下写真右)。

隴城鎮 隴城鎮

隴城の終点から、さらに進行方向へ3分ほど進むと、街亭の古戦場の丘が見えてくる。徒歩では厳しいので、バス終点にたむろするシロタクで往復を依頼(40元)。



天水市秦安県隴城鎮の歴史

隴城鎮一帯は、春秋時代より秦国の王都(雍城)、後には咸陽や長安城が開設される関中盆地の入り口近くに位置したこともあり、古くからシルクロードの交通の要衝地帯であった。街道上には早くから商人街や宿場町(駅)が発達していたようである。

隴城鎮

西域の異民族らを制圧した前漢第七代皇帝の武帝の治世下、このシルクロード上にあった隴城(かつては龍城とも呼称された)内に凉洲刺史部の役所が開設されたほどであった(紀元前106年)。後に天水郡城へ移転するも、後漢時代には再び、州役所が再移転されていた。
このときの隴城は、現在の張家川回族自治県の中心部にあった。

隴城鎮

後漢時代、シルクロード街道沿いにあった集落(漢街城)の一つが昇格され、略陽県役所(街泉県役所)となる。これが現在の秦安県隴城鎮の古城地区である。

三国時代に入り、魏の曹操は 清水県 を復活させ、代わりに隴県役所(今の張家川回族自治県に開設)を廃止して、その管轄行政区を清水県に吸収合併させる。
228年の街亭の戦いでは、上で廃城とされた旧隴県城から、西側の略陽県城(街泉県城)のエリアを巡っての攻防戦となったわけである。

三国時代を統一した西晋朝により、略陽県が略陽郡へと昇格され、郡役所が略陽県城(街泉県城)内に併設される。そして隋代、略陽県は隴城県へ改称され、隴城の名が復活し、代わりに略陽県が消滅された。以後、唐代も隴城県が設置されるも、北宋代には隴城寨へ降格され(秦安県 下の管轄に帰属され、以後、継承される)、明代には隴城巡検司となっていた。

隴城鎮

なお、現在でも隴城古城として一部の城壁が保存されている。

しかし、実際に三国時代にあった略陽県城(街泉県城)跡はここの北側にあったらしい。唐代の762年に、吐蕃国が唐領へ侵入してきた際、徹底的に破壊されてしまったようで、今は跡形も残されていないという。
現在の城壁跡は、北宋時代の1160年に再建された隴城寨のものである。別称、その形状から八卦城とも呼ばれるらしい。城域は14万平方メートル、城壁の高さは最高 20mにも達していたという。

時は下って、清代後期の1837年、河川の洪水被害を受け、城域の半分が水没してしまい、半分だけが残ったことから「半分城」と呼称されることとなる。同年すぐに、秦安県 長官の厳長宦により河川堤防の再建工事が実施されている。

共産党中国に入って後、八卦城の城壁(土壁)は周辺住民らにはぎとられてしまい、今日ではわずかに全長30m、幅8m、高さ10mの一辺のみ残されているに過ぎない。


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