BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


陝西省 咸陽市(中心部)渭城区 ~ 区内人口 31万人、一人当たり GDP 48,000 元(渭城区)


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  秦朝の 咸陽宮跡
  咸陽県城
  前漢時代の皇族や高級官僚の 墳墓跡



【 咸陽県城 】

渭城区

現在の咸陽市の市街地、特に古くからある渭城区は、明代初期の 1371年に築城された新咸陽城の遺構を基礎として形成されている。

それまでの秦朝の咸陽宮跡の上に建設されていた咸陽県城が廃城となり、その県役所が 渭水驛(今の 渭城区の旧市街地)へ移転されてくる。
以降、旧咸陽宮一帯(現在の 咸陽市渭城区金旭路あたり)は完全に廃墟となり、小麦畑へと姿を変えていったようである。

渭城区

現在、咸陽県城の名残はあまり残されていない。下写真左はかつての北門跡。北大街と人民東路との交差点にあたる。バス停「北門口」の付近である。

ちょうど北大街一帯では、明清時代の伝統的な街並み復興工事が進められていた(下写真右)。咸陽県城の古城跡を全面的にアピールしようという咸陽市の気合いが見て取れた。

渭城区 渭城区

ちょうどこの歴史街並みの一角に、「地中海 海鮮料理屋」を発見した(上写真左の奥の赤い看板)。なぜに「地中海」なのか??
下写真右は、北大街を南下して南側の渭河まで到達した場所。城門を真似た、すごい事務所ビルがあった。。。このビルの前に、古城時代の波止場が復元されていた(冒頭の写真)。

渭城区 渭城区

旧市街地内にはまだまだ古い家屋が数多く残されていた。近代以降の都市開発は主に古城地区外で進められてきたようで、古城内はいたってノスタルジーあふれる雰囲気を醸し出していた。その一角に、昔の 文廟(孔子廟)の敷地を利用して咸陽博物館が開設されていた(入館は無料、要:パスポート)。下写真右。

下写真左は、復元された鐘楼と周辺公園。この前を通る楽育南路に バス停「西門口」があった。

渭城区 渭城区

しかし、こうした努力にもかかわらず、古城内の路地には意外にもかつての古城時代を偲ばせる名称があまり見つけられなかった。
下写真左は 鳳凰台(明代に建設された城楼の一つ)、下写真右はかつて北側城壁が設置されていた人民東路沿い。

渭城区 渭城区

街中は大工事中に伴い、どこも埃っぽいというのに、市民の多くは毎日、外でご飯を食べている様子であった。 5月中旬はちょうどよい季節で、約 4分の 1の人が長袖、あとは半袖の人たちが交る感じの暖かさも手伝ってのことであろうか。

なお、咸陽市の一番の繁華街は、人民東路沿いに鳳凰広場、中心広場、希望広場と東西に並ぶ一帯である。
これに南北に交わる秦皇南路沿いには、招商銀行などの外資系金融機関を含め、多くの銀行が軒を連ねる咸陽市のビジネス地区となっており、ここに咸陽市役所や秦都区役所、咸陽市バスターミナルもある。ちょうど古城地区外の西側が近代以降に開発された場所となっており、現在の政治・経済の中心エリアを形成しているようであった。この一角に「上島珈琲レストラン」もあった。


  交通アクセス

最寄りの 西安 咸陽空港から咸陽市内行の空港バスは1時間に一本あり。片道 15元。所要時間 30分ほど。
咸陽市内の各所で乗客を下車させていく。筆者は咸陽鉄道駅前で下車した。

咸陽鉄道駅と感陽市バスタ―ミナルとの間は、29番路線バスが結ぶ。5分に1本の割合で運行されていた。だいたい 15分で着く。ちまみに、咸陽市内の路線バスは、すべて一律 1元。乗車時に支払う。

なお、13番と 59番路線バスの終点まで行くと、西安市 の 地下鉄駅(一号線の後衛寨駅)に直結しており、今でも両市が非常に密接な関係であることが分かる。



【 秦朝の 咸陽宮跡 】

渭城区

なお、秦の王都であった旧咸陽宮城跡であるが、実際には今の咸陽市と 西安市 内に、複数の宮殿と離宮がばらばらに散らばる格好で建設されていた。中国式の一つの巨大城郭都市の王都イメージとはずいぶんとパターンの異なる様相であったようである。天体の位置になぞらえていたという説もあり、その中央に位置する北極星には、「阿房宮」が設置されていたらしい。

秦の始皇帝が居所とした巨大王宮は、現在の咸陽市渭城区金旭路あたりの河沿いにあったと考えられている(咸陽市中心部からは、東へ 4 kmのところにある上林大橋と福銀高速の橋との間の一帯)。とは言っても、かつての王都の面影は全く残っていない。つい最近まで、小麦畑と小さな丘が残るのみであるという。

渭城区

渭城区

咸陽博物館内には、秦国の王宮の復元模型ミニチュアが展示されていた。うまく小さな丘を利用して、2階建ての本殿を、建設していたようである(上写真)。

渭城区

全国統一後、秦の始皇帝は、諸侯や貴族らを王都・咸陽に集めて、それぞれに宮殿を建設させ、強制的に移住させている。それまで彼らが有した地場の土着勢力とのコネクションを断ち切らせようという目的であった。それらの屋敷は、特に渭河の南岸側に集まるように建設されていたらしい。

しかし、これらの秦代の建造物はすべて項羽により焼き払われ、その火は 3日間、消えることはなかったと『史記』に記されている。
前漢朝を建国した劉邦により、主にこれら南岸側の諸侯らの屋敷跡の資材が再利用されて、渭河の南岸側に 王都・長安城 を築城されることとなったわけである。


【 前漢時代の皇族や高級官僚の墳墓跡 】

中国を初めて統一し、中華世界を確立させた秦朝への畏敬の念は、漢代を通じて、皇族から庶民まで 広く浸透されていった。その王宮が開設されていた渭河の北岸には、皇族や高級官僚らが競って墳墓を建設している。 また富裕な一般市民層もここに多くの墓を建てたという。

渭城区

渭城区 渭城区

前漢王朝の墳墓にも秦の始皇帝陵の兵馬俑が埋葬されていたという(楊家湾村)。もちろん、始皇帝陵のものに比べれば、膝下ぐらいのミニチュア・サイズであるが、一つ一つ丁寧に色付けされていたというのには驚かされた。
これは前漢朝に仕えた大将軍の 周渤(もしくは、その子の周亜夫とする説もあり)の墳墓から発見されたという。

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