BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年6月上旬 『大陸西遊記』~


四川省 遂寧市(中心部)船山区 ~ 市内人口 327万人、一人当たり GDP 18,000 元(遂寧市 全体)


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  三国時代の 遂寧郡城(広漢県城)
  遂寧郡城(広漢県城)の 旧市街地の今
  東晋朝の名将軍・桓温 と 遂寧
  金玉横街
  碼頭 と 二郎廟
  観音寺地区の 開発プロジェクト
  霊泉寺 と 伝説の日本語案内文!
  宋窯博物館



遂寧市の歴史は長い。劉邦の前漢時代(紀元前 201年)、四川省・重慶市 に相当する巴郡と蜀郡のうち、それぞれ一部を分割して、広漢郡を設置した(郡役所は「広漢県」、梓潼県 に設置、その後、雒県―今の 広漢市 ―へと移設された)。今の 遂寧市 はここに帰属した。

劉備入蜀前の劉璋時代、黄権が広漢郡の一地方都市「広漢県」の県令となっている。当時の県役所は、現在の遂寧市城郭都市跡の北東部分にあった(今の塩市街あたりか)。

遂寧市

劉備の蜀建国の時代、広漢郡から東広漢郡が分割される。広漢郡の郡都は雒城で、その郡太守として、劉備の荊州新野時代からの忠臣「鄧芝」が任命された。彼は、劉備死後の呉との関係修復の際、その代表使者として呉へ赴き、呉の孫権からその弁舌を称賛されている。
234年の孔明死後、呉の備えとして、江州(現在の 重慶)守備を担当。この時代、呉の孫権からたくさんの密使を受け、軍門に下るように勧誘されていたようである。243年に、江州東部の「涪陵」での反乱を平定。彼の死後(251年)、息子の「鄧良」が爵位を継ぐ。基本は中央政界に在籍した。この「鄧良」だが、魏軍の蜀侵攻の際、譙周が劉禅に降伏を勧告し、その降伏書状を成都攻撃準備に入っていた雒城に滞在中の鄧艾に手渡すべく、譙周と張紹とともに3人で雒城に赴く大役を司る。これを手渡された鄧艾は大いに喜んだということで、この3人に手厚い接待をした、という逸話が残る。
蜀滅亡の翌264年に、司馬炎が魏帝から譲渡され、晋帝国を建国する。「鄧良」は他州にある郡太守を拝命し、赴任するも、老母を蜀に残していることもあり、間もなく辞任し、蜀へ帰国する。しかし、司馬炎は彼を高く評価しており、父と同じ広漢郡太守として蜀に残らせることにした、という。
西晋の時代、東広漢郡は廃止され、もとの一つの広漢郡に統一されていた。その郡都は、雒城。


そして、西晋王朝も初代皇帝の司馬炎の死にともない、中原を中心に八王の乱が勃発し、地方への統制力が衰退すると、旧綿竹城 にあった「李特」が晋国に反旗を翻し、広漢郡領内への攻撃を始める。このとき、晋国側は広漢郡の郡役所を、徳陽城 へ移す。しかし、「李特」により攻略される。そして、徳陽城はそのまま新設した徳陽郡都とされ、その後、平定される広漢都と分離されることとなった。

東晋帝国による成漢国の平定後、徳陽郡は 遂寧郡 と改名される。そして、東晋が滅亡し、南北朝時代の南宋宰相「劉宋」によって、東遂寧郡と改名される。また、郡都もより北側の回馬鎮へ移設された。その後、旧広漢郡の郡都「雒県城」は、西遂寧郡の中心都市として改編された。

さてさて、このとき、突発的に現れた「遂寧」の名前だが、その由来は、同市随一の繁華街(遂州中路と徳勝路の交差点一帯)の入り口に立つ、将軍「桓温」(312~373年)の銅像下に詳しい解説があった。
この人こそ、「遂寧」の街名の命名者である、という。曰く、東晋時代347年の遠征時、蜀にあった成漢国を平定後、その道中に通りかかった、この地(当時は、広漢県城)で、涪江の山水の美しさや肥沃な土柄、土地の人々の豊かさを褒め称え、歴戦の疲れも癒されるという意味で、「息乱安寧」という熟語から取って、「遂寧」という命名を施した、ということである。

遂寧市 遂寧市

以後も、度重なる管轄地の変更があったようだが、「遂寧」の名称はこの時以後、不変となる。

この遂寧城は、南宋時代、蜀を蹂躙したモンゴル軍により荒廃させられる。その前後の一時期は、州都や府都にもなった同地であるが、最終的に明の時代、県役所城として一地方都市となり、そのまま継続されることとなったようである。

ちなみに、現在の遂寧市の中心街だが、平日の日中はやたらと閑散としている。これで商売が成り立つのか、と心配になっていたが、平日夜間や休日ともなれば、大賑わいであった。 2014年6月現在、マクドナルドは未だ進出していなかったが、ケンタッキーはしっかりど真ん中に店舗を構えていた。

遂寧市 遂寧市



さて、この街では 城壁跡 は全く発見できなかったが、やはり旧市街地を表す路地名は至る所で残されていたー「塩市街(城郭都市の北側)」「油房街(城郭都市の南側)」「米市街(遂州南路の西)」「鎮江寺街(河の守り神を祭るお寺があったのであろう)」「城河街(かつての堀川跡)」「順城街(かつての城壁跡)」「小北街」「小西街」「小南街」「小東街」「梨園街(むかし、城壁外の河辺には梨の農園があったのだろう、現在は風俗街「桶屋街」になっている)」「鉄貨街」「鶴鳴街(城壁東側外)」「馬房街(城壁西側外)」などなど。。

城壁外の西側に、「馬房街」という路地発見。かつて馬小屋が並ぶ地域で、かつこれを世話する担当者の居住区であったのだろうが、西門外の堀川とさらに外の河との間に設けられており、臭いや汚れ対策として河辺の近くを選択されたのであろう。

遂寧市 遂寧市

旧城壁都市の東門側、南門側あたりに、巨大な古木が残されていた。特に、東門側は道路のど真ん中にも関わらず、大切に保存されている。南門側は、遂州南路と公園西路の交差点という自動車交通路の交差点脇にあった。この木も伐採されれば、きっと道路の視界もよくなっただろうに、地元民の熱烈なる支持で保存と決定されたのであろうか。偉いぞ、遂寧人!

遂寧市 遂寧市

なお、旧城壁都市の北側に「塩市街」というものがあるが、さらにその北側の城壁外に、「塩関街」「塩関東街」という路地もあった。きっと、かつて城壁都市を管轄する政府機関が城壁都市外にも役所機関を設けて、専売商品であった塩を管理していたのであろう。保管庫か、もしくは通関施設か。それを、城壁都市の「塩市街」へ移送して、ここで商人や庶民に販売していた、と考えられる。
この両者の間には、「北河街」というのもあるから、堀川で隔てられていたのであろう。

余談だが、凱旋中路と老興街の付近に、「金玉横街」という路地を発見。日本語だと、「キンタマ横丁」という解釈もできるが、まあ変な想像をしてしまうのが、日本語が分かる人だけか。ちなみに、この横街の延長上に、桶屋(風俗)街の「梨園街」が続くのも、何かの縁か。あくまでも成り行きな話題なので、あしからず。

遂寧市



さて、話を元に戻そう。徳勝東路の入り口付近に、寺廟がある。浄業禅院(もともとの名前を「愛道仏学社)というお寺で、清朝末に高名な僧(清福和尚)によって開寺されたらしい。背丈 6 mにもなる観音像を本堂にそなえ、省級の文化保存遺産に指定されているそうだ。

遂寧市 遂寧市

また、西の巨河へ足を運んでみると、文化保存遺跡の広徳寺の入り口にあたる仏門が破壊されていた。道路か何かを設置するのだろうが、仏像や寺門がはがされた跡が岩肌に残され、生々しかった。

遂寧市 遂寧市

きっと、この旧城壁都市の周囲には、複数の運河が巡らされていたと推察される。いろんな通りに、その名残が感じられた。写真のような運河の街だったに違いない。

遂寧市 遂寧市

また、旧城郭都市の南側の「碼頭」と呼ばれる、かつて船の渡し場があったは地区、巨大道路と大橋建設で大開発の真っただ中であった(路線バス③の終点)。
ここに、四川省内でたくさんある二郎廟を発見した。


この街は、目下、中国の西部大開発をそのまま体現したような街であった(2014年6月現在)。あちこちで、不動産や道路建設、ショッピングエリア開発などが進められていた。特に目を見張ったのが、旧城壁都市の対岸に広がる三角州エリアと、そのさらに東の対岸にある湿地帯エリアの大開発である。現在、対岸への橋の建設を進めていた。この中州地帯には、一戸建てと思わしき高級住宅街を建設中のように見えた。

遂寧市
遂寧市

そして、さらに 湿地帯地区 には、ショッピングモール、サッカースタジアム、オフィスビル、5つ星ホテルなどの広大な新開発地区を建設中であった。いちおう、すでに 2、3店舗のレストランも開業していた。これだけの巨大地区を造成はしたものの、十分に見合うだけの訪問者が有る得るのであろうか。。。旧市街地の西岸、中州や東岸の新開発区やそのさらに東方にある観音寺地区(伝統的家屋や街並みを再現中)をつなぎあわせて経済の活性化を加速させようという壮大なプロジェクトのようであった(路線バス⑬が遂寧バスターミナル~観音寺地区までここを通過して往復あり)。特に、観光地としても集客をねらっているようで、開発区地区や観光地の観音寺地域には、各所に、中国語、日本語、英語、韓国語の案内板が掲げられているのみに驚いた。国際都市化を目指している意気込みは十分に伝わってくるのだが、問題は、明らかにグーグル翻訳か、口語翻訳した程度の外国語案内となっている点であろう。

遂寧市 遂寧市 遂寧市

そして、その決定的な 日本語 を発見してしまった!場所は、当地最大の観光地としてスポットを当てようとしている、まさに観音寺区の「霊泉寺」の正面入り口に立つ石碑の説明文!

遂寧市

曰く、「王様妙庄は国の将来を考えて、王女の婿を募集することにした。白雀寺に火をかけて中に修行している娘を止めさせようと思っていたのに、マジになっちゃって三姉妹は火になくなっちゃった。しかし、火の中で思い切り鳳凰三つ西天に飛んでいたと見られた。王様妙庄は娘を思って、西山に白雀寺を建て直した。このお寺で、百鳥が鳳凰に参拝に引きつけられたので、民間で「楓風寺」とも呼ばれる。」

この、石に彫った状態のこの碑文を発見したとき、思わず、大笑いしてしまった。。。

観光地整備が進む観音寺区の全景写真。

遂寧市
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かつての旧城郭都市時代、この観音寺地区「霊泉寺」と西側の「広徳寺」地区が、庶民の休日のハイキングコース、かつ参拝コースとなっていたのであろう。目下、地元政府はこの二つの観光拠点を何とか市の活性化につなげていこうとしている様子だった。

ちなみに、観音寺区のさらに東側の先に「四川職業技術学院」があった。例のごとく、市内中心部から遠く離れている。いつもながら、政教分離というより、社会(俗世)ー教育の分離が首尾一貫している中国の教育環境。なお、この学校区も、新開発されている湿地帯地区のぎりぎり北端にあり、学校の向かい側には、新マンション群、リクリエーションスペースなどが急ピッチで建設されていた。


さて、そもそも遂寧市が中国に名をとどろかす所以は、1997年 に発見された大量の宋時代の陶器類や窯跡である。市内には歴史博物館はなくても、立派な宋窯博物館(横には清末に、福建省からの移民が建てた同郷会館あり)が開設されているほどだ。この地で発掘された、宋時代の陶器類は、中国で国宝指定され、シンガポール香港 などで出前展示を実施したほどである。日本では 1998年に、小田急博物館、京都博物館、日銀などでも出張展示されたらしい。

発見者のエピソードも写真入りで掲載されていた。地元農夫「王世倫(1937年生)」が、1991年9月19(日)午後に、自分の農園を耕している最中に発見した、という。これを記念して、建てられた博物館。中は、陶器だらけ。遂寧市の歴史は隋の時代から主に始まる。宋の時代以降に文化的に開化し、多くの文人を排出したらしい。

遂寧市 遂寧市
遂寧市 遂寧市

宋の時代、中国は庶民から王族まで、酒と茶を飲みまくる文化であったらしい。それが、陶磁器の発達を推し進め、世界に冠たる輸出品として外貨獲得に大きく貢献したようである。この経済力を背景に、北のモンゴル軍と対抗できたのであった。モンゴルは宋の経済基盤である海外貿易を阻止するため、日本へ元寇として押し寄せるのであった。


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