BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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四川省 綿陽市 平武県 ~ 県内人口 18.5万人、 一人当たり GDP 32,000 元 (綿陽市 全体)


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  平武県城(江油戍、江油関):三国志遺跡
  三国時代の 江油戍



この地は、かつて周、秦王朝の時代、氐羌民族らの少数民族が居住し、彼らが建国した白馬国の一部を成していたようである(現在も多数の少数民族が存続している)。
前漢時代には漢王朝に服従するも、中原で戦乱が勃発する度に反旗を翻したり、服従したりを繰り返していたようである

後漢時代の 108年、広漢郡 北部の山岳地帯を分割して、広漢属国という行政区を新設した。その役所は甘粛省文県に開設される。剛氐道(かつての 平武県 地域一帯の旧名)はこの広漢属国に所属することになる。

後漢末の 215年、陽平関の戦いの後、漢中 の張魯を下した魏の曹操は、後漢皇帝「献帝」の名にて、広漢属国を陰平郡と改名させる。剛氐道一帯もそのまま陰平郡に帰属することとなった。

そして219年、劉備の蜀軍が 漢中 を奪取した折、同時に陰平郡内の「剛氐道」一帯も占領したようで、その直後より、劉備側により、現在の江油市からさらに北へ 50 kmほど涪河の上流にある、現在の綿陽市平武県南壩鎮の旧市街地一帯に、軍事要塞「江油戍(江油関)」が築かれる。これは、魏軍による 陰平郡「摩天嶺山脈ルート」南下にそなえ、その最前線基地としての防衛拠点的役割を担うことになった。

綿陽市平武県

この後 10年間、陰平郡自体は引き続き、魏領に帰属し、この隠平郡役所は前述の甘粛省文県内に設置されてはいたものの、南北に分かれて魏と蜀に分割統治され、さらに、蜀に漢中を占領された魏側からすると、同じ漢中盆地の一部を成す陰平郡北部と武都郡の防衛上の不利は明らかとなり、この地の放棄政策が進められることとなった。すなわち、当時の最も大事な資源とも言える「居住民」らの移住斡旋である。この地元では 氐民族らが多く住んでいたが、彼らの半数以上がより北側の天水郡や扶風へ移住してしまい、相当な人口空白地帯と化していく。
逆に、劉備が設置した 軍事要塞「江油戍(江油関)」は、蜀の「涪城」を通る涪河の河川上流域に設置されており、どちらかと言えば、蜀の 梓潼郡 からのアクセスの方が便利であったことは明らかで、その後も人口が増え続けることになったようである。

綿陽市平武県

蜀皇帝「劉禅」の時代の 229年、諸葛亮は第三次北伐を決行し、武都・陰平の両郡を攻撃し、占領する(実際は簡単に降伏させただけ)。この時、第一次北伐の際、馬謖を切って降格した孔明は、再び、丞相の地位に復帰している。そして、蜀の占領地である陰平郡において、その南部の剛氐道南側一帯に「広武県」を新設し、同時に剛氐道は改名され剛氐県とされた。
第五次北伐遠征の途上の 234年、諸葛亮は病死する。

綿陽市平武県

その後も、蜀は蔣琬や費褘、董允などの能吏に支えられ国体を維持していたが、ついに 263年10月、魏軍の侵攻を受ける。 このとき、魏将の鄧艾は剣閣ルートを避け、陰平ルートを強行して蜀侵攻を実行し、蜀の最前線の要塞「江油戍(江油関)」の 守将「馬邈」を降伏させ、蜀成都をついて蜀を滅亡させる。

280年の西晋王朝による三国統一後、広武県は平武県と改名され、この地名が現在まで残ることとなる。この「平武」の地名は、陰平郡の「平」と 広武県の「武」から合成され、天下これ太平、永遠に武力を放棄する、という意味を込めたものという。


しかし、太平の世は続かず、西晋末期の 309年、益州にて李雄が成漢国を建国する。このとき、陰平郡の平武県、剛氐県は成漢国に帰属した。やはり陰平郡の南部は蜀側からのアクセスの方が便利な場所であったわけである。

南北朝時代の 347年、東晋国より桓温が派遣され、成漢国は滅亡する。そして、平武、剛氐県は東晋国の版図に入った。同年、剛氐県は廃止され、平武県に併合される。その県役所は、かつて劉備が 軍事要塞「江油戍(江油関)」を築城した、現在の平武県南壩鎮に設置される。また、引き続き、陰平郡に帰属するものとされたが、北部は北朝に占領され、南北に分断されていたので、南朝側は陰平郡の郡役所を現在の江油市小溪壩鎮に開設した。
南朝を引き継いだ宋朝、斉朝の時代も、この行政区はそのまま継承される。

西魏、隋、唐、五胡六国時代、そして宋代と度々、行政区が変更されるが地名はそのまま使われた。南宋の時代、モンゴル軍との最前線ということもあり、県役所が廃止され、州直属、および軍直属の管理地とされる。元の中国統一後もこの軍管理体制での知行が行われ、明代に一時、改名される。
そして、明代の 1590年以降、今日まで平武県の県役所として最終確定されることになる。

綿陽市平武県

さて、この 軍事要塞「江油戍(江油関)」は、先に触れた通り、263年の魏による蜀侵攻で、重要なターニング・ポイントとなった場所として知られる。

魏軍により漢中を占領されてしまった蜀防衛軍の姜維ら主力部隊は、漢中郡と益州最北部の梓潼郡との境に築かれた剣閣に立てこもり、魏軍の猛攻を食い止める。総大将「鍾会」はこの剣閣攻略による正攻法を主張したが、副将「鄧艾」は力攻めを避け、さらに西側の 自領「陰平郡」の山間部を突破することを提案し、これを決行する。

このとき、魏の「鄧艾」軍は、剣閣から漢中を通過して陰平郡北部に入り、この地の 郡役所「陰平郡城(現、甘粛省文県)」を降伏させ、ここから急峻な山々を超えて、涪河の上流域である現在の平武県に入り、そこから涪河を南下して、江油関へと迫る。

綿陽市平武県

そして、蜀の 対「陰平」側の最前線であった江油関は、魏の強行軍の出現に驚き、城主「馬邈」はすぐに降伏。魏軍はこの地で食料や武器を調達して、蜀の成都を目指すことになる。
休息も束の間、魏軍先方隊は涪河を南下し、涪城(現、綿陽市)に迫るも、蜀の防衛を任された諸葛瞻らの守備部隊に、先発隊が撃退される。しかし、なぜか諸葛瞻らはいったん涪城を放棄し、さらに南の 綿竹城 へ撤退し、涪城と綿竹との間に広がる山間部での迎撃戦を強行することになる。しかし、用兵術に勝る 魏将「鄧艾」による伏兵に合い大敗、多くの重要将軍らが戦死。この知らせを受け、剣閣籠城中の姜維も剣閣を放棄し、成都へ急行し、雒城まで到着するも、劉禅による武装放棄の命を受け、蜀は滅亡することになった。


綿陽市平武県

なお、この平武県古城であるが、城壁はすべて撤去されてしまっているものの、わずかながら、路地にその名残を残していた。北街、南街、東街、西街、東門、西門、城湾巷、武廟巷。


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