BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年4月上旬 『大陸西遊記』~


広西省 梧州市(中心部)万秀区 ~ 区内人口 40万人、 一人当たり GDP 30,000 元 (梧州市 全体)


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  広信県城(蒼梧郡城、梧州府城)
  清代の梧州府城の 旧市街地区
  近代幕開けの文明開化の象徴:騎楼 と「西の上海」
  日中戦争時代の 防空壕跡
  河濱山の 英国領事館跡(オーストリア帝国、フランス、ベルギー も梧州進出)
  梧州の名産品=人工宝石製造 と 六葆茶
  梧州の港湾施設 と 税関、夜の歓楽街
  世界的観光名所の桂林を流れる 漓江(桂江)も、梧州まで来れば 泳いでいい??



梧州市は、海のシルクロードの起点とされている。
風光明媚な 桂林 に端を発する漓江と、その他 2本の河川が合流してできる 桂江(北側からの河川)と、少数民族系が多く住む広西省の全域の水脈系を一本化する形で流れる 潯江(西側からの河川)が合流して、梧州市にて「西江」という名称になり、そのまま マカオ 方面の海へとつながる大水脈を形成している。

それはすなわち、広西省内のすべての水運物資が集まる交通・物流の要衝を意味し、さらに海への出口として 広東省ルートの東、広西省ルートの南、および 海南島ルートの 3ルートを担保する内陸中継拠点をも意味したわけである(下写真左)。

梧州市 梧州市

かつて 広信城 があった城壁都市の範囲であるが、南越国時代の蒼梧王城に始まり、清末まで数度の拡張工事が施され、 最終的には煉瓦積みの城壁を持つ城郭都市が存在していたようである。しかし、この地では、日中戦争時代も含め、中原のような戦乱に巻き込まれた経験がなく(清末の陳開の乱が最初で最後)、 悲惨な戦災史は無縁の場所であったようである。

梧州市 梧州市

清代までの 行政庁 を中心に、しっかりと城壁都市内の位置関係が今日にも残されている。中国の旧市街地に関し、ここまでしっかり観光案内されているところは珍しい。

梧州市

旧城壁内の旧市街地には、たくさんの古い家屋や路地がそのまま残され、現在も人が住んでいる。

梧州市 梧州市 梧州市
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上の旧家屋には、正面玄関に木製の格子扉が設置されていた。昔の人の知恵が感じられる設備だった。

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清朝末期の 1908年、日本の外務省所属の山口嘱託員が、梧州を含めた中国華南の物流、商業実態調査へ派遣されている。その報告書がネット上で公開されていた。ここには、旧市街地に城壁や城門が残る一方で、騎楼群が立ち並ぶ様が記述されている。また別の中国側の記述では、1949年の国共内戦終了後、中国共産党軍は梧州の旧市街地へ北門から入城してきたことを記録されていた。この当時まで、まだ城壁が残っていたのだろう。

さて、この梧州市は、清代末、「西の上海」と言われるぐらいに、文明開化の影響を受けた都市である。西洋列強の商船が入港し、外資、内資を問わず、商店街が形成されていった。経済の活況は人々を吸い寄せ、さまざまな文化人や企業家が移住を果たす。そして、自由な言論空間も誕生し、ブルジョワジーものから、プロレタリアートものまで各種出版社が乱立した。それぞれの出版社の社屋は今でも建造物が残り、それぞれの門前に案内板が掲げられている。こうした清末の文明開化の風情を今に伝えるのは、騎楼という建物群である。

梧州市

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騎楼という建築様式は、広東省東部の潮州にはじまり、華南一帯、および、華僑が散らばる東南アジアのチャイナタウン一帯でみられるものであり、これに西洋式のデザインを組み入れたものが清代末の特徴と言える。そして、大河の氾濫に悩まされた梧州市だけに見られる特徴が、各軒先につけられた鉄輪と呼ばれるもので、洪水の際は、建物 1F部分の冠水は想定内とし、その際に、ここに船をつなげて、 2F部分から出入りする前提で、都市設計が進められた様子が分かる。実際、最近でも 2005年度にあった大洪水では街中のほとんどが冠水したようである。

騎楼街は夜にはきれいにライトアップされ、ここが中国であることを忘れてしまうぐらいに美しい。


こうした平和を謳歌した街「梧州」でも、日中戦争 の遺産は残されていた。対日抗戦にそなえ、河濱公園という急峻な岩山には防空壕が 2本、確認できた。ちょうど、前述の旧市街地、騎楼街から桂江を渡った向かいにある小山である。

梧州市

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また、清朝末期より、西江を見渡す白雲山の山裾には砲台もそなえつけられていたらしい。

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そもそも、梧州市の 文明開化 とは、いつからどのようにして始まったのであろうか。

1897年5月、英国が領事館を設置する。その際、この 河濱山(当時は、白鶴山と呼ばれた)の 一部(1500 m2)を破格の安値で購入した(のちに、中国広西省政府は 25,000 HKD ― 当時の時価 ― もの資金で買い戻すハメになる)。そして、地元民の立ち入りを厳禁とし、「大英帝国の土地」という碑文まで立てさせて、その威勢を堅持した。なお、英国はここに 1,000 m2相当の屋敷群を建設した(建築費は、当時の 50,000 HKD)。しかし、地元住民の反感は強く、度々、英国人や海外列強に対する反対デモが起きたようである。
1920年代後半にもなると、英国人の駐在員たちはすべて香港へ避難してしまい、最後は無人の館と化していたらしい。そして、1930年に広西省政府が買い取った、という次第である。

ここ梧州市内には、英国の他にも、オースリア=ハンガリー帝国、フランス、ベルギー も拠点を開いていた時期がある。

ちなみに 1895年、日清戦争の講和条約「下関条約」締結に際し、日本側は清国の開港地として「梧州」も要求していたが、内陸部の安全確保が未整備であるという理由で、清国側は拒絶している。しかし、清国の弱体ぶりが明らかとなった結果、中国華南に勢力圏を構築していた英仏両国により、 「梧州」開港・通商拡大への猛烈な要求が突きつけられていくこととなる。
これ以前のアヘン戦争直後から、英国は積極的に中国内地の物流や商業拠点を探索しており、この梧州にも 3度の調査団を送っていた。その際に、詳細な地図も作成している。



旅してみての感想だが、住民の人々は他の中国の地よりはマナーが良好であった。商売、商売という感じではない。しかし、街中や郊外一帯が建設ラッシュの最中であり、かつ、バイクを交通手段として多用する生活から、空気は砂埃を含んで最悪である。また、梧州市には長州島空港があるが、これは河の中州に作られており、市内中心部からタクシーでも 10~15分ほどの距離。

さてさて、この地の主な 産業 としては、人工宝石製造と六葆茶の生産が指摘できる。特に前者は、大陸中国で 80%もの生産量を誇り、広東省や上海地区でバックや衣服、化粧品類などに使われる宝飾品全般は、ここ梧州市から仕入れたものである。また、お茶(六葆茶)も中国6茶の一つである黒茶に分類される名茶らしい。

梧州市 梧州市 梧州市

上の写真は、宝石加工業者が集まる 宝石城(歩埠路と西環路との交差点)であり、たくさんの宝石類の研磨業者が入居していた。

また、市内は非常に若者比率が高い。これは、広東省にまで出稼ぎに出ていない広西省の若い労働力が、最東部の商都「梧州市」までなら、両親が出稼ぎを許したためであると推察される。さらに、相当に若くに結婚して、子育てをしていく仕組みが機能しているようで、たくさんの若い奥さんと赤ん坊を目にした。しかし、空気が排ガスと土埃で非常に悪く、今後の彼らの成長や老後が心配である。

米国ウォルマートがあったので、店内を散策してみた。一番右の写真は、2F(生活雑貨売り場) から 3F(食料品コーナー)へ移動するエスカレーターであるが、この沿いに大量のコンドームが売られていてびっくりした。親たちは子供たちにきっと質問されるだろうに、、、なんと答えるのだろう。

梧州市 梧州市 梧州市

また、現在でも中国内陸部の有数の 貿易港 として、梧州には中国税関が置かれている。街の東側に位置し、ここに荷揚げ用の埠頭もあり、たくさんの運送船が停泊している(下写真左)。2014年4月の訪問当時、さらに東側の対岸に、より巨大な埠頭を建設していた。なお、この税関庁舎や船舶埠頭がそろう地域一帯は、KTV、クラブ、バー、宴会場、屋外料理店が軒を連ねる、酒場街となっている。梧州市の他の地域と明らかに趣の違う地区であり、船乗りたちが夜な夜な集ってくる港湾都市特有の雰囲気が濃厚に漂っていた。
下の写真、左端は埠頭一帯の停泊船。右側の岸部が歓楽街となっている。

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そして、その埠頭歓楽街から中山路の一帯が、古くからの商業地帯である。そのまま西は騎楼街へとつながる。埠頭やかつての長距離バス発着所が、ここにある梧州大酒店の下にあった。現在は、鉄道、長距離バス・ターミナルは市西部に設置され、市街地が東西に拡大している様子である(というより、西部に拡大中という感じ)。
そして、この旧市街地の北側の山頂に 四恩寺(上写真右)がある。門前町が閑静な地元市民の住宅街となっているが、この中山路の商業地区まで徒歩でも往復できる(上の写真真ん中のようなコミュニティーバス 23号線も利用可)。

以下の 写真 の説明。
写真1:もともとは小さな龍母廟であったようだが、近年、拡張中。
写真2:桂江のやや上流から、梧州市内を眺める。
写真3:桂江の下流域には、公共プールもあり(老若男女が泳ぐ)。もしくは、勝手に河口で水泳
   する人々もあり。プールの含め、完全に河の水で泳いでるが、清潔ではないはずだが。。。
写真4:空港のある長州島から。この中州地帯はもともと農業地区で、先端部分に古い民家が多い。

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また、この周辺にも普通に数十万人単位の人口を抱える県や村が点在しており、これだけ人口が大きければ、マーケットとしてもスケールメリットがあり、それが人口流出を防いで、地元産品や人材だけで回すローカル消費経済を担保できるという印象を受けた。構成人口が数千人規模だと、その地域内での経済活動や雇用に限界があり、どうしても大人口都市へ人材を流出させてしまうことになるだろうから。

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