『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2014年5月下旬 『大陸西遊記』~


四川省徳陽市綿竹市 ~ 市内人口 54万人、 一人当たり GDP 40,000 元(徳陽市全体)


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  綿竹県城
  西門と晋煕書院跡
  諸葛双忠詞(三国志遺跡)
  酒造の街(中国大手メーカー「剣南春集団」の発祥の地)
  祥府寺



徳陽市 西北に位置する綿竹市(徳陽市の一部だが、同じ「市」という名称を持つ)も、観光地である重点地区や市中への幹線道路上は、きれいに整備されて、それなりに情緒ある風情が作り上げられていた。
徳陽市綿竹市 徳陽市綿竹市

徳陽市⇔綿竹まで、地方行きバスで1時間弱、片道9元。20分ごとに双方を出発されている。徳陽市→綿竹市行きの場合、徳陽市内の「華山北路、南路」沿いの公共路線バス停で待っていれば、通行途上の綿竹行のバスに乗れる。もしくは、徳陽市北側にある徳陽北バスターミナルから始発に乗車でもよい。
綿竹市→徳陽市行きでは、当地第一の名所「諸葛双忠詞」近くの円形ロータリーになっている大通り北側にバス停がある(どこにも表記はないが、いつも交代交代で徳陽行きバスが常時、停留中)。
ちょうど、下の写真の場所。

ちなみに、このバス停留所一帯が、かつての綿竹古城の 西門 付近にあたる。

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ちょうど、この西門のやや内側で、清代の1745年創立という小学校(旧:晋煕書院)を発見した。ここの校門があまりに類稀であったので、撮影しておく。

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写真では分かりにくいが、ここの古城は、北側が山で南へと緩やかに下っていく丘陵地帯に築かれていたようである。歩いてみると、北門側は結構、急な大地の斜面に作られていたことが伺える。



古城内 北半分はかなり下町風情が残る地域で、青空市が毎日、開かれている庶民の胃袋的な地域であった。旧家もたくさんあったが、人口流出が多いみたいで、かなり寂れていた。

徳陽市綿竹市

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旧城壁都市の東西の中心通りが「大東街」「大西街」。その東側バス停名は「東大橋」。かつて東門より外にあった堀川にかかっていた橋名を指すのだろう。

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ここからちょうど南側の路地で、城壁の残骸を発見!。「大栄賓館」に入る路地!通行人に確認してみたところ、やはりこれが旧城壁跡らしい(上部は外側にコンクリートが塗られているが、その内部、および壁下部は当時のまま)。

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そのまま城壁が続いていたであろう延長線上は、「東城巷」という通りになっている。現在は、若者向けの商店街。 。そして、南門跡一帯まで歩く。南側は、広場になっている。写真上は南門跡から城内を見る(この先に、かつて県役所があった)、写真下は城外を見る。

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その南門と西門の間の外側に「剣南老街」という、かつての酒造街が復元されている。
綿竹市は1500年以上の歴史を持つ酒造の街として有名であるらしい。今でも、手造りの製造現場を生で披露している。この地区一帯は、酒の醸造のにおいが充満している。

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仏パリ のルーブル美術館みたいなガラス張りの下には、当時に建物の土台が保存されている。

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今でも、中国で有名な酒造メーカーとして存続している地元出身の大企業「剣南春集団」もある。現在の工場はやや郊外にある。

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ちなみに、この「剣南春集団」は、香港 のヴィクトリア・ハーバーに大きな電光看板を掲げている(2014年12月末撮影)。 マカオ 行フェリーターミナルの横のビルである。

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さてさて、話を 綿竹市 に戻そう。
関帝廟を含め、すべての寺院は、旧城壁外に建造されていた。この街で最も大きな寺院は、「祥府寺」というところ。四川省最大の密宗の道場らしい。唐代からある名刹で、北宋時代の大中祥府年間に建てかえられた後、有名となったようである。ここは2006年5月の四川大地震で大きく破損されたが、4年かけて復旧が進められ、今の姿を取り戻した、という。古城内に住む住民からの厚い帰依があったのだろう、ここの寺院参拝のためか、当時、城壁都市には小西門という城門まで設置されたいた。
余談だが、ここから徒歩5分ぐらいのバス停名が、「シンガポール(新加坡)」であった。

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そして例のごとく、三国志遺跡であるが、ここには「諸葛双忠詞」がある。城壁西門からすぐ外にあった。

諸葛瞻 (227-263年)、諸葛尚 (245-263年)の親子二人が祭られている。綿竹での戦いで戦死するが、実際の戦死場所は南東へ25kmほど離れた、現在の 徳陽市黄許鎮 の東側「白馬関」一帯の戦場である。蜀滅亡後の晋の時代、この近くに祠が建てられたのであろうが、綿竹城の廃城とともに忘れ去られたいたのであろう。そして、清代 1738年、現在に残る綿竹城の守り神として、かつての旧城を死守した忠義の士として、諸葛瞻父子や張遵(張飛の孫)、黄崇(黄権の子)、李球(李恢の甥)ら蜀の将軍らに再びスポットライトが当てられて、西城門外に廟が建てられたようである。なので、廟のテーマは、「忠義」「忠孝」である。1760年この祠に山門が追加される。1827年、この祠に社殿が建築される。以後、度々の修繕・拡張工事が施されて、現在の姿になった、という。

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その忠義がテーマの本廟前には、3人の蜀裏切り者の石像が見せしめとして並べられていた。
碑文によれば、1985年に南門外にあった関帝廟の敷地前より出土した石像という。蜀の君主を裏切った謀反人として、糜芳、士仁、郝普とされる。関羽の配下として荊州守備にあっていた糜芳、士仁においては呉の呂蒙に降伏し(222年)、213年の呂蒙のよる荊州3郡奪取の折には、零陵太守の郝普が偽情報にだまされて呉に降伏したわけであるが、こうした逸話から関帝廟前でもさらし者にされていたのであろうか。
この「諸葛双忠詞」へ移転された際は、廟の前に並んでいたようだが、おそらく、訪問者が殴る蹴るするのであろう、今は、透明なケースに入れて、道路脇にてしっかり保護されていた。

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