『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2015年 9月中旬 『大陸西遊記』~


湖北省武漢市武昌区 ~ 人口 105万人、 一人当たり GDP 36,000 元(武漢市)


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  武昌県城(夏口城、【二代目】沙羡県城、汝南県城、江夏郡城、郢州城、鄂州城)
  蛇山(現在の首義公園)と武昌古城の歴史
  大東門と小東門
  南門(起義門)の復元城壁
  張之洞通りと文昌門跡
  臨江大道と平湖門、漢陽門跡
  観光名所・黄鶴楼(三国時代の物見櫓に由来)と 長江の遊泳場
  かつての府役所エリアと旧市街地
  毛沢東旧居記念館と陳潭秋烈士記念館
  辛亥革命武昌起義紀念館
  武昌区の歴史



【 武昌古城 】

高速鉄道で武漢入りした。
高速鉄道駅から市内まで地下鉄4号線が走る(片道 4元)。

ホテルは、地下鉄4号線沿いの梅苑小区駅近くの 7天酒店に投宿した(下地図)。空港から地下鉄一本が最寄り駅だし、徒歩圏に長距離バスターミナルが 2つ(武漢宏基汽車バスターミナルと博家波バスターミナル)と武漢鉄道駅があり、郊外エリアへのアクセス上のメリットを重視した。

梅苑小区駅の一つ隣の地下鉄駅「中南路駅」では、百貨店、ピザハット、KFC、永和大王、スターバックス、薬局店 Watsonsなどが軒を連ねる。 3Fには韓国料理屋(食べ放題)もあった。焼肉用の肉はおいしくないが、その他の料理はまあまあよかった。昼は 58元、夜は68元(メンバーになると-10 元引らしいが) 。

武漢市


さて、武漢市中心部の古城であるが、かつては3つあった。この武昌区には最も大きな城郭が配されており、政治、経済、文化の中心地区を担っていた。
現在の首義公園は、かつて蛇山と通称されており、低い丘の嶺が連なっていたわけであるが、この高台を利用して築城が開始される。

当地には後漢末期、荊州太守の劉表配下の黄祖との戦闘の過程で、すでに孫権により簡易な軍事要塞が建造されており、208年に黄祖を滅ぼした後には曹操との赤壁の戦いを迎え、呉軍の防衛拠点の一つとして、引き続き、重宝されることとなる。

特に、三国時代に入った222年、蜀の劉備と魏の曹丕による呉侵攻を防ぎ切り、長江沿いの防衛ライン強化を再認識した孫権は、陸遜に命じて、翌223年、蛇山上の軍事要塞(夏口城と命名)の拡張工事を開始する。
このとき、蛇山の西側の長江沿いに物見櫓 が組まれたとされ、それが現在の武漢市のシンボル・黄鶴楼の起源と言われている。

武漢市

以後、夏口城の城域はどんどん拡張され、この蛇山をさらに遠巻きに取り囲む城壁が建造されていく(上絵図)。しかし、この蛇山の上には孫権時代から一環して楼閣が設置されて続けたという。

現在でも古城地区の中央部には、丘陵エリアを成す首義公園(下写真の緑色)が横たわる。

武漢市

古城散策はまず、蛇山 の東側にあった東門エリアからスタートした。
下写真の中山路(かつての東門一帯)が、首義公園(かつての蛇山)の東の端にあたる。

武漢市 武漢市

下写真左は、忠孝門通り。下写真右は、小東門交差点。
かつて、東門(賓陽門)の北側にあった忠孝門(小東門)の名残だ。

武漢市 武漢市

下写真左は、中山路沿いのバス停「(武珞路)大東門」。かつては、賓陽門と言われていた。
ちょうど、この向かいに城皇廟があった(下写真右)。新しく社殿が建て替えられており、かつての武昌城の守り神たる威厳を感じることは困難であった。

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付近のバス停名には、(武珞路)閲馬場 の地名もあった。下の古地図にも記載されており、武昌城の長官クラスが閲兵式に臨む場所があったのだろう。

そのまま中山路沿いを南下する。かつては、東側城壁が延々と続いていたはずである。
武昌鉄道駅を超えて、さらに南進し、南側城壁まで移動する。

武漢市 武漢市

上写真の通り、南側城壁はその一部が復元されて、公園となっていた。城門(起義門)も一カ所、復元されていた(2006年~)。
なお、起義門はもともと中和門と呼称されていたが(下地図)、辛亥革命時に清軍を追い出した革命軍によって、改名されたという。しかし、1927年に国民政府が武漢へ移転されるに及び、大規模な都市開発が推進され、この以降、武昌古城の城壁は徐々に撤去が進められていくこととなる。

武漢市

ここから、市バス(一律2元)を乗り継ぎ、地下鉄の復興路駅 まで移動する。
地下鉄を下車後、張之洞通り沿いを長江まで西へ歩いてみた。下写真左。

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張之洞通りの北側には武漢大学病院と医学部、学生寮などが並んでいた(上写真左の道路左側)。
その向かい面には中国造船大手の一角をなす中国船舶重工集団公司(CSIC)の武漢支社ビルが立つ(上写真左の道路右側)。ビル敷地内に、張之洞(1837~1909年。清末に洋務運動を主導した政治家で、1889~1907年の赴任中、武漢で製鉄所や工場群などを新設する)の銅像が立っていた。この通り名の主なる人物だ。

かつてはこの会社敷地内に文昌門通りが存在したが、今では封鎖されていた(上写真右)。
ちょうど、この辺りに文昌門という西側の城門があったわけである。

そのまま長江沿いを直進する(臨江大道)。ちょうど西側城壁沿いにあたる(下写真左)。
だいたい15分ぐらいで武漢長江大橋まで到着する。その大橋のすぐ南側に平湖門水処理場があった(下写真右)。ちょうど西側城壁の平湖門があった場所である。バス停名も、そのまま「臨江大道平湖門」となっていた。

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武漢長江大橋を超えると、バス停「臨江大道漢陽門」がある。ちょうど、漢陽門があった場所である。
なお、この漢陽門跡の長江河岸は、市民遊泳場 になっていた。長江の泥水につかりながら、市民が水泳で鍛錬していた。ちょうど大橋の真下あたり。下写真。
そのすぐ隣には、フェリー乗り場があった。古くからの長江の渡し舟乗り場の名残である。

武漢市

また、この漢陽門跡の一帯こそが、「黄鶴楼」につながる観光地エリアになっている。
ちなみに、黄鶴楼と首義公園は入場料 80元が必要で、かなり高額だ。ここでの見どころは、南宋時代に武昌城(鄂州城)を守備した名将・岳飛を記念して設置された銅像ぐらいで(岳飛は刑死後、鄂王に封じられている)、あとは中国のどこにでもある庭園といった感じではないだろうか。

黄鶴楼(1985年再建)の入場門前は、典型的な観光地という趣きで、欧米からの観光客を何組も目にした。また、似顔絵屋、アクセサリー売り、おもちゃ出店などが門前にはたくさん見られた。
黄鶴楼の北側一帯は、かつて旧市街地の中心エリア を成してきた地区である。その昔、まさに三国時代の孫権が築城した夏口城があった場所だ。

現在、数多くのショップが立ち並ぶ。その中でも、ひときわ客が群がっていたお店が腐豆腐だった。。。。下写真左。

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このエリアでは、北城角(北城路)、都府堤、司門口(解放路)など、かつての古城時代の名残が路地名に刻み込まれていた(下写真)。また、やや北側には武昌廉政文化公園があり、周囲の喧騒とは全く異なる静かでのどかな緑の空間を演出していた。

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この中に、毛沢東旧居記念館と陳潭秋烈士記念館(1927年4月27日~5月9日、第五回共産党全国大会が開催された建物)がある。共産党幹部らの訪問にそなえているのであろうか、他のどの博物館よりも、庭園、トイレ、施設全体がしっかり手入れされ保護されていることが分かる。

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下写真左は毛沢東旧居記念館(武漢に滞在した折、毛沢東が居住した家)で、下写真右は毛沢東夫人の寝室が復元されたものである。

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この閑静なエリアは、かつて鄂州府の行政庁舎が軒を連ね、官公庁街となっていた。その名残が、バス停「(解放路)司門口」にも表れていた。下写真。

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対して、蛇山(首義公園)の南側には、 かつて江夏県の県役所が開設されており、清末の1910年、 湖北省咨議局の事務所として赤レンガの洋風館に建て替えられる。翌1911年10月10日深夜、武昌の革命党関係者らに よる武装蜂起が決行され、深夜のうちに湖北省咨議局も制圧され、翌11日の午前までには 武昌城全体の占領が完遂される。

10日深夜の間に、湖北省咨議局に集まっていた革命党関係者らにより会議が進められ、 黎元洪が都督に選出される。そのまま同建物が中華民国軍政府鄂軍都督府となり、 武昌占領軍の司令本部となる。
当地は現在、辛亥革命武昌起義紀念館として博物館となっていた(下写真左)。門前に孫文の銅像が立てられていた。

武漢市 武漢市

上写真右は、若き日の毛沢東。1927年、武漢滞在時のもの(33歳)。

ここから民主道沿いに、バスで中山路(旧東門の一帯)まで戻ってきた。中山路は武昌地区でも交通の大動脈を形成しており、いつもいつも大混雑していた。



武漢市武昌区の歴史

武昌地区で最初に本格的な城郭が築城されたのは、三国時代の223年、呉の孫権による夏口城の設置である。
孫権は江夏山(今の蛇山)の東北部分に土と石を積み上げて城塞を建造し、夏口城と命名する。その城壁の総延長はたったの 1km強であったされ、地の利を活かした軍事要塞的なものであった。このとき江夏山上に建設された見張り台が黄鶴楼の起源となったという。

なお、すでに対岸の 漢陽 地区には、これより以前の後漢末期の196年に、郤月城 という軍事要塞が設置されていた。前年の195年に築城が開始され、 西陵県城(今の 武漢市新洲区)から江夏郡役所を当地へ移転させていた黄祖の本拠地となっていた。下地図。

孫策や孫権は、黄祖の拠点であるこの郤月城を幾度も攻撃し、ついに208年、黄祖を戦死に追い込むことに成功する。一連の戦闘の過程で、すでに長江の対岸部分、すなわち武昌区の蛇山一帯に簡易な軍事要塞(夏口城の前身)が、孫権軍により設けられていたと推察される。

武漢市

孫呉の治世時代、一帯の行政区域は、長江のやや上流にあった 沙羡県(今の武漢市江夏区金口)が統括しており、新設された夏口城は、あくまでも軍事目的用の利用に終始されていた。

西晋の武帝(司馬炎)により280年、呉も併合されると、 285年、沙羡県の県役所が夏口城へ移転され、武昌地区一帯は沙羡県と通称されることとなる。後の東晋時代に、沙羡県が江夏県へ、旧沙羡県城が汝南県へと改編される。

南北朝時代の劉宋朝の支配下の454年、孝武帝は江夏県城に郢州を併設し、州都に定める。あわせて直後より、江夏県城(郢州城)にさらなる拡張工事が加えられることとなる(その遺構は今も現存)。
この時代、郢州城、郢城と通称された。下地図。

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500年、蕭衍が南斉朝に反旗を翻し挙兵すると、当時、弓の名手として名を馳せていた将軍・曹景宗(457~508年)も呼応し、長江沿いの南斉軍の拠点攻撃に尽力する。

その過程で、郢州城(江夏県城)を攻撃した折、紫金山と小亀山の北側に石積みの要塞を建設している。この要塞は北面に沙湖を臨み、南面は郢城との距離が約 800mに位置しており、当時、曹公城と通称されたという。
502年に蕭衍が梁朝を建国すると、曹景宗はその絶大な功績をたたえられ郢州刺史として、この郢州城に凱旋赴任することとなる。

589年、隋朝の初代皇帝・文帝により、郢州が鄂州へ改称される。下地図。

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唐代後期の825年、牛僧孺が武昌軍節度使に就任すると、鄂州城(江夏県城)が大改修されることとなり、それまでの土壁から石造の城壁を持つ巨大城郭が完成する。上地図。

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そのまま500年が経過した後、明代初期の1371年、二回目の大改修工事が実施される。
この時に赴任した江夏県長官の周徳興が工事を担当し、その城域は周囲 10km強の大城郭となる。また、城壁も新たに石積みの総入れ替えが行われている。その高さは、7~10mもあったという。

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このまま清代にも継承される。上絵図。

1927年正月、国民政府がその首都を広州から武昌城内へ転入するに及び、大規模な都市開発が進められることとなると、城壁の撤去が開始される。南側の起義門(中和門)付近の一部のみが残され、1929年にはすべての城壁が完全除去されるに至る。


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