BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年 5月中旬 『大陸西遊記』~


陝西省 宝鶏市(岐山県 / 眉県)~ 両県人口 85万人、一人当たり GDP 23,000 元(宝鶏市 全体)


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  五丈原の古戦場 と 諸葛廟
  恐怖の「八卦の陣」館
  孔明の五丈原での 屯田作戦 - 慣れない蜀兵らの 小麦栽培
  安漢県城(【初代】武功県城、漢光邑城、郿県城、眉県城)
  五丈原の戦いの 前哨戦
  五丈原の戦い ~ 魏軍の 布陣図



【 五丈原の古戦場 と 諸葛廟 】

岐山県 / 眉県

上写真の右端が諸葛廟。ここに廟が設置されたのは、唐代初期のころであった。周囲は小麦畑と数多くの墓標が立ち並ぶ(上写真)。

岐山県 / 眉県 岐山県 / 眉県

五丈原の諸葛廟では、門前にしつこく線光を売りつけてくるおばさんたちを振り払って、入り口へと向かう。見学料 20元(中国人のフリをすれば現地人料金となる。表示の 35元は外国人価格であろう)。

岐山県 / 眉県 岐山県 / 眉県

この諸葛廟内で、筆者が最も気に入ったものは、諸葛亮孔明の衣服を埋葬した塚である。この地で死去した諸葛亮を偲び、蜀の諸将らが彼の衣類や冠をここに埋めたという伝承によるらしい(上写真)。
また 廟内に設置された、北伐に同行した蜀後半の諸将らの人形群も興奮を覚える。

なお、この境内にある「八卦の陣」館は、もはや、お化け屋敷であった。その実は、是非、一人で入って味わってほしい。かなりスリルがある(下写真左)。

岐山県 / 眉県 岐山県 / 眉県

廟前の広場や駐車場からは、五丈原平原と渭河を一望できる。三国時代、この一面には蜀の陣営が築かれていたことであろう。そして、河の対岸側には魏軍の陣地が見えたに違いない(下写真)。

岐山県 / 眉県 岐山県 / 眉県

第五次北伐 を決行した当初、蜀軍は東の武功水を渡河した先の眉県の市街地近くに兵を展開していたのだが、一向に交戦しようとしない司馬懿軍と後に到着した魏の援軍を前に、短期決戦での東進を断念し、兵力差を補うべく、いったん五丈原の高台へ後退し陣地構築を図ることとなった。
ちょうど旧暦 5月に眉県近くで魏領内の小麦を収穫したばかりであったので、蜀軍の食糧は充実していたはずである。

孔明は五丈原で屯田して長期決戦の準備を進めたとされるが、実際、漢中市と秦嶺山脈を越えた宝鶏市とを比較すればすぐに分かるが、天候や土壌が全く異なるので、実際には稲作を進めたというより、慣れない小麦栽培を地元民から教わりながら農地開墾を実施したはずである。

岐山県 / 眉県 岐山県 / 眉県

実際、筆者が訪れたときでも、五丈原の高台上には小麦畑が一面に広がっていた(上写真)。隴西省・甘粛省ならではの水が少なく乾燥した土地に強い農作物として、この地では稲作よりも適していたはずである。しかし、五丈原でようやく秋の収穫が始まろうとしていた矢先の旧暦 8月、ついに諸葛亮は過労死することとなるのであった。

この五丈原台地自体、岩山ではなく、この地方によくある砂地が積み重なった高台で、容易に地面を掘削し、土地を変形させて陣地構築や畑の造成を進めることができただろうと思われる。ただし、長雨に見舞われると、土壌はもろく、崩落しやすいに違いない。

230年8月に、大司馬となった曹真を大将軍として魏の蜀遠征が決行されるが、秋の長雨と重なり、進軍もままならずに撤退となっている。そのぬかるみや土砂崩落の度合いは相当にひどかったと想像する。


  交通アクセス

宝鶏 バスターミナルから、蔡家坡鎮(高速バス 16.5元)行きのバス。所要時間約 1時間。

岐山県 / 眉県 岐山県 / 眉県

蔡家坡鎮に到着後、終点バスターミナル(蔡家坡鎮)のチケット売り場で、「五丈原、諸葛廟」というメモ書きを見せれば、すぐにチケットを出してくれる(窓口手数料込 3.7元)。あとは バス(鶏坡村行き)の乗車時間まで待つ。だいたい 40分に一本の割合。ここから、さらに乗車時間 30分。

もし、直接、路上でバスに乗車すれば、3.5元(つまり、バス窓口手数料 0.2元がケチれる)。
蔡家坡鎮への帰りは、諸葛廟前の駐車場で、直接、バスに乗車するので、3.5元となる。

ちなみに、この諸葛廟前で下車せずに、終点の鶏坡村まで行くと、斜峪関村に到着する。ここには蜀の桟道「斜谷道」が通り、諸葛亮の第五次遠征時の進出・撤退の通過ルートとなった場所である。

なお、2015年5月現在、すでに高速鉄道の 停車駅(岐山五丈原高鉄客運駅)が完成されていた。西安や北京からでも直接、アクセスできるはずだ。



ところで、隴西省内で広く見られる屋根瓦があまりに特徴的で気になってしまった。
他の省では、だいたい屋根の左右両側のみに鯱のような飾りがあるのみだが、隴西省内の家屋では、左右のみならず、中心部、さらにその途中にも数カ所ずつ均等に飾りが備え付けられていた(下写真)。
韓国ソウルで見た 王宮の屋根瓦 を思い出した。

岐山県 / 眉県


【 安漢県城(初代・武功県城、漢光邑城、郿県城、眉県城) 】

この 隴西省宝鶏市郿県(眉県)であるが、三国時代に蜀の諸葛孔明が最後の北伐遠征で五丈原に陣を進めた際、魏軍の最前線基地となっていた場所である(下地図)。
当時は、安漢県城が存在し、その南側に司馬懿の本陣が設営されていた。

岐山県 / 眉県

まず、この地域の歴史を外観してみる。
戦国時代期、秦国により、最初の 郿県城(今の 眉県常興鎮白家村)が設置される。当時の記録によると、郿県城は東西約 200 m強、南北約 80 mの城域を有し、その城壁は高さ約 8 m、幅 5 mの規模を誇ったという。戦国時代期の 4大名将(他に廉頗、李牧、王翦)の一人に挙げられる 白起(?~紀元前 257年没)の故郷にちなみ、後世、白起城と呼称されたという。

続いて、秦の孝公により紀元前 350年、今の眉県市街地と渭水の間に武功県城が新設される。これが後に 安漢県城(眉県城)となる城塞である。

紀元前 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、渭水の北岸に栄県城が新設される。完成後、郿県役所が白起城からここに移転され、郿県と改称されたという。ただし、その場所ははっきりとは解明されていないようで、一説では今の常興鎮の西側、また一説では今の馬家陳車圈村一帯とも言われる(だいたい上地図の郿県城のあたり)。

前漢朝も秦代の行政区を踏襲し、渭水の南岸側には武功県城が、北岸には郿県城が存在していた。

前漢朝から権力を簒奪した王莽は、同時に漢王室から安漢公に封じられ、これを記念して武功県が漢光邑へと改称される。

その新朝も間もなく打倒され、25年に劉秀により後漢朝が建国されると、武功県(漢光邑から再変更)と 邰県(今の 楊凌区杜家坡と 扶風県揉谷郷法禧村、および疙瘩廟の一帯を管轄した)が廃止される。

しかし、2代目皇帝・明帝の治世下の 65年、渭水の北岸にあった邰県城跡に再び武功県役所が開設され、武功県城となる(下地図)。

岐山県 / 眉県

後漢末期に董卓が洛陽に上洛し、朝廷を牛耳った直後の 189年、秦代より開設されていた「郿県城」の南の対岸にあった 漢光邑(渭水の南岸側の【初代】武功県城)が安漢県へ昇格される。

この状態で、234年の諸葛亮による第五次北伐を迎えることとなるのであった(上地図)。

岐山県 / 眉県

当時、安漢県と呼称されていた当地が、現在に残る 郿県(後に眉県)と改称されるのは、三国時代を統一した西晋朝下の 287年のことであった(渭水の北岸にあった元祖「郿県城」は廃城となる)。祖父の司馬懿を記念して、西晋初代皇帝の司馬炎が対蜀戦での最前線基地となった安漢県城内に 郿県役所(後に眉県)を移転したのであろうか。

今日現在、かつての古城時代の面影や路地名などは全く残されていない。


【 五丈原の戦いの 全貌を探る! 】

岐山県 / 眉県

諸葛孔明が 234年2月に漢中より五丈原へ向けて出陣した折、渭水の南岸にあった安漢県城が最初のターゲットとされた。この当時、渭水の北岸には、秦代から続く郿県城と後漢時代に復活設置された武功県城の 2城があったわけで、魏軍はこれらを防衛ラインとして渭水の南岸側の蜀軍と対峙しようとした。つまり、南岸側の集落地である「安漢県城」という小城や小麦農家らは見捨てるという作戦である(上地図)。

しかし、大都督の司馬懿だけが南岸側への渡河を主張し、諸将の反対を押し切って渭水の南北に防衛ラインを構築する作戦を強行する。南岸側の陣地はまさに背水の陣を意味した。大都督の司馬懿の本陣もここの陣地要塞内に設置されたと見られる。

3月早々にも蜀軍の先鋒隊が南岸一帯に到着し、魏陣営や安漢県城一帯を攻撃するも戦果を得られず撤退する。魏軍は安漢県城の周囲に十分な城塞を構築して、ひたすら防衛に徹するのみであったという。

そのうち孔明率いる本軍も南岸に到着する。しかし、同様に戦線は膠着状態が続く。ここで諸葛亮は魏軍を誘い出そうと、ちょうど旧暦 5月で刈り入れ時期に入っていた小麦を魏軍の眼前で収穫し出す。しかし、それでも魏軍は一向に陣外へ出ようとはせず、そのうち小麦の収穫も完全に終了する。十分な食糧を手に入れた蜀軍はますます強勢となる。あわせて、この第五次遠征では初めて木流馬が使われ、蜀本国からの兵糧輸送を担ったこともあり、蜀軍 10万の長期遠征の準備は万全となっていた。

この頃、魏朝廷より援軍として派遣された秦朗の率いる 2万の軍勢が司馬懿軍と合流する。

岐山県 / 眉県

ここに至って、兵力差が大きく拡大してしまい、平野での短期決戦が不可能と見た孔明は、陣を西の五丈原へと後退させる。それまで武功水を東に渡河し、司馬懿同様に背水の陣となっていた蜀本軍だったが、五丈原の高台上に防衛陣を構築することで、兵力差を補おうと図る。

しかし、引き続き、蜀軍は武功水の東岸にも前衛基地を保持していたらしい。

孔明は司馬懿に女装を親展するなど、魏軍への挑発を何度も繰り返したが、魏の朝廷は司馬懿らに一切の交戦許可を出さず、前線の司馬懿らはただただ蜀軍の食糧と気力が尽きるのを待つ長期戦を耐え抜くこととなる。

3年前の孔明による第四次北伐戦で、魏の名将・張郃が打たれた衝撃は魏の朝廷に大きな教訓を残しており、ひたすら蜀軍が自然に撤退するのを待つことに徹したわけである。

こうした中、五丈原の台地に陣取ってから 100日前後経った 8月、 55歳(中国は数え年)の孔明は過労のため陣中にて病没するのであった。


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