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訪問日:2015年 5月中旬 『大陸西遊記』~


甘粛省天水市清水県 ~ 人口 35万人、 一人当たり GDP 13,000 元


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  清水県城(識睦県城、坻聚県城、永清堡遺跡)
  趙充国の記念公園
  清水西城
  諸葛垒村(第一次北伐戦で、孔明が訪問した蜀軍の陣地跡)
  清水県の歴史



清水県

さてさて、清水県内にあった県城跡であるが、かつては 永清堡遺跡 として、つい最近まで南面の城壁が 残されていたらしいが、近年の都市開発のあおりを受け、わずかな残骸を残すのみとなってしまっていた(下写真)。 つい数年前まで、下写真の土壁はずっと東西に何十メートルも残されていたという。

清水県

筆者の訪問当日(2015年5月)も、家屋の建設工事で城壁破壊が進む真最中であった。 さんざんに削られまくって、断末魔にあえぐ最後の城壁部分である(下写真)。

清水県

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付近の商店主に話を聞いてみると、1980年ごろまでは、南門、および、南側の城壁一帯が残っていたというが、年々削られていき、今では20mにも満たない土の塊と化していた。。。あと1年もすれば、もう存在していないであろう。そう思うと、ギリギリ、写真に残せることができたわけで、運がよかったというか、何か悲しい気持ちになった。

下写真左は今に残る南門巷。かつて、この付近に南門があったわけである。
下写真右はその南門一帯の西側を流れていた小川。市街地区では地下を流れているので気が付かないが、 上流の山手側にはしっかりその存在が確認できた。かつての西側の外濠を形成したものである。

清水県 清水県

古城の南西側の小高い丘上にある上水溝山神廟から古城一帯を臨む(下写真)。 ちょうど眼前の道路が、かつての南側城壁の外濠跡である。

この清水県城であるが、ちょうど南側から北側の牛頭河まで続く、ゆるやかな丘の斜面を利用して、 その中腹に築城されていたらしい。南高北低の地形である。
一般的な城郭は北高南低のパターンが多いが、清水県城は全く逆の地形で築城されていた。

清水県

下写真は北側の丘上から古城地区を眺めたもの。 南に山、北に河を要する南高北低ぶりがよく分かる。

かつて前漢朝の武帝の治世下、市街地の北西側の李崖の台地上に旧城が築城されていたわけであるが、 特に唐末期の戦乱で荒廃が激しく、850年ごろに南岸側に移築されることとなり、 陰陽が逆となっているがそのまま工事が決行されたのであろうか。。。

清水県

今でも古城の外濠を形成していた東西の小川が 残されているが、もうほとんど水の流れはない。北側の牛頭河は水をせき止めて、 水を満たす格好で河川の体を見せていた(下写真右)。
西側の小川で牛たちが草を食べていた(下写真左)。北側の牛頭河と合流することになる小川だが、 古代より牛にまつわる河川だったから、このように命名されたのであろうか。

清水県 清水県

南西側の上水溝山神廟という場所は、ちょうど南側城壁の西外に位置する、古城跡に最も近い高台であるが、かつて、ここに見張り台が設置されていたようである。その後ろの台地に小学校の校舎がそびえたつ。今でも上水溝山神廟の周囲にある土壁の一部は、当時の見張り台の城壁の一部らしい。

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一時期、上邽県城 とも呼称された清水古城であるが(清水県博物館内に古写真あり)、今ではほとんど現存しておらず、一部の路地や地名、そして城皇廟に名残を残すのみとなっていた(下写真)。
南門巷、西関、城北運河、県前巷などなど。

清水県 清水県

なお、清水県は前漢朝の名将軍である趙充国が葬られらた地としての方が有名である。彼が存命のころ、前漢の武帝がこの市街地の北西側にある李崖の上に城塞を築城しており、西域民族との折衝を担当していた趙充国も、この築城工事に関わっていたと考えられる。彼の死後、この旧城の郊外に葬られたということである。その墓所が今も残されていた。

清水県 清水県

また、近年に入って彼を記念する公園や銅像も整備されていた。

清水県 清水県

最後に、以下は清水博物館を訪問した折の余談話である。

博物館内はきれいに内装されており、快適であったが、その実は発掘された土器や道鏡、装飾品類などが陳列されているだけであった。しかし、博物館員の方はフレンドリーで、今までにない好待遇でマンツーマンによる案内を受けた。英語を使いたかったらしく、一生懸命、錆びつきつつあった英語で話しかけてくれた。2015年当時で、天水市内でも4人しかいない中級の旅行ガイド資格を有するという林麗泙さんだった。後に訪問される方は、是非、彼女を頼ってほしい。中国の旅行ガイド資格は、毎年4月に試験を受けて更新する(更新登録料200元強)必要があるものの、この地方都市ではせっかくの英語力も、ガイド資格も有効に活かせないと嘆いておられた。。。。この地がもっと古城や城壁を保護してアピールしていれば、彼女もきっとその能力と努力をもっと開花し得たであろうにと、つくづく惜しまれた。
なお、県内では宋代の古墳から多数、貴重な古代文物が出土しているらしく、博物館の展示物の大部分を占めていた。


  交通アクセス

天水 駅前のバスターミナルから、清水県へ出発。15元。 1時間半ほど。途中、道中の田舎町で乗客が乗り降りするため、時間がかかる。
清水県から天水へのバスは頻繁に出ている。最終便は19:45ごろ(夏時間帯)。この時間帯となると乗降客も少なく、 30分強で天水に帰れる。冬時間帯は、もっと早くにバスなどの交通手段がなくなるだろう。



しかし、道々に連なる険しい山々と乾燥した黄土台地を見るにつけ、 この地が交通に適さず、それ故に山岳地帯に開拓されていた旧シルクロードが 貴重な街道であり、このルートを巡って蜀魏が争った街亭の地の重要さを痛感した次第である
また、これらの山々が岩山ではなく、主に黄土による砂山であるため、所々で崩落個所が目についた。 長雨が続くと、土壌がもろいため、すぐに土砂崩れが起こるであろう。

地元の人が言うには、冬はマイナスまでの気温が下がり、雪が降るらしい。その分、夏は涼しいとのこと。


清水県の歴史

この地域は、元来、清水河が運ぶ肥沃な土壌を背景に動植物が繁茂し、かつまた、急峻な山岳地帯や草原地帯が広がり、馬の飼育が盛んに行われてきた。こうした環境が秦や西域民族の強力な騎馬軍団形成の基礎となっていく。紀元前688年、秦国の武公はこの地に跋扈した邦戒族らを平定し、新たに邽県役所(現在の 天水市秦州区 の耤河南岸)を設置した。後に、上邽県へ改名される。今の清水県一帯もここの管轄下に組み込まれた。
紀元前221年、秦の始皇帝が中国全土を統一すると、全国統治機構として36郡が設置され、上邽県は隴西郡に帰属されることとなる。

そして、前漢朝の勢力が西域へさらに拡張されるに伴い、7代目皇帝の武帝の治世下の紀元前115年、上邦県から分離される形で清水県が新設される。「清泉四柱」から命名されたという。当初の県役所は天水市清水県永清鎮李崖村(古城地区から見て牛頭河の北側対岸にある高台一帯)に築城されたという。今日、趙充国の墓所が設置されている台地である。

続いて、紀元前114年に隴西郡から天水郡が分離・新設され、上邽県および、清水県は天水郡へ移籍される。ちなみに、この「天水」の命名は、秦末の「天河注水」の伝説に由来させたという。

前漢王朝から権力を簒奪した王莽による新王朝の治世下、清水県は識睦県へ改称される。しかし、新王朝の旧態復古の統治手法は多くの矛盾を噴出させ、各地に農民反乱と軍閥勢力を生み出すこととなる。このとき、蜀地方に勢力圏を張ったのが公孫述で、関中の後漢勢力に対抗すべく、清水県より西8kmの山頂に清水西城(今の紅堡鎮西城村一帯)を築城している。

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その公孫述政権も36年に後漢の劉秀により滅亡させられ、蜀の地も後漢王朝の統治下に組み込まれることとなった。後漢時代の74年、清水県は坻聚県へ改称される。

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時は三国時代。魏の曹操が220年に死去すると、息子の曹丕が魏王となる。このとき、秦州が新設され、天水郡の郡都であった冀県城内(今の天水市甘谷県の南東部)に州役所が併設される。天水市の一帯は、もともと秦王朝の発祥の地であり、これにちなんだ命名となったという。
また、あわせて坻聚県が清水県へ戻される。

翌221年には、天水郡から広魏郡が分離・新設され、清水県、平襄県、略陽県、臨渭県(郡都を兼任)の4県が広魏郡の管轄下へ移籍される。
天水郡下には、冀県(今の甘谷県南東部)、显新県(今の秦安県の北西部)、成紀県、西県、上邽県、新陽県(今の天水市北道区の北西部)の6県が配された。 228年の孔明による第一次北伐に際し、姜維はこの上邽県城で太守の馬遵に締め出され、郡都の冀県城でも入城を認められず、その郊外で孔明に降伏することとなったわけである。

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西晋の時代に入り、天水郡の郡役所は 上邽県城 内へ移転される。また、清水県が属した広魏郡は略陽郡へ改称される。

南北朝時代に入ると、西方より多くの民族らが流入し、また多くの王朝が建立されては打倒されることが続いたため、清水県一帯の経済や治安も大きなダメージを受けることとなった。特に410年には夏王の赫连勃勃が清水城を陥落させ、清水県を含む略陽郡一帯の16000余戸の住民らを大城(当時の夏王朝の王都・統万城=今の陕西省靖辺県の北側)へ強制移住させ、無人地帯と化してしまう。
唐代に入り、清水県城内には秦州役所が一時的に入居するなど、政治・経済の中心地として繁栄を遂げる。しかし、安史の乱の混乱時には吐蕃族らが侵入し、清水県城も陥落している(下地図)。

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唐末期の848年、鳳翔節度使の崔珙破が吐蕃族を撃破し、清水県を奪還するに及び、鳳翔府 の管轄下に組み込まれる。
しかし、山上にあった旧城は荒廃がすさまじく、新たに牛頭河の南岸に形成されていた集落部分に県城を築城することとなる。これが今に続く古城地区の発祥となる。

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だが、五代十国時代の後唐の治世下の932年、吐蕃族により清水県城は再占領され、その県役所は 上邽城(今の天水市秦州区) へ移転されてしまう。北宋初期の961年に吐蕃族から再奪取され、県役所も元の清水県城内へ再移転される。しかし、その後も度々、吐蕃族の侵入が相次ぎ、この地域は1016年に秦州都部署の曹瑋が吐蕃族らを駆逐することに成功するまで、常に不安定な状態に置かれ続けることとなる。
曹瑋により、清水県城は大規模な改修工事が進められ、強固な城郭都市へと変貌を遂げる。

清水県

その北宋も東北部の金朝の侵略に悩まされ、清水城も陥落する。南宋が名将・呉玠会の率いる軍により一度は奪還に成功するも、すぐに金軍に再占領される。その後、元朝の支配下に組み込まれる。

元朝末期、徐達の率いる明軍により、元清水県長官であった鉄木罕巴が今の馬跑泉で明軍に捕縛され、処刑されるに至り、漢民族の支配が再スタートされることとなる。1371年、県長官となった劉徳は宋時代に改修されていた城壁にさらなる大規模な修繕工事を施す。その明朝も末期となるころには民衆反乱が各地で勃発し、この清水県長官も殺害され、大混乱となる。 1643年に闖王義軍の支配下に組み込まれるも、1645年に清軍の侵攻を受け、その統治下に組み込まれた。以後、近代まで清水県は秦州の管轄下に帰属されることとなった。


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