BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年12月中旬 『大陸西遊記』~


浙江省 温州市(中心部)鹿城区 ~ 市内人口 920万人、一人当たり GDP 50,000 元(市全体)


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  温州市の 交通事情(脱線車両の 埋め立て事件・高速鉄道、民間設立の温州空港、白タク)
  温州府城の古地図 ~ 城内に縦横に掘削された水路網 と 現在にも残る 〇〇橋の地名
  古城エリアの 城壁跡(九山路、人民路、環城東路、望江東路)と 南面の掘割跡
  古城地区に残る旧市街地 と 古民家群、永寧県役所の跡地
  華盖山沿いに残る 50 mの城壁遺跡と 古井戸(城内にはかつて 24箇所あった)
  中山公園の東面の 掘割跡
  温州府役所があった府前街 と 五馬街(郡長官・王義之の 5頭馬車に由来)
  中華民国時代、共産党時代初期の建造物 と 商店街
  郭公山と「温州建城の父」郭璞、その後の温州城の歩み ~ 築城以来、一切の戦災がなかった
  瓯河に浮かぶ島「江心嶼」と 中川寺(江心寺)の由来
  温州市でビックリ! そして 感心ポイント
  牛山公園山頂の道教寺院 と 山裾のキリスト教会の 共存風景
  永昌堡城 ~ 温州空港に近い 倭寇遺跡



ほとんどの温州訪問者は、温州南駅(高速鉄道)か 温州空港を利用するものと思われる。
上海 虹橋駅から温州南駅まで 4時間半(178元)だった。ちょうど温州南駅のやや北側で例の「衝突脱線車両の埋め立て事件(2011年7月23日)」 が起きたわけであるが、今ではもう誰も気にする人がいない様子であった。

温州南駅に到着後、筆者は 7天ホテルに投宿すべく、六本虹橋路を通過する 91番路線バス(類東大街 ー 翠微大道沿いで下車)か、82番路線バス(六虹橋路) に乗車した。
温州市内の路線バスは、すべて一律 2元だった。バスは営業時間が夜 20時前にはすべて終了してしまうので、 夜遅くまで街歩きする場合は、タクシー利用が必須となるだろう。温州内のタクシーは、他の地方都市と同じく、メーターを使わない、シロタクと化していた。また、他の客との相乗りも頻繁にあった。

ただし、中国政府によるシロタク取締り政策が功を奏し、高速鉄道駅や温州空港からタクシー乗車する場合、 きちんとタクシー乗り場から並んで乗れば、メーター制での支払いとなる。 だが、警察らの目が行き届かない深夜到着によるタクシー利用や、街中でのタクシー乗車では、 シロタク化し毎回の値段交渉が必須となる。 シロタク化したタクシーを利用する場合、空港(この空港は温州の資産家らが出資し合って建設した民間空港として有名) からは 80元ぐらいだった。

通常の温州訪問者は観光目的ではなく、同地の工場や企業訪問を目的とされるケースが大いに違いない。 何せ温州商人の街、対外貿易や商取引が活発な地である。 しかし、同地の歴史にちょっとだけ目を向けてみるとき、そのユニークな史実に魅せられることになるだろう。


下古城図は、清代の 温州府城 の様子。

かつては、この城壁都市内を城内水路が縦横に通っていた。これに合わせて、街中にはたくさんの橋が設けられていたようである。下地図内にある □□□□□ の箇所は、すべて橋を示す。

なお、現在はすべて埋め立てされ、かつての水路街の面影はない。しかし路地名には、「橋」の名のつく地名や、四つ角などが数多く存在し、 かつての名残りが色濃く反映されていた。

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さて、今日の温州府城跡地であるが、城門、城壁はすべて撤去されてはいるものの、その跡地には広い大通りが設けられている ー 西面の九山路、南面の人民路、東面の環城東路、北面の瓯江沿いの望江東路。下地図の赤ライン。

また、外周に巡らされた掘割は今日でも部分的に残されており、かつての城域をはっきり体感するのに非常に 役立った。西面の掘割跡は「九山湖」、南面は花柳塘、東面は遊園地(中山公園)の池となっている(下地図)。

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下写真左は、南面の掘割跡。人民路沿いの小南路から城外へ出たところ。
下写真右のビル名は、「パリ・ビル」。 実情はともかく、命名の意気込みに一票!

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さすが府城レベルだけあり、 城域は相当に広かった。徒歩で 城内 を散策するだけでも 2時間はかかる。

東晋朝の治世時代の 323年、【二代目】永寧県城(永嘉郡城)として北岸から南岸へ引っ越しする形で築城されて以来、この地域の政治・経済の中心部を成した城郭都市であったわけだが、今日でもその城郭都市時代の面影が路地名に数多く刻み込まれていた。環城東路、象門街、西門天守教堂、西城路、府学巷、県学前、県剪頭、鼓楼街、府前街、倉后、倉橋街、三官殿巷(かつて道教寺院があったことに由来)、四営堂巷、徐衛巷、大士門、五馬街など。

下写真は、三官殿巷の路地風景。まだまだ古民家が残る一帯で、パジャマ姿で出歩く地元民や、木槌などの木材製品を作る職人など、庶民の生活空間がなおも健在だった。

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また、県后街や県前頭の路地名から、この一帯にかつて、永寧県役所があったことが伺える。

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また、県前頭通りの東側には、海壜山 がある。この山は、現在、内部を貫通されて、歩行者商店街と自動車道路が設けられていた(下写真左)。その名「人防隊道」から、かつて日中戦争時代の防空壕跡であることが分かる。

なお、下写真の右は、城域内の各所にある公共自転車。結構、市民らは頻繁に利用しているようで、市内は高低差がなく平坦で、近所へ出かけるのに最も便利な移動手段である。ここまで市民に重宝されている公共自転車サービスは、大陸中国で初めて見た(2014年12月現在)。

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また、海壜山の南側にある華盖山の付近には、井戸が複数、残されていた。
案内版によると、府城時代、城内には 24カ所の井戸があったらしい。今日現在でも、中にはまだ水が十分にあり、市民によって金魚が放し飼いにされていた。水もきれいだった。

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ちょうど海壜山と華盖山の間に、鎮海門(東門)が設置されていたわけで、今でも城外に東門巷という路地が残る。城壁都市時代、東半分に役所や官庁街、学校(県学巷の路地も残る)などがあった。

ここから南へ移動すると、中山公園 へ出る。その外側にはかつての掘割跡も残る(下写真左)。下写真左の奥に見える小高い山が中山公園で、この山頂に「留雲亭」がある(下写真右)。これは清代から設置されていたもので、当時の城壁都市内では最も高い位置にあり、市民らの憩いの場所であったらしい。城壁はこの小山と堀川の間を通って建設されていた。

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城内には永寧県役所とは別に、温州府役所 も入居しており、ちょうど県役所の西隣、城内の中央部に 壁や濠に囲まれて立地していた(下古地図の中央、赤枠)。今日、旧市街地の南北を府前街が通っているが、ちょうど 府役所(区公安分局と実験中学の一帯)の正面通りに相当し、かつての府役所の敷地を取り壊して、現在の道路が北へ延伸されたものである。

これと平行して旧市街地を南北に通るのが信河街であり、これはかつての城内水路の跡である(下古地図)。

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ちょうど、この信河街と府前街、そして南側の 人民路(下写真右、かつての南面城壁跡)に囲まれた一帯が、温州市内でも最も大きな繁華街となっている。
特に、五馬街は歩行者天国として温州随一のショッピング・エリアを形成している(下写真中)。

この「五馬街」の由来であるが、明代の永嘉郡長官の王義之が役所から出入りする際、常に五頭の 馬車(下写真左)で移動していたため、ちょうど 郡役所(清代に府役所となる)の正面玄関付近の住人らはいつもひれ伏し、五頭の馬車をやり過ごしたという故事にちなみ、この付近の通りは五馬街と通称されるようになった、ということだった。別名では中山路や紅衛路とも呼称されたという。

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五馬街から北側の一帯は、古い住宅街が残る 下町エリア が広がっていた。

中国風伝統家屋や 中華民国時代に建設されたであろう西洋風建築物まで残されており、これらが再利用される形で、商店街や住宅家屋として機能していた。これら建築物の屋根を見ると、共産党時代の星印が彫られた家屋であったことが分かる(下写真左)。また、あるホテルの屋根には、「○帝万歳」の文字が彫られていた。。。。
下写真右は、温州伝統家屋である。ここにも共産党マークが入り口に顕示されていた。 商売人の温州人たちは国民党政権の敗退後、共産党政権に取り入って生き残ろうと必死だったのであろう。

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南面の城壁沿いに開拓された人民路であるが、この通り沿いにある大南門跡の交差点に温州国際酒店があり、ここのテナントとしてピザハット、スターバックスなどの米系資本が入り、その周辺のデパート内に KFCや、マクドナルド、香港系薬局チェーン Watsonsなどが入居していた。

なお、下写真左は、郭公山と「温州建城の父」郭璞の石像(中央左端)。その後ろを瓯河が流れる。また、写真右は、古城跡の西南の端にある松台山(ビルの奥側に見える)の前にあった異様な風情の高層ビル。旧市街地の風情を大事にしようなどと、微塵も考えない中国の現在社会の実態を象徴するかのような風景だった。

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280年に呉を滅ぼし三国を統一した西晋王朝も、八王の乱による皇族間の内紛で 崩壊すると、北方異民族らが華北地方へ流入し(永嘉の乱)、 漢民族らは長江以南への退避を余儀なくされる。

こうして中国の南半分に押し込められた漢民族勢力は東晋王朝を 建国し(318年3月。王都・建康)、華北の異民族勢力と対抗していくこととなった。

華北からの移民を大量に受け入れた江南地方では人口が激増するとともに、 経済規模も急拡大し、各地で県役所や県城の新設が相次いで行われた。

そんな中、同様に手狭となった永寧県城の拡大が企図され、新たな築城も兼ねて、323年、 朝廷内のお抱え風水師であった 郭璞(276~324年)が招聘され、 新城塞の位置を占ってもらうこととなる。当時、郭璞は文学者、天文学者でもあり、 皇帝直属の側近として朝廷内での政事に深く関わる存在であった。

当地に赴いた郭璞は、西郭山に登って付近の地の利を調べ、 眼下に広がる小山に囲まれた平野部に築城予定地を選定する。
周囲の山々の位置関係が北斗七星を表し、すぐ東側は海岸線も近かったため(当時の海岸線はかなり内陸部にあった)、交易や防衛上での要衝にもなり得るなど、多くの要素が考慮されたこともあった。

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こうして用地が確定されると、北面には瓯江が、東西は山に面し、南面には 会昌湖がある要害の地形を利用し、城内に 7つの小山と無数の小川、水路、 運河を巡らせた風水の世界を体現させた空間が造成されていったという。
城内の水路交通も発達しており、物資や人の往来にも利用されていたらしい。

この都市を全長 9 km、高さ 11.7 mもの城壁が都市を取り囲むこととなる。

東晋朝時代に築城されて以来、九斗山城や白鹿城、羅城などとも通称されてきた。 城壁はレンガと石積みの組み合わせで、四面にそれぞれ一か所ずつ城門が配され、 外周には掘割が掘削されていたという。

明代後期の 1600年ごろ、城壁が拡張された上に、 城壁上に楼閣や兵舎が増築され、さらに城門が7箇所、設置される。 それぞれ、東面は鎮海門、南面は瑞安門と永寧門、南西面は来福門、北西門は迎恩門と永清門、 北面は拱宸門と命名されていた(下絵図)。

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東晋朝時代以降、各王朝が修繕や増強工事を施すも、史上一度も戦火を被ることなく、温州府城は安寧を 謳歌し続けたという。これは、築城時に依頼された風水師の郭璞の功績 とも称えられ、地元温州では神格化されて祀られている。

しかし、市内の交通網の発展を受け、1930~1945年ごろから 城壁が順次、撤去されていくこととなる。現在、華盖山の北東端に約 50 mほどの城壁の基礎が 残されているだけという(下写真)。

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下写真は、古城地区の北面に流れる瓯河に浮かぶ島、江心嶼 の全景。温州で最も有名な観光地となっている。昔は島は東西に分かれて 2つある。
南宋時代の 1137年、地元の僧侶が民衆らを動員して東西 2つの島を 埋め立て、一つの島として接続させたという。東側の島には 普寂禅院(北宋末期)が、西側の島には 浄信禅寺(唐末期)がそれぞれ建立されていたが、島が一つになったとき、東塔と西塔へと置き換えられ、逆に、埋め立てた中川部分に 中川寺(通称、江心寺)が建立される ことになったという。

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なお、その江心嶼のちょうど対岸の望江路沿いに現代中国を象徴する一つのビルを発見した(下写真左)。メインは 港航行政(China Transportation、正式名称:温州市港航管理局)の入居するものであろうが、なんとその両脇に高級料亭 と ナイト・クラブが堂々と併設されていたのだった !!
昼間は官業に励み、夜はその接待で階下へと、何とも都合のよい総合施設である(実際は、単なる薄っぺらい一つのビルなのだが)! 下写真左。

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また上写真右は、温州市内のバス停にあるルート案内板である。各バスの停留所と移動ルートが地図入りで表示されており、最高に見やすかった !! 温州で最も感動したポイントの一つであった!

なお、このバス路線マップからも分かる通り、温州市域はたくさんの水路や川、湖、水路が張り巡らされており、路線バスに乗っていても、数分おきにいろんな橋を渡ることとになる。 非常に水の豊富な土地柄であることを実感できる。近代以降に大部分が埋め立て られたわけであり、以前はもっと水の豊富な土地柄であったに違いない。


温州市街地の南側に 牛山公園
なお、温州は中国でも屈指のキリスト教の浸透度が高い地域で、中国政府の神経を逆なでしているらしい。 2014年末にニュースになったが、違法建築物として教会の上にある十字架はすべて撤去させられ、また、クリスマス・イベントも禁止されるほどの「弾圧」を受けているという。

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下地図は、明代の温州府城 一帯の様子を描いたものである(1605年当時)。海岸線にいくつかの所城や軍事要塞、県城が見えるが、これは倭寇対策として築城・増強 された防衛陣地網である。

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海岸に近い温州空港のそばに(温州市龍湾区永中街道)、明代に築城された対倭寇用の 軍事要塞遺跡(永昌堡城。上地図)が今も残されており、観光地として公開されている。城壁の保存状態も良好で、温州市街地からは 21番路線バスで空港近くまで移動し、そこからバイタ・タクシーで 5元でアクセスできる。



永昌堡は、地元では明城堡や新城とも通称されているという。

明代、温州市を含む浙江省、福建省の沿岸部は、頻繁に倭寇の襲撃を受け、 大きな被害を被っていた。
これに対抗すべく、当時、地元の 永嘉場郷(今の 温州市の海岸エリア。上地図)一帯のリーダーを 務めた王沛や王徳とその甥らが義勇兵を率いて奮戦するも戦死に追い込まれると、 王沛の甥・王叔果と叔杲の兄弟が義勇軍を引き継ぎ、抵抗を続ける。他方で、 防衛力の強化を図り、近隣住民から資金や労働力を集めて、城塞の建造に着手する。 これが、永昌堡城であった(1558年冬に着工し、一年で完成する)。

城域は 南北 778 m、東西 445 m の長方形型で、最初から全面が石材で建造された城壁は厚さ 3.9 m、高さは 8 m(当初は 4 m 強の高さで、徐々に増築されていった)を誇り、その全長は 2,688 m あったという。さらに、城壁上には 13の楼閣が設けられていた。
城門は東西南北に 4箇所、また同じく水門も南北に 2箇所ずつ、設けられていた。
その外周には掘割がめぐらされ、また城内にも 2本の水路が南北に掘削され (上河と下河と通称された)、その両岸沿いに住宅地が形成されていたのだった。 現在でもこの様子が確認できるという。

城塞の修築自体は 1661年を最後に停止され、そのまま城壁は荒れるがままに 放置されることとなるも、引き続き、城内には住民らが住み続け、 現在でも住民用の商店街が広がっている。
西面と東面の南側の城壁は不完全なままで、東面の楼閣はかなり以前に倒壊し、 また城壁上の凹凸壁も損壊してしまっているが、それら以外は ほぼ完全な姿で残っており、1982年に南門と北門脇の凹凸城壁が 修築されると、あわせて城壁上の楼閣も修復された。 現在、国家重点文物遺跡に指定されている。



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