BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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四川省 達州市 宣漢県 ~ 県内人口 130万人、 一人当たり GDP 23,000 元(達州市 全体)


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  宣漢県城
  三国時代の宣漢県城



達州市宣漢県一帯は古くより巴の国に属した。殷商王朝時代に雍州、春秋戦国時代は巴国に帰属し、中国大陸を統一した秦、および前漢時代には宕渠県が設置されている(現在の達州市に 宕渠県役所城が開設された)。
そして、後漢時代の 96年、宕渠県が分割され、北側に宣漢県が設置された。このときも、益州巴郡の管轄下とされる。

達州市宣漢県

間もなく、益州巴郡の郡役所がこの地に移設される。そして、後漢末の 194年、巴郡役所は 安漢(現在の 南充市 の北側)の地へ再移転され、宣漢県は県役所へと降格された。

三国時代の 201年、益州牧の劉璋は漢中にある張魯の最前線として、巴郡を分割して、巴西郡を新設する。宣漢県はここに分類された。
そして、劉備が漢中侵攻を開始する 218年には、巴西郡をさらに分割し、宕渠郡を新設する。宣漢県はここの管轄下に入る。しかし、劉備により蜀が建国された 221年の翌年、宕渠郡は廃止され、再び、巴西郡と併合される。劉禅の時代には、再度、宕渠郡が復活されることとなった。その 9年後には再び廃止され、巴西郡と併合される。


達州市宣漢県

そして、三国を統一した西晋時代の 296年、再び、巴西郡と宕渠郡に分割され、宣漢県は後者に帰属することになる。

南北朝時代の劉宋王朝下の永初年間に、宣漢県が巴渠郡へと昇格され、宣漢県、始興県、巴渠県、東関県、新安県、下蒲県、晋興県の 7県を管轄することになった。このときの郡役所が 宕渠県城(現在の 達州市街区)内に開設される。梁の時代 536年には、巴渠郡が廃止され、万州が新設される。その後も、ほぼ王朝ごとに名称や管轄区が変更されていく。隋唐や五代十国時代には、通州、通川郡、達州に所属する。

達州市宣漢県

さてここで、三国時代におけるこの地の動静について、より詳しく見てみたい。

194年より 父「劉焉」の跡を継いで益州牧となった劉璋により、対漢中の張魯に備えるべく、最前線として巴西郡が設置され、宣漢県はここに属すことになった。

しかし 215年3月、魏の曹操が散関より、武都郡を経由し、漢中に攻め込んで来る。張魯は 弟「張衛」を先発隊として陽平関にて曹操軍と交戦し、一時的に撃退するも、魏将の夏侯淵の奮戦で陽平関を突破される。張魯は降伏を検討するも、部下の閻圃の 進言「追い詰められて降伏しては軽く見られる」との意見を入れ、蜀領内のこの 巴西郡内(現在の 巴中市 付近)に逃走してくる。
劉備は 214年末にようやく劉璋を降伏させ、益州牧になったばかりで、益州領内を完全掌握しているわけではなかった。こうした蜀の混乱期にあって、張魯はこの漢中と蜀の空白地帯に避難することができた、といえる。

達州市宣漢県

この混乱期にあって、劉備から忠義の士として高く評価された黄権が進言する。
「もし、漢中を失陥すれば、三巴(巴・巴西・巴東)の力が弱まることは必至。巴中方面にいる張魯を味方に引き入れるが上策」。

これを受けて、劉備は黄権を護軍に任命し、諸将を率いて、巴中の地にあった張魯を迎えさせようとしたが、先に魏の曹操から懐柔されて、張魯は 漢中 の南鄭に引き返し、北方の曹操に降伏してしまう。
漢中、三巴地区の大部分を占有した曹操は、張魯が改名した漢寧郡を漢中郡の地名に戻し、漢中郡から 安陽・西城の 2県を分けて西城郡とし、錫と上庸の両県を分けて上庸郡を新設して、それぞれに太守と都尉を置いて統治させた。215年9月には、三巴の七豪族のうち、朴胡と杜濩が曹操に恭順している(司馬懿や劉曄らはこのまま体制の整わない劉備の益州全体への攻撃を進言するも、曹操は深追いを避けるべく、早々に撤兵してしまう)。護軍として巴中方面に派遣されていた黄権は、曹操に三巴の太守として任命された杜濩・朴胡・袁約らを撃破することに成功する。あわせて、劉備ら益州成都の本隊は巴郡の鎮圧に注力した。このときに、巴郡出身で人望のあった厳顔の顔が利いたのであろうか。こうした蜀側の動きに対し、曹操は張郃を派遣し、残りの巴東西 2郡の住民を強制的に漢中側へ移住させてしまう(当時の貴重な資源は、租税や物産生産力としての人口が重要であった)。

達州市宣漢県

ここにきて、漢中や益州北部の巴東西を魏に攻略されてしまった劉備は、荊州 2郡(長沙郡・桂陽郡)を呉の孫権に返還することで呉側と和議を結び(215年)、まずは蜀内の国固めを最優先することとなった。その最優先事項は、漢中 と巴東西一帯の魏勢力の排除であった。
この作戦は、すべて黄権が練った作戦と言われており、後に、蜀軍は法正を軍師として漢中侵攻作戦を決行する運びとなる。

益州に隣接する巴東西の両地区に進駐する張郃軍に対峙すべく、劉備は 巴郡江州(今の 重慶市)に滞在する(荊州での呉との和議を締結した直後に長江をさかのぼって蜀に戻ってきた)。と同時に、張飛を派遣し、「張郃」率いる巴東西一帯の魏勢力の駆逐を命じる。張飛と張郃は、巴東西一帯の 宕渠・蒙頭・盪石において、50日以上に渡って対峙を続けた。
そして、張飛による奇襲作戦で、張郃軍は狭い山道の中で前後の軍が連携を取ることがかなわず、壊滅させられる。張郃自身、馬を乗り捨て供まわりの者わずかに 10人あまりと間道を縫って、漢中の南鄭に退却することとなった。こうして、張飛の機略により、劉備は 巴西・巴東の制圧に成功する。

達州市宣漢県

蜀の建国期のこの時期が最も劉備にとって過酷な時期であったと言えたが、法正、黄権らの旧蜀の賢人らの働きにより、不慣れな地理と人材をうまく使いこなして、窮地を挽回することに成功できている。

そして前述の通り、劉備により巴西郡はさらに分割され、今の達州市街区からさらに 45 km南西にある渠県土溪郷城壩村に郡役所を持つ宕梁郡が設置される。益州、巴一帯での統治が落ち着いた 3年後の 218年、法正の建議を受け、劉備は 漢中、武都方面へ進軍することになる。翌 219年には魏軍が撤兵し、この年、劉備が漢中王を宣言することになった。


達州市宣漢県

この地も、現在は城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。東街、神廟街、祠堂街、北街、衛場街、后街、皇廟街、西街、下城濠、西門。


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