BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年5月下旬 『大陸西遊記』~


陝西省 漢中市 勉県 ~ 県内人口 43万人、 一人当たり GDP 24,000 元(漢中市 全体)


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  沔陽県城(沔県城)と 陽平関(白馬城、張魯城)
  武侯祠 (蜀晩年の 263年1月に劉禅により建立)
  馬超墓
  武侯墓(諸葛亮孔明の墓)
  定軍山 と 古戦場
  漢城(三国時代、孔明が築城した)



【 沔陽県城(沔県城)と 陽平関(白馬城、張魯城) 】

勉県

ここは現在でも勉県老城地区と呼ばれ、かつて勉県の県役所などが開設されていた県の中心集落地であった。今ではかつての栄華を見る陰もない。

その歴史は、南北朝時代の宋朝の治世下の 420年に築城された 沔陽県城(後に沔県へ改称)にまで遡る。秦朝、前後漢、三国時代からあった陽平関の防塁資材を再活用して、正方形に近い四辺を持つ県城の築城工事が進められたことであろう。数十年前まで、明代に修復された西側及び南側の城壁の一部、そして東門の基礎台が残っていたらしいが、今は完全に撤去されてしまっていた。なお、東門は文化大革命のころに破壊されたという。当初より、東門(三門)、西門(拱漢門)、南門(定軍門)の 3城門のみ設置されており、北側の城門は存在しなかったらしい。 北側は小高い丘沿いに城壁が巡らされていただけのようである。

勉県 勉県
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今日の古陽平関は完全に復元されただけの城壁跡であったが、なぜ漢中において 陽平関(勉県古城)が重要な位置を占めているのかが、現場を目にしてよく理解できた。

漢中盆地の最西端に位置し、すぐ南北と西には山々が連なる。このラインを防衛すれば、 漢中盆地への敵侵入を阻止できたわけである。
ちょうどこの地で、215年7月、急峻な 秦嶺山脈 を 2週間近くかけて踏破し心身ともにボロボロになった曹操軍の先鋒隊が、張魯の弟であった張衛と配下の楊昴らによって撃退された地でもあることは納得がいった。

勉県

上写真は陽平関の城壁の北側。秦嶺山脈が連なる。
下写真は南側。後方の林の裏手すぐに漢江の大河が流れる。

勉県

勉県

上写真は陽平関の城壁の西側。張魯城があった山側を臨む。
下写真は、張魯城があった山裾より、陽平関の城壁を臨んだもの。前には天然の小川も流れ、堀川の役目も担う。

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張魯は当時、この 白馬城(今に復元されている陽平関の城壁一帯)と、西側にある 山頂(蓮水村走馬嶺)に城塞を築いており、この両者の連携(曹操侵入時、これらを連絡する 5 kmの防塁を新築)で、漢中盆地を守備していたようである。

この蓮水村走馬嶺の山頂にあった「張魯城」は、政教一致を説いた五斗米教の 24役所の一つ 陽平県(もしくは浕口県)が開設されていた場所であり、これが要塞化されて、東側の白馬城との連携から、陽平関と総称されていたようである。なお、張魯城が築城されていた蓮水村走馬嶺であるが、 標高 1,036 mの山で、古くから古道が開通しており、軍馬が度々往来したことに由来するという。付近には城塞の他に、狼煙台(通称:煙洞峁)も設置されていた。

初戦で敗退を喫した曹操軍はいったん退却するように見せかけ、陽平関の守備隊を油断させて、後日、強襲し占領に成功する。陽平関守将の張衛らは南鄭城へ逃げかえり、そのまま張魯らは巴中の山岳地帯へ逃走し、曹操は難なく漢中盆地を平定してしまうのであった。

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また、後に続く漢中争奪戦における劉備も、218年、今度は曹操軍が守備する陽平関の要害さにてこずることとなる。長期に及ぶにらみ合いが続いたようである(上地図)。
このときも、張魯城と白馬城、そして長い土塁が活用されたようで、劉備軍は漢江の河を渡って南から夜襲をかけたりするも、結局、張郃らが守備する陽平関を破ることができず、翌 219年に 定軍山 方面へ転戦し、走馬谷に陣取る夏候淵の本陣を襲うこととなったのである。

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現在の陽平関の古城地区は河川と 運河(水路)に四方を囲まれていた。城内の真ん中にも小川(運河)が通されていたようである。
また、今でも城隍廟が残り、この古城地区の重鎮として祀られているようであった(下写真)。この城隍廟の中に足を踏み入れると、住職らしい男性が写真を撮るなと近づいてきた。とりあえず、お賽銭を入れると、廟内を丁寧に案内してくれた。道教の廟であった。子供のころ、自分の背丈ほどの城壁が残されていたことを覚えていると話されていた。

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  交通アクセス

漢中市 から西隣の勉県へのバスは頻繁にある。5分に一本ぐらい。バスが乗客を奪い合って道々で客を乗降させている乗合バス形式である。片道 10元。所要時間 30分弱。

勉県の市街地に着くと、その幹線道路「翠源路」沿いで下車して、後続の「漢中 → 陽平関(ここに、趙雲らが活躍した子龍山の古戦場がある)」行きの大型バスに乗る。8元。

もしくは、漢中バスターミナルより、初めから「漢中 → 陽平関」行きの大型バスに乗り、勉県の市街地を超えた 5 km西側にある(勉県)老城という場所で下車する。

ここは武侯祠からまだ西へ 1 kmの場所にあるので、筆者は先に武侯祠を見学後、幹線道路沿いに走る「陽平関」行バスに手を上げて乗った。8元。

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乗ること5分ぐらいで、(勉県)老城でいったんバスは停車するので、ここで下車。 その進行方向左手に「古陽平関」の 表示板(上写真左の青色標識)と復元城壁が見えてくる。また、古城地区の幹線道路沿いには、馬超の騎馬像がある(上写真右)。



【 武侯祠 】

武侯祠への入場料は 60元。結構、高い。しかも、入場券は東隣の駐車場まで行って買わなければならないという不便さ。値段の分、トイレは他の観光地よりはきれいであったが。

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この武侯祠は、蜀が滅びるまさに最終年の 263年1月に、劉禅により建立されたものである(同年 10月に魏軍の漢中侵攻開始、11月には成都降伏)。
諸葛亮が存命中は、1 kmほど西にあった陽平関との間で、日夜、軍事教練と兵器開発が進められる蜀軍の最前線基地であったわけであり、この 軍事施設内(営軍石馬)の一角に、孔明は自身の公務用の 居所(丞相府)を設けていた。この廟は、その跡地に建設されている。

その後も、数々の王朝が修繕などを手掛けて、今日まで受け継がれてきた。

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筆者が訪問した当日は、廟内でちょうどテレビ局による撮影らしきものが行われていた。線光の煙を前に幻想的に映る諸葛亮像を 撮影中(上写真左)。

諸葛亮が丞相府を開設し、公務を司っていたころに設置された 井戸(諸葛井)が今も残されていた。この水が生活等の用水に利用されたという。すでに当時の井戸水は枯れてしまっているらしいが、今も便宜上、水を湛えているように見せていた(上写真右)。

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この武侯祠の楼閣からは、定軍山の遠景がよく見渡せた(上写真の中央奥に広がる山々)。まさにあの一帯で定軍山の戦いが行われたのである。


  交通アクセス

漢中市 から勉県の市街地に着くと、バスは各所で乗客を降ろしていく。このとき、自分は「馬超墓」を見る、と伝えれば、路線バス ③のバス停で下車させてくれる。筆者は、翠源路と武侯北路の交差点で降ろされた。

ここから、路線バス ③に乗る。バス前面に「武侯祠」行きの漢字が掲げてある。 1元。所要時間 7~8分。ちょうど武候祠前にバス停があり、ここで下車。
ちなみに、翠源路と武侯北路の交差点の交差点では、シロタクも多く、武侯祠まで 10元で送ってくれる。

もしくは、漢中市バスターミナルから、直接、「陽平関(ここに、趙雲らが活躍した子龍山の古戦場がある)」行きの 大型バスに乗り、終点まで行かずに、途中で通過する勉県の市街地や武侯祠、勉県老城地区などで下車できる。もちろん、そのまま漢中へも帰れる。



【 馬超墓 】

勉県 勉県

さてさて、馬超は蜀の五虎将軍に任ぜられて以降、漢中(特に西側の陽平関)の守備を任されていたが、間もなくの 222年、48歳の若さで病死してしまう。その墓所が陽平関の近くに建立された。

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諸葛亮が北伐へ出征する際、配下の馬岱が馬超墓への参拝を依願し、途中に立ち寄ったとされる。また後年、付近に丞相府を開設して、日々、軍事教練に励んでいた諸葛亮自身も北伐前の戦勝祈念に訪れていたようである。

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ちなみに、馬超墓の入場料は 10元。とはいっても、本当の馬超墓はこの記念館の後方にあり、そこは入場無料。ちょうど、武侯祠との間に地元民しか気づかないような遊歩道が設置されており、ここを通ると、幹線道路を通行するより安全に往復できる(上写真)。武侯祠の正面に流れる 小川(運河)沿いの小道である。東へ 500 mほど。ここから馬超墓を訪問すれば、入場料はかからない。


【 武侯墓 】

筆者は、古陽平関から勉県中心部に戻り(陽平関 ➠ 漢中への大型バスに乗車し、途中下車。5元)、当地の繁華街「和平路」にあったハンバーガー店で昼食を取った。そこから、タクシーで武侯墓へ移動した(20元)。市内からだと、路線バス ②でも 武侯墓(定軍山)方面へ行ける(片道 2元)。

勉県 勉県

武侯墓こそ、まさに孔明の遺言通りに、234年、定軍山の麓に葬られた墓所、その場所である。ここの入場料は 70元。この地はまさに定軍山の戦いの古戦場跡のど真ん中に位置するロケーションであった。東に定軍山、西に挿旗山。その間に、蜀の成都へと通じる走馬谷があった。

勉県

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諸葛孔明の墓の周囲には当時、蜀の諸将により木が植樹されたようで、今日でも樹齢 1700年とかいう三国時代からの樹木が巨大に成長して、孔明墓を見守っていた。墓の上に生えている木は、本来は存在しなかったのであろうが、何らかの形で成長してきたので、今では鉄筋で支えられて保護されていた。諸葛亮の養分を吸って育った大木、是非、子々孫々にまでこの世に存続してほしいものである。

武侯墓の背後の高台にあった楼閣上より、定軍山を臨む(下写真)。

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  交通アクセス

②番路線バスで終点まで行けば、定軍山と諸葛孔明の 墓「武侯墓」へ到着できる。片道 2元、所要時間 15分。
武侯墓の終点から市街地への最終バスは 17:30だと言われた(夏時間)。




【 定軍山 と 古戦場 】

勉県

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武侯墓から、そのまま東側にある定軍山の登山を決行した。登山口まで徒歩で 20分ぐらい。しっかり、観光地化されていた。しかし、登山口まで徒歩で来ると、すでに疲労が激しい。夏場はきついので、春に登山されるのがよい、と登山口でジュースを販売していた女性が話していた。

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とりあえず、登山口付近にあった三国志の英雄像と定軍山の激戦地一帯を見渡す。

勉県

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さてさて、再び武侯墓の入り口まで戻り、②番バスで市街地へ戻る。最終バスは17:30ごろと言っていた。

定軍山の東側に 229年、諸葛亮が築城した 漢城跡(勉県の漢江南岸にある元山村一帯)も見たかったが、相当に疲れたので、そのまま漢江を超えたすぐの所にある勉県バスターミナルで下車した。ここから漢中行きのバスは 5分に一本ある。


ちなみに、この 漢城 であるが、263年に魏の鐘会が蜀へ侵入した際、かつて蜀の宰相となった 蒋琬(?~246年)の息子である蒋斌が守備していたわけであるが、 5000の守備隊とともに籠城するも、兵の数にものを言わせる魏軍の捨て駒作戦により、守備兵は城内に釘付けとされ、魏軍の本隊はそのまま 首都・成都 へ進軍することとなる。

勉県

益州の入り口であった剣閣での姜維の抵抗もむなしく、同じく捨て駒作戦で魏の 別働隊(鄧艾)が成都へ侵攻し、劉禅を降すことに成功する。こうして姜維の軍や漢中の守備兵らは武装解除されるに至る。

漢城開城後、守将であった蒋斌は 涪県城 内にて鐘会に面会し、親交を深めたとされる。しかし、翌 264年に兵士の反乱に遭遇し、鐘会や姜維らとともに殺害されることとなる。


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