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海南省海口市龍華区 ~ 人口 65万人、一人当たり GDP 49,000 元(海口市全体)


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  海口所城



琼州府城から北へ5km、龍華区内の新民路と博愛路の一帯にかつて城郭都市が存在した。ちょうど、 現在の騎楼老街の一角にあたる。
同エリアある海口歴史文化展示館内に、かつての古城時代の模型が展示されている。 当時のメインストリートである仙橋路、振東街、閘門街、臙脂園后街などにあった家屋群も同時に 復元されており、過日の栄華を垣間見ることができるという。

龍華区

明代までの海岸線とは桁違いに埋め立てが進んでいる。
清末、この地では西洋風の建物が多数建設され、文明開化の先進エリアとなっていた。
現在見られる、騎楼老街がその海外交易の繁栄の生き証人というわけだ。

龍華区

さらに、古城時代からの古い路地も未だ健在で、その名前からルーツがたどれるという。

繡衣坊
かつて科挙合格者である進士らの屋敷があったエリア。彼らがまとった衣類から命名されている。

達士巷
旧名は鄭宅巷で、 当地の名士・鄭家の創業者が技術家(達士)出身であったことに由来する。

居仁坊
もともとは馬屋があった場所で、 海口所城の西門街の並びにあった役所(千戸府と参将署)に属する官吏や兵士らの 軍馬が飼育されていたエリアという。後に、馬房村、続いて、居仁坊へと 改名される。当時、官吏などの屋敷や官舎は門前に大々的に墨書きの表札を掲げており、 その風流がある路地に、馬房村の名前はふさわしくない、ということで清末期に居仁坊へと 改称されたという。今日でも、文明開化の風情を色濃く残す路地として、その名前に 恥じないという。

聯桂坊
古城時代、南門外のエリアに属し、当時から水田内に城壁が建造されていたので、 もともとは田辺村と通称されていたという。

白沙坊
旧名は、蕃坊、番坊、蕃巷などと通称されており、 もともと細い路地ではあったが、海上交易の積み荷が大量に取引された 一角という。

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 【 海口所城の概要 】

明代初期の1394年、海からの倭寇の襲撃に対抗すべく、 広東都指揮の花茂が朝廷に城壁建造の旨、初めて上奏する。
翌1395年、呉傑が千戸の崇実興に海口城の築城を託ね、翌年に工事が完成する。
なお、呉傑は明王朝の建国の功臣で、安陸侯に封じられていた呉復(1321~1383年)の子で、父の 爵位を継承し、安陸侯となって、華北地方を中心に元軍の残党勢力と軍閥勢力らの 掃討作戦を展開した人物である。
しかし、同1395年に軍律違反により呉傑は安陸侯から降格されてしまう(後に竜州攻略戦で 戦功を挙げ、再昇格される)。当時の【地名+侯】とは、日本で言う、高位貴族クラスを指し、 中華帝国はその全土が皇帝の所有物で、官吏や将軍らは官位により、その一部を貸し与えられて 徴税や業務、戦争に勤しんだわけであるが、【地名+侯】という地位は、その【地名】の場所の 人民と土地を皇帝から与えられた特権者ということで、最高級位の称号とされていた。

こうして、1年で築城された海口所城であるが、火山岩石を積み上げて建造された 頑丈な城壁は全長 1,850m、高さ 6m弱、厚さ 5m弱で、 城壁上には凹凸女壁が 653箇所、兵士の休憩所が 19箇所、設置されていたとされる。さらに、 それぞれ楼閣を有する、東西南北の4城門が配されていたという。

龍華区

所城内は当初、東門街、西門街、南門街、北門街の4道路のみがあるだけだった(上地図)。

龍華区

北東側は海に面し、城壁から海岸線まで 30mという距離だったという(上絵図)。
南東側から北西側は外濠が設けられ、その全長は 1,550m、幅が 5m弱、深さ 1.7mほどであったという。

龍華区

明代の1418年と、清代の1667年に、修築工事が施されている。
1488年に、十字街の中心部に四牌楼が建設される。
また、城壁内には駐留した役人や居留民らの増加に伴い、街の路地が細分化されていったという。
順次、四牌楼街、仙橋路、振東街、閘門街、胭脂園后街、城角路、 谷街、福興街、関上街、関尾街、新興街、城角滂路、青竹街、双塘尾路、被直街、 得勝沙街、大街、港口街、大廟前街などなどが設置されていった。
明代には千戸府、清代には同知署と参将署がともに、西門街沿いに開設された。

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中華民国時代の1924年、軍閥勢力の鄧本殷が都市開発を優先するため、明代に建造されていた海口所城の城壁撤去を決定する。
翌年内にも工事が完了され、城壁の石材は長い堤防建設に沿用される。現在の6車線の 海岸線大通りである長堤路こそ、この時に建造された堤防であり、また併設された 波止場の跡という。当時、東南アジアや広州などからの船舶が数多く出入りしていたらしい。

今日では、古城時代の遺構は全く存在せず、わずかに城内にあった関帝廟や井戸跡(龍井)などが 残るのみという。


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