BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年4月中旬 『大陸西遊記』~


広東省 陽江市(中心部)江城区 ~ 市内人口 275万人、一人当たり GDP 45,000 元(陽江市 全体)


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  李一族 と 十八子グループ
  陽江城(安寧県城)
  三国時代の陽江市
  旧市街地(九街十二巷)
  日中戦争跡「抗日戦陽江同胞遭難旧址」
  陽西県城
  北津村 と 対倭寇砦跡
  日中戦争跡「陽江・北津馬山の戦場」
  海陵島の 海水浴場



この街は、古来、金物、刃物類の製造地として名をはせてきた。その歴史は、1500年前にもさかのぼる、という。
今日現在でも、1200社以上の製造メーカーが集積し、大陸中国で60 %の生産高を誇り、欧米、日本、東南アジアのマーケットに多く輸出されている(年間輸出量は中国出荷分の80 %を占める)。

この流れからか、街中には欧米風の喫茶店やケーキ屋が多く目についた。また、それらの店内も今どきの小切れな造りで、香港かマカオにいる印象を受ける。しかし、地元民が話す広東語は、また別の広東語の方言であり、この地方特有の言語だ。

海の シルクロード の中継都市として発達した関係上、金物類のほか、陶磁器類の産地としても有名である。さらに、広東料理に欠かせない 調味料「豆鼓」と 凧(たこ)作りの街としてもその名を知られる。

なお、この街でも随一の 大商人「李」氏の子孫は未だに実在しているが(中国の刀物王、李辉正など)、その氏の 姓「李」を分解して、「十」「八」「子」という文字を組み合わせて、「十八子商事」という看板を持つ商店や会社を多く見かけた。すべて同じ一族の会社らしい。

陽江市 陽江市

また、公共バスの路線部マップが各バス亭に貼られているのは、珍しい。中国で初めて目にした。観光客にやさしい街である。

また、高校生も含めて バイク 移動が主となる同市では、余計ににぎやかで活気がある印象である。
メインのショッピング・エリアは、旧城壁都市の東側にある「人民広場(↓)」周辺である。

陽江市


陽江市 陽江市 陽江市
  旧市街地の 中心通り「新華路」   旧市街地の中心広場「新華北路と南恩路の交差点」      中心広場近くの「中山公園」

陽江市 陽江市 陽江市
   現在の城壁都市址の北側の堀川付近          城壁内の 旧市街地の旧家1           城壁内の 旧市街地の旧家2

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    城壁内の 旧市街地の旧家3        城壁内の旧市街地の旧家4        城壁都市の外にあった堀川址

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        旧市街地の通り名が今も残る             宋代建設の塔が残る北山公園に、かつての倭寇襲来の碑が立つ

秦~前漢時代までは、現在の陽江市の行政中心地は、漠陽江をさらに遡った、陽江市陽東県麻汕鎮(大八鎮古城)にあったようである。ここでは、高凉県庁として、ほぼ広東省西部すべてを管轄するための行政都市とされていたようである。

三国時代

211年、呉の孫権は、歩騭を交州刺史に任命し、兵2万を与えて、南下を命令する。歩騭は、蒼梧郡の高要峡口にて、現地の豪族、衡毅と銭鎛を攻撃し、衡毅を戦死させる。そして、銭鎛とその部下たちは、今の陽江一帯の高凉の地まで撤退し、引き続き、反抗を続けた。
219年、孫権は、吕岱を步骘に代わって交州刺史に任命し、銭鎛らの勢力に再度、圧力を加える。銭鎛は降伏し、吕岱は、銭鎛を高凉西部都尉に奉じて優遇した。
220年、孫権は高凉県のうち、合浦郡と高凉郡に分割してそれぞれ統治単位を郡として格上げし、広州の管轄下とされた。その高凉郡の下に、安寧県(今の 陽東市街地)、高凉県(上記の陽江の北部「麻汕鎮」が 中心都市)、西平県(陽江市の 白沙、平岡など)の3県が設置される構図となった。そして、この高凉郡の行政府は、安寧の地とされた。 238年、孫権は高凉郡西北部に高興郡を設置し、さらに統治単位を細分化した。しかし、これ以降、南部海岸戦では海賊行為が頻発し、人々の生活を圧迫することになった。
呉が晋に降伏後の 285年、高興郡は廃止され、再び高凉郡に編入され、安寧県に郡都が戻された。


陽江市

そのまま歴史の記述から空白の期間を置いて、 980年前後に丁氏王朝としてベトナム勢力が中国華南に延伸された際、1097年に、この陽江一帯を統治するにあたり、もともとあった「南恩州の州統治機構館」跡に、土をもって城壁とする城壁都市が築城される(この時に掘られた穴が、堀川となっている)。その形はほぼ円形で、長らく「陽江土城」と呼ばれることになる。おそらく、城門や城壁上は、このころすでに石組であったものと考えられる。城壁の全長は 3 km弱。これが、現在の陽江旧城壁都市である。

そして200年後の元代 1297年、土壁では防御力に難ありとされ、外側の城壁部分が、竹で更に壁が補強される。このころ、「陽江簕竹城」という通称になったらしい。 

現在、かつての堀川のあとは、遊歩道となっていた。北側から東を通って南側まですべて残る。また、かつての城壁は1929~36年の間にすべて撤去されたらしい。

かつての城壁都市の名残が感じられるものとしては、旧市街地 に残る路地名や旧家屋類のみである。

【陽江 九街十二巷】

 九街:本院街、永富街、錦繡街、横石街、蘇屋街、馬屋街、州背街、卜巷街、水埒街
十二巷:羊咩巷、盲婆巷、甜酒巷、攀桂巷、東辺巷、牛角巷、丁屋街、榕樹巷、瓮垌巷、
    高屋巷、呉屋巷、東関巷

陽江市 陽江市 陽江市

陽江市 陽江市 陽江市

陽江市

また、城の南門より南部は昔から工場地帯であったようである。ここに 日中戦争 の際、日本軍が攻めてきて、工場内に人を閉じ込めて虐殺した、という場所が、廃工場の草むらに中に石碑として記憶が残されていた「抗日戦陽江同胞遭難旧址」。その前には、池が連なるが、かつてこの池にボットン便所として使用したトイレがそのまま残されている。中国の集落には、からなず、中央部か前面に池があるが、風水的な意味合いとともに、トイレ、洗濯、入浴、魚類の養殖などを兼ねていた。

また、下の写真は、城壁都市の西側の河川地帯、渡船埠頭址のもの。漠陽江の水の流れは意外に速い。川べりには漁師たちの住居と船が橋でつながった形式の家屋街がたくさん見られた。また、右写真は、市街地東部に広がる農村地帯。この陽江市陽東県一帯でも新築マンション開発の立ち退き騒動で、複数の農民たちが暴行を受けたらしい。

陽江市 陽江市 陽江市

視野を広げて郊外を見渡すと、陽江市は、海から10キロほどしか離れておらず、たびたび、海賊「倭寇」の襲来や外国船の侵入を受けたようである。陽江県城の南の河口付近一帯(北津村など)は海の シルクロード の航路上にあり、当時ではかなり栄えていた港町だったらしい(今ではその面影が全くない)。その港町の住民が避難、自己防衛するための要塞として山上に土塁を築いていたものが、「北津城」ということになる。
現在、山上に地元の廟寺を祭っている。ただし、地元の「北津村」の人々に話を聞いても、誰も砦址については知らなかった。
陽江市内の人民広場横のバス停から、②バスに乗り終点まで。そこから、バイクタクシーで10元。もしくは、2時間に一本ある「農村直通バス」で、陽江市陽東県中心部との間で往復バスあり(片道4元)。

陽江市

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地元の住宅地では農業と漁業に専業する住民たちが棲み分けして、共同生活で集落を形成していた。古い建物が多く残る。農道には水牛が寝そべったり、鶏が群れで通行中だったりと、家畜たちとの共存生活がそのまま続いている。

倭寇は海岸線を荒らしただけでなく、河をさかのぼり、その周辺の都市や民家集落を襲っていたことが分かる。それにしても、日系の倭寇が中国華南のこの地までわざわ略奪に来た、というのはにわかに信じられない。おそらく、中国福建や華南の海賊たちによる略奪行為が「倭寇」という名で称せられたのであろう。


そして、ここにも 日中戦争時代、日本軍が来たようである。 1945年7月18日に、「陽江、北津 馬山の戦い」という記念碑が道沿いに残されていた。この碑文自体は、馬山の向かいの牛山の麓にあり、馬山はこの一帯では最も高い山であった。きっと今見るこの農村風景も戦火に蹂躙されたの違いない。

陽江市 陽江市
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それにしても、この農村地帯は、本当に空気が良かった。市街地では全く聞こえなかったセミの鳴き声が、ここでは5月第一週目の訪問時、たくさん聞こえていた。

余談だが、日中戦争時の戦場となった跡地には、立派な石碑が建てられて記念されているのに、同じ草木しか残っていない、より歴史の長い砦跡とか城郭址には何の記念碑や案内版も設置しないところに、政治による歴史世界への介入度合やプロパガンダの威力を垣間見れた気がした。


また、この陽江地域の特徴として気が付いたのは、どの家や商店、物置などの建物という建物には、その柱、扉に写真のようなオレンジ色の願が掲げられていた点である。

陽江市 陽江市 陽江市


他方、大潤発(RT-MART)という巨大ショッピングモールが、陽江市では特に、目に着いた。この企業は、もともとは1996年設立の台湾法人「台湾潤泰集団有限公司」。外資系の小売店ではカルフールに続き中国第二位、大陸中国のチェーン展開ブランドで堂々7位に君臨する大手デベロッパー兼小売業者である。陽江市民に最新ブランドや流行に触れさせてくれる「世界の窓」的な役割を果たしているように感じられた。それぐらい、他にショッピングモールやブランド店がないのである。

また、この街には日本料理屋も意外に多い。店内も大盛況であった。決して価格は安くはないわけで、この地域の人々の所得がある程度高いことが分かる。先に指摘したように、消費できるブランド店などが少なすぎるということであろう。大手の小売業者にはビジネスチャンスありの都市ではないだろうか。市民は、度々、広州へショピングに出かけているようである(バスで片道4時間半)。
市内には、日本人御用達で有名な粤海酒店(Guangdong Hotel)も進出していた。場所が悪く、目立たない場所にある(しかし、先の大潤発ショッピングモールから徒歩3分)。

陽江市 陽江市 陽江市


なお、陽江市の西部、陽西県 の川べりにある、太平村には、かつて、陽西太平古城が存在していた。 1566年に、一周 1022メートルの城壁を持つ城壁都市が築城された。東西に城門を有した。清代の1731年に、華南地帯の総督「郝玉麟(?-1745)」がこの城を視察し、以後、度々、修築される。清代末に廃城となった。今でも、かつての城壁がわずかながら残存する。

陽江市


最後に、陽江市は南部に海が広がり、その南側にでっぱった島「海陵島」は海水浴場として有名。市内から15分に一本の割合でバスが出ていた。


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