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訪問日:2018年 2月上旬 『大陸西遊記』~


広東省江門市新会区 ~ 人口 80万人、 一人当たり GDP 68,000 元 (新会区全体)


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  【二代目】新会県城(岡州城、義寧郡城)
  象山の城壁遺跡
  学宮
  新夷県城(平夷県城、【初代】新会県城)

  崖山の古戦場(南宋朝滅亡の地)
  崖門砲台



 象山の城壁遺跡

近代以降の都市開発に伴い、古城時代の城壁や城門などは順次、撤去され、今日現在は東側の馬山沿いと西側の象山沿い(下地図)にのみ、わずかな城壁が残されている。

厚さ3cmほどのレンガが整然と積み上げられた明代建造の城壁は、草で一部が覆われているが、凹凸壁も一カ所、現存するという。

新会区

特に西側の象山沿い(上地図)の城壁上には、清代嘉慶年間(1796~1820年)に配備された大砲が保存されており、その砲身の長さは約 3m、重量 1.5トンという。
今日、この城壁の周囲は公園化され、地元の老人たちの憩いの空間になっている。



 象山の城壁遺跡

象山古城壁遺跡として今日、我々が目にする城壁は、今の象山の北麓にある陡崖の辺りに現存する土壁城壁で、元代の末年から明代初期(1368年)に、堅い粘土と土砂を混ぜ合わせ、何度も打ち付けて地堅めされ建造されたものである(約 500m)。
この新会県城(今の会城エリア)で、最初に本格的な城壁が建造 された当時のもので、城外に掘削されていた外堀から計算すると、その高さは 5~6mもあったという。

土壁建造から間もなくの1397年、千戸将の宋斌がレンガと石材による本格的な城壁の建造に着手する。以後、史書ではこの城郭を旧城と指すようになる。
明代中期の1474年には、新会県長官の陶魯が子城を築城する。

明代後期の1573年、兵備僉事の何子明と県長官の伍睿らが主導して、現地の土豪たちが資金を出し合い、外城(これを新城と呼称される)を建造する。
こうして、新会県城は新旧二重の城壁を有し、その総延長は合計で 4,521mにも至る巨大城郭となる。当時、7つの城門と、大水門 3箇所、小水門が 2箇所、設置されていた。
この新会県の新城は、以後、中華民国時代まで継承され、清代に多少の修繕工事が施されるも、各城門と水門群はともに大きな変化もなく使用され続けることとなる。

新会区

清代の乾隆年間(1736~1795年)に書かれた『新会県志』によると、新会県城は広東省内でも三番目に巨大な城域を誇り、広州城潮州城 に次ぐ規模であったという。

中華民国時代に入ると、都市の近代化が開始され、 城壁の撤去が進められて道路の敷設が促進される。最後まで残っていた北門も 1957年前後に圭峰山へ通じる自動車道路の建設で、ついに撤去されてしまったという。



【新会区の歴史】

今の江門市新会区の地には、新石器時代、すでに人類の生息が確認されているという。
秦代、漢代に中原王朝に併合された後、南海郡に帰属され、ようやく記録に残る人類史に組み込まれることとなった。

三国時代の222年、呉の孫権により平夷県が新設される。県城は、今の江門市新会区司前鎮河村に設置された。これが、現在の新会区で最初に行政都市が誕生した瞬間であった。

新会区

西晋朝が呉を滅ぼした直後の280年、新夷県へ改称される(上地図)。

東晋朝が滅亡し、劉宋朝が建国された直後の420年、南海郡と新寧郡の一部が分離され、新会郡(郡都は盆允県城)が新設される。このとき郡下には、宋元県、新熙県、永昌県、始成県、招集県、盆允県(今の江門市蓬江区杜阮鎮。唐代の 735年廃城)、新夷県、封平県、封楽県、初賓県、義寧県、始康県の 12県城が配された。その戸籍人口は 1,739戸、10,509名を有したという。
ここに、「新会」の地名がスタートされることとなったのだった。下地図。

新会区

隋代初期の591年、全国で郡制が廃止され、州制へ改編されると、新会郡は允州(593年に岡州へ改称)へ改編され、また同時に、新夷県(今の江門市新会区司前鎮河村)が新会県へ改称される。

隋二代皇帝の煬帝の治世時代の605年、岡州が廃止され、南海郡に吸収合併される。あわせて、封楽県が新会県へ、封平県が義寧県へ併合される(すぐに元に戻される)。

新会区

唐代初期の621年、岡州が復活設置されると、新会県、封平県、封楽県、義寧県の 4県を統括した。

唐代初期の639年、今の会城エリアに新たに城郭都市が 築城される。新会県と岡州役所は共にここに移転されることとなった。上地図。

742年、岡州が義寧郡へ改編されるも、間もなくの758年に岡州に戻される(新会県と義寧県の2県のみ統括した)。 唐末の805年、ついに岡州は完全廃止され、新会県と義寧県は広州に直轄されることとなる。
以後、「岡州」の行政区名は歴史から姿を消すも、後に、この新会県出身の華僑らが世界へ移民し、それぞれの地で同郷会を設立したとき、岡州会館と命名され、州都であった栄光時代の名称が復活することとなる。 今日でも、「岡州会館」は世界各地で見られるという。

以後、広州西部にあって、新会県は、香山(今の 中山市)、順徳、恩平、新寧(今の台山市)、開平、鶴山、斗門、江門などを含む、広大なエリアを統括した。下地図。

新会区

明代に入って、新会県の地位はますます栄華を極める。

明代初期の1371年、新会県城に最初の石積み城壁が建造される(それまでの唐代から続いた県城は、簡易な土壁城壁のみだった)。
その城域は、西は犀山から東は馬山に至る、城壁の全長が 2,178mにも及ぶという巨大なものになる。

明代末期の頃には、城域は会城河の河畔エリアにまで拡大し、これを取り囲む城壁の全長も約 5kmにまで至り、新会県城は当時、広東省下でも屈指の規模を誇るスケールにまで成長していた。その城壁規模は、広州城潮州城 に次ぐ第三位に君臨したという。

この壮大な城壁も、中華民国時代に撤去が開始され、現在では数百メートルのみ残っているだけである。象山古城壁遺跡(今の江門市新会区会城街道あたり)として保存されている。

新会区

清末に新会県内で新寧鉄道が敷設され、さらに中華民国時代に入り、新会区と江門市鶴山市、江門市中心部と 仏山市などで急速に自動車道路網が整備されると、新会県城の北東 10kmの地点にあった江門鎮が交通の要衝都市として台頭し、徐々に新会県からその中心都市の地位を脅かすようになる。

1925年11月26日には、正式に新会県から独立して江門市制が導入されるも、再び、1931年2月26日に新会県に吸収されることとなる。
共産党中国時代の1951年1月12日に江門市が再設立され、1977年9月22日が新会県をも吸収するに及び、その関係は完全に逆転されることとなった。


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