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海曙区
訪問日:2015年11月上旬 『大陸西遊記』~
浙江省 寧波市 海曙区 ~ 区内人口 35万人、 一人当たり GDP 105,000 元(寧波市 全体)
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寧波府城(【2代目】鄮県城、明州城、【2代目】鄞県城、慶元府城、明州府城)
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西門、天一閣、月湖公園
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東門、外灘地区
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子城跡(鼓楼地区)と 永豊庫跡
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南門、城隍廟エリア
【 寧波府城(明州城)の 西門、天一閣、月湖公園 】
投宿先の鼓楼地区から、徒歩で
西門口駅
と西門口広場を散策した(下写真左)。すぐ外側にある水路は、かつての外濠跡である(下写真右)。
この 西門(望京門)には、南門(長春門)と共に、甕城が二重に設置されていた(下絵図)。その他の 和義門、霊橋門、永豊門、東渡門には単体の甕城が通常通り、一つ付随するのみであった。これは先の 2門が城門と水門を併設されていたことに由来し、入城チェックを厳格に遂行する目的があったと推察される。また通常、海より寧波府城へ舟のまま入城することが可能であり、その際は、必ず 西門(望京門)を最初に通過する仕組みになっていた。 そのまま船は水路を伝って月湖まで移動したという。
下の古写真は、城外から西門を見たもの。
下の古写真は、西門から外側を見たもの。
西門跡地から、古城時代の西側城壁が並んでいた長春路を南へ移動し、寧坡市随一の観光名所である、天一閣を視察した (入場料 30元)。ここは、明代の学者出身の官僚である 范欽(1505~1585年)が、生涯を通じて収集した書物を保管した(中国最古の)書庫跡である。多い時で 7万冊もの蔵書を抱えたというが、現在はほとんどが散逸し、その書庫の建物群が観光資源として活用されている、というのが実態であった。下写真左。
筆者が訪問した当時は、入場門前の一帯は伝統家屋風の建築群の工事中であった。
なお、天一閣の正門前にあった旧家屋の門前には、「駐車禁止」の大きな文字が。。。せっかくの伝統的家屋も台無しに見えてしまう。。。下写真右。
ここからさらに南側の衛馬街へ回ってみる(下写真左)。かつては軍馬が飼育された場所であろう。この通り沿いに、麻雀誕生博物館なるものもあった。
また、秦氏支祠という、清代の名家の客間入り口が無料開放されていた(下写真右)。天一閣の庭園裏門に連結されている。当時から、建物ごとに眼前には防火用のため池が設けられていた。
この馬衛街から東隣の月湖公園までのエリアは、まだまだ多くの旧家屋が点在し、これまでの都市開発では取り残された感が漂っていた(下写真左)。しかし、近年になって寧波市政府も目覚めたようで、この月湖公園の 西側一帯(天一閣を含む)の再開発を進めているようであった(2015年10月現在)。
月湖公園は、古城時代から続く巨大な人工湖を有する庭園である(上写真右)。中には、古城時代の旧家屋らが移築されて、公園内で保存されていた。蒋宅、盧宅、銀台第官宅、などがその旧家の持ち主の名である。
期待して出向いた公園内の寧波玉文化博物館であるが、これは地元の伝統工芸家の展示&販売スペースでしかなく、がっかりした。
その裏手には高麗使節遺跡がある(上写真)。館内は部屋一間の空間のみで、二つの記念石碑を保存しつつ、北宋時代の高麗使節団との関係や絵巻を展示していた。
当時、開設されていた高麗国の外交使節団屋敷の一部のようである。
この月湖公園は古城時代から存在しており、政府使節団などを接待する場所として使用されたり、通常期は市民らに開放されていたのであろう。
【 寧波府城(明州城)の
子城(鼓楼地区)
】
月湖公園から鎮明路を北上し、鼓楼地区一帯を見る。
鼓楼の土台城壁は 15 mはある奥行きを有しており、堂々たる建造物である(下写真左)。
そもそも、この 鼓楼(別名、海曙楼)であるが、清代後期の 1855年に再建されたものという。
唐代の 821年に初めて鄞県城が築城された際は、南門があった場所である。当時の県城は、現在の鼓楼ショッピング 歩行者エリア(上写真右)だけの敷地を占めており、城内は県役所や兵舎など限られた施設しか設置されていなかった。住民らは皆、城外に居住していたという。
唐末期の群雄割拠の時代、明州長官の黄晟により、892年から 898年にかけて、河川の土手を利用して外側の城壁が建造される(全長 9 km)。こうして、現在に見る城域が完成する。
以降、初期の県城エリアは、子城と通称されるようになる。
この子城の南門であるが、五代十国時代には 望海軍門(楼)、北宋時代には 奉国軍門(楼)と改名されていく。元代の 1321年に建て替えられた折には明遠楼と命名されるも、すぐに撤去されている。
明代の 1434年に太守の黄永鼎により再建され、さらに1585年には太守の蔡貴易により改修され、海曙楼と命名される。しかし、清代の1782年に破却されてしまうも、1855年に再建され、今に至る寧波市のシンボル的な歴史的建築物となったわけである。
さてさて、かつて子城と言われた、鼓楼ショッピング歩行者エリアであるが、この中に、韓国料理屋、日本料理屋(3軒)、マクドナルドなどがあった。
筆者は特に、尚書街と公園路の交差点付近にあった韓国料理兼日本料理屋の「漁禾寿司」を愛用した。カレー 18元、チャーハン 20元、石焼ビビンバ 20元ぐらいの手頃な定食屋である。トッポギがおいしかった。
また、鼓楼地区にある永豊庫跡地は、宋、元、明代に使用された府役所の倉庫跡とされる。宋代以降に建設された 政府系施設(単体建造物)の中でも中国史上、最大規模の 床面積(幅 56 m × 横 16.7 m)を誇る施設であったらしい。上写真。
発掘調査により、地元で生産されていた陶磁器類や海のシルクロードを通じて取引された文物などが数多く出土しているという。宋代には常平倉、元代には永豊庫、明代には宏済庫と呼称されており、清代にはその倉庫跡地に 城守営都司署(後に浙海関行署)が開設されていた。
元代、鼓楼地区には府役所が開設されており、その前に 小さな池(清瀾池)と 清瀾橋(別名:府橋)が架けられていたことから命名された「府橋街」なる路地があった(上写真左)。
上写真右は、「蒼水街」。かつて子城の濠川を兼ねた水路が通っていたのであろう。
【 寧波府城(明州城)の
東門、外灘地区
】
鼓楼地区から徒歩で中山東路沿いに東門エリアへ移動する(寧坡市南バスターミナルからは、518番バスでアクセスできる)。
地下鉄の東門口駅の南側に 巨大ショッピングモール(天一広場)が開発されている。上写真。
日本料理屋が 2軒あったが、そのうち、寧坡市一帯でフランチャイズ展開している「寿鮮亭」に入ってみたが、味は全くダメで、注文から料理が出るまでの時間も無駄に長すぎる。基本的には食べない方がいいかも。カレーも 38元と、高すぎる価格。それでも、客は順調に入店しており、寧坡市民の所得の高さを見せつけられた。
下写真左は天一広場の南側にあった 教会(天主堂)。明末期にポルトガル人宣教師により、寧波の地にキリスト教が伝播され(1533年ごろ)、教会が建設される。しかし、清初期に禁止され、一度、破却された。 1702年に改めてフランス人宣教師に清朝政府から許可が下され、当地に教会が建設されたことに由来するという。
下写真右は、寧波市内の地下鉄乗車時に、たまたま車内が観光地の広告一色に貼り変えられていたので、思わず、シャッターを切ってしまったもの。
また、東門口の北側には和義路があり、かつての北側の城壁があった場所である。その外側に戦船路があり、ここが東門口バスターミナルとなっている。かつて宋代より、軍船などを建造していた造船施設があったエリアである。下写真。
現在は、銭商博物館(かつて寧波府城内で勃興した初期金融業者らに関する展示館)と、ピカピカの ショッピングセンター(雨果博斯)が開設されていた(HSBCの支店もあった)。下写真。
なお、このまま和義路を東進し、西隣の中山公園の手前に差し掛かる地点に、和義門瓮城遺跡が残る。
中山東路をそのまま東へ進み、東側の外堀を兼ねた奉化江を渡って、対岸側へ移動する。その北側には、中国人民銀行の巨大なビルがそびえ立っていた。
対岸地区に至ると、まず目に飛び込んできたのが、道路に設けられているバイク・電動自転車用の信号待ちスペースのテント屋根である(下写真左)。旧市街地区にはないが、寧坡市内の広い道路沿いに結構、設置されていることが分かった。真夏でも、雨天でも、焦らずに交差点での交通マナーを守らせる、間接的な安全装置に感銘を受けた。
そのまま彩虹北路まで移動すると、シェラトン・ホテルがあった。ここにも HSBC支店が入居していた(上写真右)。ホテルのすぐ南隣に 日本料理屋「大江戸屋」があった。ここは結構、本格的な日本料理を出す店として、地元でも人気らしい。
再び、東門エリアまで戻り、そのまま橋を渡って、北側の外灘地区へ移動する(下写真の中央部)。
1844年の開港以降、英国領事館、警察署、教会、税関局、銀行などが開設された近代寧波の象徴のような地区である。現在はこうした境遇を利用した洋風地区として再開発が進められていた。カフェ、バー、クラブ、洋食レストラン、芸術家の展示スペースなどなど。
中国通商銀行(Imperial Bank)跡の 建物(1936年建設)には、現在、中国工商銀行が入居する。近代化が始まった当時は、最も高い建築物であったと解説されていた。下写真左。
上写真右は、外灘エリアで特に目立っていた、奇抜な住宅マンション。
このエリアは、地元のおしゃれ、流行に乗っていると自称している人たちが集う地区になっているようであった。一見、欧州のどこかの酒場街に迷い込んだか??という錯覚にもとらわれる街並みであった。
【 寧波府城(明州城)の
南門、城隍廟エリア
】
寧坡府城の城隍廟は南門のすぐ内側にあったようで、現在では、おしゃれなショッピング・エリアに再開発されている。ここにも日本料理屋が一軒あった。
それから、南側の城壁、外濠(奉化江)を巡ってみた。バス停にも濠河という名称もあった(下写真右)。
下写真左は琴橋上から撮影したもの。ここから霊橋路を北上してみた。
なお、寧坡市内はその地名度と人口の割には、街中に人が少ない印象を受けた。街中では外国人を比較的によく見かけた。
あと、寧坡市の女性は結構、美人が多いという印象だ。
また、寧坡市経済の発展度もすでに成熟段階に達しているためか、あくせくカネ稼ぎをしようという雰囲気はあまり感じられなかった。
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交通アクセス
1、寧坡空港からの空港バスは一人 12元。毎時 30分発。
2、寧坡空港から地下鉄では、一人 5元(旧市街地の鼓楼駅まで)。ただし、地下鉄駅は空港到着ロビーから相当に距離があるので、わざわざ無料の専用バスに乗って、駅入り口まで目指さねばならない。実際、空港から地下鉄自体を利用する市民はほとんどいない。
3、タクシーでも 35元ぐらいで市内に到着できる(旧市街地の西門口駅まで)。
なお、寧坡市内で驚いたのは、タクシー料金の安さだ。メーターの上昇スピードが異様に遅い。市内なら、20分ぐらい乗り続けても 20元ぐらいである(初乗りは 10元)。
投宿先のホテルは鼓楼エリアがベスト。ここは旧市街地の交通の中心地区となっており、非常に便利。
ちなみに、寧坡市内の路線バスは深夜まで運行されている。一律、乗車運賃は 2元。
寧坡鉄道駅は、他の都市では珍しく普通列車と高速鉄道が同じ駅に停車する、非常に便利な駅となっている。
帰りは、鼓楼から地下鉄2番線で終点の国際空港駅まで移動した(5元)。所要時間は20分ほど。ここから、B出口より地上に上がり、無料の空港バスに乗り換えることになる(3~5分ほど)。他の乗客の後をついていく形で、無事にバスに乗れた。 空港ビルと地下鉄駅が直結されていないため、かなり不便な地下鉄交通だと思う。
空港到着時は、なぜ空港客らは地下鉄へ向かって進まないのか疑問であったが、帰りにその合点がいった。
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