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海南省海口市瓊山区 ~ 人口 50万人、一人当たり GDP 59,000 元(市全域)


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  瓊山県城(瓊州府城)



【 瓊州府城 】

その昔、 瓊州府役所は、今の海口市瓊山府城鎮にある城街道と濱江街道の一帯に開設されており、 古城時代の中心エリアを形成していた。

当時、この城街道沿いには雷瓊兵備道署、瓊州府署、提督学院行署、瓊州鎮総兵署、 瓊山県署などの各役所庁舎が立ち並び、また、玉皇廟、天寧寺、三公祠、県学宮、 瓊台書院などの宗教施設や教育機関も開設され、まとめて「七井八巷十三街」エリアと総称されていた。

そのメイン・ストリートに接続された、進士坊、舉人坊、貞洁牌坊、北勝街、馬鞍街などの 石畳路地には、馬車の車輪跡などが今日でも残されており、その歴史の重さを感じられる空間となっている。 また、達士巷には当時、多くの名士の一族らが居を構える一帯であったという。

濱江街道の東門社区一帯は、古城時代、緑地公園エリアに相当した。下古地図参照。

瓊山区

そもそも瓊州府城は、北宋時代の972年に築城され、明代の1370年に、城内に瓊州府役所が新設されたのを機に、 大規模化が進められることとなった、大陸中国の最南端に位置した府城で、海南島の政治、文化、軍事の中心を担ってきた地である。

明代初期の1369年、兵部侍郎の孫安が官吏や兵士ら 1000名余りを引き連れて瓊州城に駐留し、海南島を接収する。
翌1370年、元代に設置されていた乾寧安撫司が瓊州府へ改編される。
このとき、瓊州府の府役所が瓊山県城(瓊州城)内に併設され、海南島全土を統括することとなったため、府城と通称されるようになる。 同時にこのとき、城域の拡張工事が開始される。
1379年、府城の強化工事が完成されると、その城郭都市は東西幅が約1400m、南北幅が約700mの楕円形となり、 その城壁の全長は 4,134m 弱、高さ 8.9m、厚さ 9.3m、城壁上の凹凸女壁 1843ヵ所、 城壁倉庫 57ヵ所、それぞれ瓮城と城門楼閣を有する東門(朝陽門、永泰門)、南門(靖南門)、西門(順化門)の三つの城門が配される、巨大な 規模となっていた。城壁外には四方に外堀が掘削された。

なお、府城には防衛上の理由から、海岸線に面した北門が設置されることはなかったが、 北面の城壁上に楼閣「望海楼」が建造されていた。 また、東西南北それぞれの城壁四隅にも角楼が建造され、警備の兵士らの休憩所や武器庫として活用された。

瓊山区

1384年、海南衛指揮の桑昭が、西門外に全長 1,266m の土壁を巡らせ、子城を築造する。 ここに府城は内城と外城の 2エリアを有する最終形態へと完成を見ることとなった。上古絵図。
明代の1605年、瓊山大地震が発生し、大部分の城壁と楼閣などが倒壊するも、すぐに再建される。

清代も明代の城壁が踏襲されるも、惜しくも1983年、都市開発のあおりを受け、城壁の大部分が撤去されてしまう。 現在では、東城門(東門里に現存)、西城門(忠介路草牙巷に現存)、 そして長さ約 110mの石積み城壁の一部 (高さ 1.2~2mと幅 5.2~5.9mのみ)のみがわずかに残されるだけという。
また、かつての東門付近では、現在でも城壁の一部が見られる。 旧城壁の湾曲面が民家の新しい壁にくっつく形で再利用され、その一部と化しているといい、 東側城壁の名残を今に伝える貴重な遺構であると指摘される。
さらに東門外には、幅 25~30m、深さ 2m程度の美舎河が流れ、かつての外堀跡という。

南門(靖南門)は、かつて鼓楼街にあったが現存せず、同じく小西門(外城の城門)と望海楼も すでに現存しない。

瓊山区

なお、古城内にあった鼓楼は、現在の鼓楼街に移築されており、当時の姿を今に伝えている。 もともと、この鼓楼(別称:譙楼、文明楼)は府城内の文庄路の南側に建設されていたという。

明代の1372年に創建以来、明代、清代を通じて、幾度も建て替えられ、現存する 鼓楼は清代中期の1788年建造のものだという。

また、この鼓楼の台座は明代中期の1481年に築造されたもので、縦 28m、横 24m、高さ 6.39mにもなるという。
両拱門は横 4.6m、高さ 7.1mで、門の表札には「海南壮観」と「奇甸文明」の文言が記されている。


【 海口市瓊山区の歴史 】

前漢時代の紀元前111年、第七代皇帝の武帝は伏波将軍の路博徳、楼船将軍の楊仆らを派遣し、南越国を滅ぼす。
翌紀元前110年、海南島に珠崖郡(今の海口市瓊山区龍塘鎮潭口村と大賓村の一帯)と儋耳郡(今の儋州市三都鎮)の二郡が新設される(下地図)。

瓊山区

紀元前46年春、儋耳郡が廃止され、また続いて珠崖郡も廃止される。以後、前漢朝の統治が及ばない無法地帯の島と化す。

後漢時代の43年、伏波将軍の馬援が交趾を平定すると、海南島へも上陸し、前漢時代の珠崖県城跡地に改めて珠崖県役所が復活設置され、 合浦郡の管轄下に組み込まれる(同時に、海南島の対岸・雷州半島上に設置されていた朱盧県が廃止される)。
67年、儋耳県もまた復活設置され、珠崖県と儋耳県の二県は共に交州合浦郡下に配された。

三国時代は呉の統治下にあり、240年、雷州半島に珠崖郡(郡都は今の広東省湛江市徐聞県)が新設され、徐聞県、朱盧県、珠官県の3県を統括することとされた(高州に帰属)。海南島に対しては直接支配が放棄され、 地元の豪族を間接支配する体制へ変更される。

西晋朝が呉を滅ぼし、中国を再統一した280年、珠崖郡が廃止され、合浦郡へ吸収合併される。朱盧県が玳瑁県へ改称される。
この時代、合浦郡下には、合浦県(今の広西省北海市合浦県城草鞋村)、南平県、荡昌県(今の広西省玉林市容県)、徐聞県、玳瑁県、珠官県(間もなく廃止)の6県が配された(交州に帰属)。

南北朝時代の劉宋朝下の431年に珠崖郡(郡都は徐聞県城)が復活設置される(下地図)。 しかし、珠崖郡は間もなく廃止され、雷州半島上の珠官県と朱盧県は、越州に組み込まれた。海南島は地元豪族を通じた間接統治というスタイルが採用された。

瓊山区

梁朝の治世下の540年、300年ぶりに中華王朝による直接支配体制に編入されることとなる。
この当時、前漢時代からの儋耳郡城跡には、地元豪族の冼夫人が1000名の手下を連れて 不法占拠していたが、梁朝に帰順し、崖州(州都は儋耳郡城)が新設されたのだった(広州に帰属)。

隋代、海南島には臨振郡と珠崖郡(607年に崖州から改編。州都は義倫県城)の2郡が設置された。

唐代の632年、崖州下の瓊山県城内に瓊州の州役所が新設され、瓊山県、臨機県、万安県、富遼県などの五県を統括した。
639年、瓊山県域が分割され、会口県、顔羅県、容瓊県の三県が新設される(そのまま瓊州に帰属)。
660年に容瓊置から楽会県が分離・新設される(同じく瓊州に帰属)。
667年に瓊州で反乱が勃発し、南部民族の黎族(現在も海南島の少数民族の90%を占める)が海南島全土を占領してしまう。
789年、嶺南節度使の李复が瓊州を再平定すると、瓊州都督府が新設され、瓊州、崖州、振州、儋州、万安州の五州を統括することとされる。
このとき、瓊州下には瓊山県、臨高県、会口県、楽会県(今の瓊海市烟塘鎮福石嶺管区泗村)、顔羅県などが配され、続く南漢朝時代の瓊州は瓊山県と楽会県のみ管轄された。

瓊山区

971年、北宋が南漢朝を滅ぼすと、海南島の行政区に関し、大規模な調整が施される(上地図)。
もともと崖州の管轄下にあった海南島北部の舍城県、澄邁県(今の海口市澄邁県老城鎮)、文昌県(今の文昌市文昌市文城鎮)等を分離し、新設する瓊州の帰属とした。瓊州の州役所が瓊山県城に併設され、瓊山県、汀邁県、文昌県、舍城県、臨高県、楽会県の六県を統括することとされる。

翌972年、瓊州県城の築城工事がほぼ完成する。当時は、まだ小規模な城郭都市にとどまった。
南宋時代、瓊州は五県体制となる。

元代に瓊州が瓊州路へ改編されると同時に、海北海南道宣慰司(後に乾寧軍民安撫司へ改編)が海南島の最高統括機関として新設される。
瓊山区

明朝が建国されたばかりの1368年、広東省が平定されると、元朝時代の乾寧安撫司が瓊州府へ改編され、海南島の上級行政区であった儋州、崖州、万州の三州と、その配下の13県を管轄することとなる(上地図)。このとき、南シナ海の諸島群は崖州の管轄区とされた。

清代も、基本的に明代の統治制度が踏襲される。
清末、瓊州府下には一州と7県が配されていた。すなわち、儋州、瓊山県、澄邁県(1895年に今の南渡江沿いの海口市澄邁県金江鎮へ移転)、臨高県、定安県、文昌県(今の文昌市文昌市文城鎮)、会同県、楽会県(今の瓊海市朝陽郷旧県坡)である。下地図。

瓊山区

清仏間で締結された天津条約により(1858年)、フランスは北京に公館を開設するとともに、新規開港された瓊州、潮州、台湾、淡水、登州、江寧の六都市にも領事館の開設が決定される 。

1914年、瓊州府が廃止されると、海南特別行政区となり、広東省に帰属された。


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